みずみずしい春の足音がしていた。春一番の残り風がさあさと木々を揺らす。わたしは部屋の前の廊下に腰掛け、木漏れ日のまだらな影を眺めていた。こうしているとどうしてだか懐かしい気持ちになる。まるでわたしの目を通して見える景色を、わたしじゃない誰かが覗きこんでいるような。いつかのわたしはこの景色に一体何を思ったのだろう。目を閉じる。

「名前」

透き通る丸硝子の風鈴が鳴らしたような、澄んだ声がわたしの瞼を持ち上げた。「斉藤さん」わたしの声に、彼は無駄のないうつくしさを携えて首肯する。

「すまない。少しいいだろうか」
「はい、いかがされましたか?」
「お前に折り入って頼みがある。本来は他に頼むべきところなのだろうが、俺はあんたが一番適役だと判断した。だが、折角の余暇を俺のために費やせてしまうのも些か気が引ける。他用があるなら無論後でもかまわないのだが……」

誰かに私用を頼むとき、斉藤さんは決まって申し訳なさそうに口上に口上を重ねる。いつもは美しい一筋を描く彼の刃が、まるで蝶を追うようにふらふらとするようで、堪えきれずにわたしは吹き出した。彼はどうにも困ったように首をかしげる。

「何か可笑しなことを言っただろうか?」
「いいえ。ふふふ。何でも伺いますのでどうぞ遠慮なくおっしゃってください」

安堵したように彼は息をつく。そうか――と彼は言葉を選ぶように、それでも意を決したのかわたしをまっすぐに見据えて、言葉を放った。

「髪を、切ってもらえないだろうか」




透徹の海




ちり紙を敷いたその上に斉藤さんは腰を落とした。背筋が天にぴんと伸びている。彼の所作はいつだってうつくしく、迷いがない。
髪結い紐の結び目に手を伸ばす。切ってしまうのが勿体無いほどのうつくしい髪だ。思わず声にもらすと、「構わん」と彼は目を閉じた。鋏の立てる音に伴ってはらりと毛束が落ちてゆく。

「皆さまの洋装が届いていましたね」
「ああ。一度着てはみたものの、西洋の服はどうにも仕組みがわからぬ。だがそれも新撰組の意向とあらば致し方あるまい」

眉を寄せて、困惑したように彼はため息交じりの声を漏らした。慣れない服に四苦八苦する斉藤さんを想像し、心の中で微笑んだ。ちょきん、と鋏の鳴らす軽快な音に続くように、指の間を斉藤さんの髪がするりと抜けていく。

「戦いの折に、このような長い髪はお邪魔にはなりませんでしたか?」

取るに足らない素朴な疑問だったのだが、斉藤さんはふむ、と考えこむように顎元に手を当て、「考えたこともなかったな」と呟いた。その傍らでわたしは居合いの際にたなびく彼の髪を思い出していた。彼の動きに合わせて流るるように弧を描く髪は、どうにもわたしの目を惹きつけた。それは彼の立場を不利にするものでもなければ、それを補って余りあるほどに彼は強い。


お天道様が傾いて、部屋に入りこんだ日差しが暖かかった。春の訪れを告げていた。

「もうすぐ春ですね。今年の冬はとても厳しいものでしたから、少しでも暖かい日が続くといいですね」
「……そうだな」

やや眠たそうな声で斉藤さんは呟いた。数名の幹部が抜けている今、彼は昨夜も遅くまで職務を全うしていたに違いない。十分な睡眠を取ってほしい言えど彼はまったく耳を貸さない。自分を省みない彼がいつか壊れしまうようで、わたしはそれがどうしようもなく怖い。

「斉藤さん、せめてこの間だけでもどうかお休みになってください。できましたら起こしますから」
「ならぬ。お前に手間を掛けさせているのに、俺だけが惰眠を貪ろうなど」
「いいえ、いけません。ほら目を閉じてください。そうでないと、わたしおこります」
「……何故、お前が怒る」
「なんでもです」

頬をふくらますわたしに観念したのか、斉藤さんは静かに目を閉じた。静寂が部屋を占める。平穏な沈黙が心地よかった。


「お前の手はあたたかいな」

囁くような声に手を止める。普段は白い襟巻きに隠された、細くすっきりとした首元が覗いていた。

「このように誰かに髪を触られたのは初めてだが、案外心地のよいものだな」

透明な声がいつくしむような言葉をつむぐ。暫くして、かすかな寝息が聞こえてきた。わたしは鋏を棚にしまい、ちり紙をくずかごにいれて、そっと斉藤さんの背中にもたれかかった。おやすみなさい。どうかいい夢を。開かれた障子から入り込んだ微風が、すっかり短くなった彼の髪を揺らしてはどこかに消えた。




とう‐てつ【透徹】澄みきっていること。透きとおっていること
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