また新しい四月がきて、制服のスカートを少しだけ切った。親指とひとさしゆびを少し開いたくらいのほんの数センチの差はそれでもわたしの心をずっとうきうきとさせて、どうせなら冬からずっと伸びた髪も切ってしまおうかって、胸のあたりではねる毛束をひとつ摘まんではそんなことを考えていた。
 スピーカーから流れる擦り切れたようなチャイムの音を区切りとして、先生が形式的な礼を済ませて、押し込められた喧騒が戻ってくる。にこにこしながらお弁当箱を持ってきたさつきちゃんに「今日はお昼に図書委員があるの」と告げると、彼女は本当に残念そうな顔を浮かべて、それでもすぐに「いってらっしゃい。頑張ってね」と可愛らしいお花みたいにほころんだ。わたしよりもずっと短いさつきちゃんのスカートは、まるでオーダーメイドのようにとても彼女に似合っている。もしもわたしが、彼女のような誰もがうらやむ胸やおしりを持っていたなら、この引っ込み思案なとこだってちょっとはましになったかもしれない。
 そんなことを考えても、しかたないのだけれど。
 大きく手をふる彼女の後ろにある掛け時計が集合の五分前を指していて、わたしは小走りでいろんな色の声のする廊下を駆けた。



 ほぼ自主参加制になっているお昼休みの図書委員会に出るのはわたしを含めてほんのわずかだ。お昼を食べる時間が減るし、他の委員と比べてやることも少ないから、当たり前といえばそうかもしれない。
 図書室のゲートを抜けるとたくさんの本の匂いが鼻をかすめた。先週から借りていた親指くらいの厚さの小さな文庫本を返却棚に返して、わたしは意識的に彼を探していた。人ごみならまだしも、人ひとりっこいない図書室で彼を探すのはそう困難でもなく、声をかけようとしたわたしより先に気づいたらしい彼は薄い笑みを携えて小さく目配せした。
「おはよう黒子くん」
「おはようございます。どうやら今日も二人みたいですね」
「そうみたいだね。でも黒子くんがいてくれるから心づよいよ」
「ありがとうございます。時間も短いですし、頑張りましょうか」
 黒子くんはわたしと同じ図書委員だ。この三年間同じクラスになったことはついぞなかったけれど、ずっと一緒に図書委員をやってきたし、彼はお昼の委員にも毎回参加してくれているからそれなりに面識があった。彼はこの帝光中学でも頭ひとつ抜けて名高いバスケ部に所属していて、高いところに本を直していく彼の制服から見え隠れする手首はやはり引き締まっている。
 今日は昨日にくらべて暖かいですね。黒子くんは春が好きそうだね。はい。今の気候が一番動きやすいですから。冬はともかく夏場の体育館は地獄です。それは考えたくもないなあ。
 そんなとりとめもない会話をしながら、二人で本を整えていく。わたしより十センチほど背の高い彼は自然と上の棚を担当し、わたしはあまり手のつけられていない下の棚を並べていた。こっそりと黒子くんを見上げると、人の視線の動きに聡い彼はそれでもすぐにわたしに気づいて、どうかしましたか? とやさしい声を投げかける。わたしはあわてて否定する。そのまま本棚に視線を戻した彼は、きっと赤くなったわたしの頬にも気づかない。
 もうきっかけも覚えていないけれど、わたしはずっと黒子くんのことが好きだった。少しだけ短くしたスカートのことを、彼は気づくだろうか。髪を切ろうと思うんだけど、黒子くんはどっちがいいと思うかな。伝えたいいくつもの話は、それでもわたしの喉を上りきらずに深く落ちていく。わたしがもっと口上手であれば、それとなくうまく会話に忍ばせることだって、できたかもしれないのに。
「もうこんな時間だから、今日はそろそろ終わりにしようか」
 伝えられなかった言葉の代わりに口をつついて出てきたのはそんな言葉だった。彼は気づかなかったというようにあわてて時計を見遣って、そうですね、とつぶやいた。
「時間を見るのをすっかり忘れていました。これ、ノートです」
「ありがとう。じゃあ今週はわたしの番だね。おつかれさま」
「はい、お疲れ様でした」
 わたしはもう少しここにいるから、と彼の背中を見送ってから、わたしはすこし緊張しながら渡されたノートを開いた。週に一度のこの委員で交わされる『図書委員ノート』と記されたタイトルのノートは実質わたし達二人の間でしか機能しておらず、いつしかそれは活動記ではなく交換日記のようなものになっていた。黒子くんの丁寧な文字が線と線の間にびっしりと埋められていて、わたしはそれをうれしく思いながら必死に目で追いかける。好きなバンドが新曲を出したこと。コンビニで買った新商品があたりだったこと。提出物をすっかり忘れていたこと。そんなとりとめもないことを書かれたこのノートが、わたしの何よりの宝物だった。
 すべて読み終えて、なんとなく前のページをぱらぱらと眺める。レギュラーに選ばれた。地区予選で勝った。全中で優勝した。僕はまだまだ下手ですけど、これからも頑張ろうと思います、と謙虚ながらも力強い言葉を添えた以前の記事はいつでもバスケ部のことが綴られていて、わたしはそれをずっと応援していた。内に抱いているものに対して外に出すものがとても少ない彼が、それでも少しだけ楽しそうにバスケのことを話して、そんな彼の姿を見るのが好きだった。
 そんな彼は、もうずっとバスケ部のことを書いていない。
 向こうで人が来る気配がして、わたしはあわててノートを閉じて、図書室を後にした。やがて教室に戻って、教卓の横の、丸いドーナツのような輪の中心にいたさつきちゃんが「おかえり」と迎えてくれるまで、わたしはずっと黒子くんのことを考えていた。





 六月は雨と初夏の香りがした。テスト期間中は午前授業だから、昼を過ぎた校舎はいつもより閑散としている。のっぺりとした低い雲に覆われた梅雨の空から落ちた雨粒が、窓をひっかくように濡らしていた。
 昼からの二者面談を終えたわたしは、なんとなく帰る気にもなれず、図書室へと向かっていた。志望校が揺らいでいることを指摘されて、とりあえずでも勉強しなければという気持ちだった。
 そうしていつものゲートを超えたところで、思わぬ姿を見つけて、驚きが口をついた。
「黒子くん」
 わたしの声に寄せられるように、彼は視線を持ち上げた。どうしてだかひどく憔悴しているように見えて、少しだけ息が詰まる。全中の試合は順調に勝ち進んでいるとさつきちゃんは言っていた。帝光のバスケ部は負けを知らない。
 そのまま彼の前に腰掛けると、お疲れ様です、と彼は囁くように言った。
「どうせだから勉強して帰ろうと思って。……黒子くんは志望校、もうきめた?」
「はい。僕は誠凛高校にしようかと」
「誠凛かあ。どうして?」
「すごく楽しそうにバスケをしていることを、この前偶然、見かけたので。いいなって思ったんです」
「そっかあ。やっぱり黒子くんは高校でもバスケを続けるんだね。よかった。全中の試合も頑張ってね」
「はい……ありがとうございます」
 力なく言った黒子くんが、ふと泣きそうな表情をした気がして、胸のなかで沸いた焦りにも似た感情がからだ中をぐるりと回った。なんとなく話題を変えようとわたしの手は自然と鞄の中を探って、指先がノートに触れると、わたしはずるく安心した。
「ちょうどよかった。これ、もう渡しておくね。テスト期間中だからしばらく委員もないし、黒子くんが忙しくないときで大丈夫だから、」
 なんとなく続く言葉が見つからずに、宙ぶらりんになったわたしの声に、黒子くんはまた謝罪を重ねて、大切にノートを鞄にしまいこんだ。そうして空っぽになったわたしの手のひらは、行き場を失ったように胸の下で内側にはねた毛先をいじる。結局四月から踏み切れずに伸ばしたままの髪は、湿気をたっぷりと吸って、どうにも重々しかった。
「あの」
 細く頼りない糸をぴんと張ったような声に、わたしはおどろいて彼を見た。黒子くんは珍しく言葉を選ぶように、わたしの髪のはねたところをぼんやりと眺めていた。
「いつも応援してくれてありがとうございます。それから、」
 深く息を吸う音が聞こえる傍で、わたしはぴたりと息を止めて、彼の言葉の先を覗き込もうとした。握りしめた手のひらがじわりと嫌な汗をかく。下向きの彼の視線は、それでもゆっくりとわたしの目をとらえると、懺悔するような響きでつぶやいた。
「すみません、僕はきっと」
 小さな声を掻き消すように、雨が強く降り始めた。



 そうして夏が来て、わたしは少しだけ髪を切った。
 帝光中学校が史上初の全中三連覇達成し、彼がバスケ部を辞めたと聞いたのは、そんな夏のことだった。





 新学期を迎えて、わたしは一度も黒子くんを見かけなくなった。
 机の上に並べた本をわたしは一人で片付けていく。高いところも、低いところも、ぜんぶ。ふと机に視線を移すと、あの日の彼がまだ肩を震わせているようで、どうしようもなく苦しくなった。わたしの言葉は、声は、鋭利な刃物になって、彼を傷つけたりはしなかっただろうか。考えてもしかたないことを、わたしはもう何回も繰り返している。
 部活に行くというさつきちゃんを見送って、わたしは長い廊下を歩いていた。さまざまな色を見せる廊下に、彼の色は見つからない。
 エントランスまで降り、靴を取り出そうとしたわたしは、ローファーの上に乗せられた一冊のノートに思わず目を見張った。だんだん遠くなっていく周りの音に比例するように、どくどくと音を立てる心臓がうるさかった。「黒子くん」口からあふれた言葉が、悲鳴のようにこだまする。あの雨の日に聞いた彼の声が耳鳴りのように浮かんで、されどそれだけがわたしを支えていた。
 震える手でぱらぱらとページをめくる。わたしの記事と彼の記事が交互して、それだけでどうにも泣きそうになる。わたしの最後の記事の隣は白紙だった。薄い線と線の間にはただ空白が敷き詰められている。それでもわたしはページをめくり続けた。
 かけめぐる熱を、散らしたかった。
 曲がって、欠けて、わたしたちが過ごした年月と共にぼろぼろになったノートの、一番最後のページに彼の字があった。いつもと変わらない、少し薄くて丸っこい、丁寧な字が。

 
 ずっと応援してくれたあなたを、僕のバスケが好きだといってくれたあなたを、裏切ってしまってすみません。
 あなたと三年間、図書委員を続けられて本当に良かったです。
 今までありがとうございました。
 どうかお元気で。
 黒子テツヤ


 たって数行の文字の羅列が、どうしようもなく胸を打った。瞼がじわりと熱をもって、鼻の奥がつんとして、それから。



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