丸い桶の中の水が赤く染まっていくのをぼんやりと眺めていた。桶の水はもう元の透明さなんて思い出せないほどに濁っている。鉄の匂いが鼻をついて、こればかりはどうにも慣れない私は思わず顔をしかめた。うつくしい浅葱の色は、いまや見る影もなく水の中をたゆたう。私の背を覆うほどの大きな羽織にこびりついた血は、何度水にさらしても落ちない気がした。

沖田さんの羽織は彼が帰ってくるたびに血で汚れている。血に染められた浅葱色が、たくさんのひとを、斬ってきたのだと主張する。彼はその羽織を隠すこともせず、「はい、お願いね」と託しては無邪気にわらうのだ。私がびくりと背をふるわせるものならば、それこそ彼は悪戯が成功した子どものような笑みをうかべる。はい、と首肯する私はきっと笑えていない。



やっと水が透明になったころ。気がつけば夕時が近づいていた。昼間よりも伸びた私の影を、誰かが踏んだ。

「ねえ君」

条件反射で振り返る。そこにいたのは沖田さんだった。その整った顔に微笑を貼り付けて、彼は言葉を続ける。

「おつかれさま。綺麗になったね、それ。やっぱり君に頼んだのは正解だったかな」
「ありがとうございます。乾いたら、お部屋までお持ちしますから」
「うん。ありがとう」

彼は心なしか上機嫌だった。後ろに結わえられた髪が夕焼け色に染まって、私はそれを純粋にうつくしいと思った。
彼は自分の羽織がぎゅっと絞られ、干される一連の流れを見届けるように眺めていた。私は気が気でない思いで、粗相のないようにと羽織を竿に通す。わたしの背丈よりも大きく見える羽織が、はたりと風になびいていた。自らが新撰組であることを主張する、誠の字。


「ねえ、昨日は何人斬ったと思う?」

私の下向きの眉にも気づかないふりをして、あるいはそれを楽しむように、彼は言葉をつむぐ。彼はどこまでも無邪気だ。うつむいた視線の先の桶の水が夕日に照らされて、その朱は洗い流したはずの血を連想させた。

「あてずっぽうでいいよ。当てられたらいいものあげる」

どこまでもマイペースに話を進める彼に、わたしはかたっぽだけ脱げた靴のように取り残された気持ちになる。「五人くらい……ですか?」囁きほどのわたしの小さな声にも彼はすばやく反応し、あはは、と笑って見せた。

「残念だけど、はずれ。でも努力賞くらいはあげてもいいかな。おいで」

声に導かれたわたしの手のひらをとって、彼はなにかを握らせた。和柄のかわいらしい包みに入っていたのは金平糖だった。「あの……」お礼を言わなければと顔をあげたとき、彼はすでに背を向けて、ずっとむこうを歩いていた。遠くで、誰かが夕食の時間だと声を張り上げた。







ひとり中庭にいた沖田さんを見つけたのは、すっかり乾いた羽織をお部屋までお持ちした後だった。昨日の金平糖のお礼を言いそびれた私は、彼の元へと駆けようとする。その瞬間だった。彼は見たこともないほどに強く堰込み、立つこともままならないのかその場にひざまづいた。どうしようもない震えと畏怖にとらわれながら、私は声をあげる。「沖田さん――!」

私を視線だけで捕らえた沖田さんは、しまったというように苦痛に重ねて顔をゆがめる。そのまま私を制するようにあげた彼の右手が力なく地面に落ちると同時に、彼はこらえきれないように何かを吐きだした。あざやかな赤い色。口元をつたう、ひとすじの、血。からだが張り詰めていくのがわかった。ぐっと喉が詰まって、なにかがせりあがってくるかのように熱い。

「わた、わたし、―ー」

誰かを呼んできます。そう言おうとして、私は踏みとどまった。心の中で自問する。はたして彼はそれを望むだろうか。
彼のこんな姿を、私は今までに見たこともなければ聞いたこともない。医学に長けていなくたって、それがただの風邪などではないことは一目瞭然だった。もし隊長の身に何かあるとすれば、それは隊士の知るところにもなるだろう。つまりは、今私は知る立場にないということだ。それに、彼はきっとこんな姿を他人に見られるのを嫌うだろう。

ぎゅっと手のひらをにぎると妙に汗ばんでいた。彼の視線は私をここに縫い付けるかのように鋭く、冷たいそれは銀色に研ぎ澄まされた鋭利な刃を連想させた。彼の元にひざまずき、懐から木綿の手ぬぐいを取り出す。差し出した手が震えていた。

「沖田さん、これを」

翡翠の眼がふたつ、刺すように私を捉えた。きれいな栗色の睫毛だけが苦痛に揺らいでいた。

「使ってください。お願いします」

半ば押し付けるようにそれを渡して私は立ち上がった。どうしてだか涙が出そうだった。ぼやけた輪郭をなぞろうとしても、彼がどんな表情をしているのかわからず、わたしは小さく礼をしてその場を走り去った。どうしようもなく胸が苦しい。透明な水を張った桶の中が赤く染まっていく映像が、頭から離れなかった。







すっかり短くなった蝋燭が心許なさげに部屋を灯していた。京の夜は湿気が多いからどうにも好きになれない。結え紐を解きその長い髪に櫛を通すと、はらりと髪の一束が頬に張りついた。いつの日か、綺麗だねと褒めてもらったこの髪が少しだけ好きだ。あの日を境に髪を伸ばし始めた私のことを彼はきっと知らない。

「名前ちゃん。入るよ」

言うが早いかがらりと障子が開かれる。ついぞ反応し損ねた私の声は暗い部屋の中に淡く溶けていった。白い鉢巻と浅葱の羽織は壬生狼の証。「沖田さん」とようやくつむいだ私の声に応えるように長い鉢巻がひらひらと空を舞っていた。


「あの、具合はいかがですか」
「さあ何のこと?僕はいたって元気だけど」

彼は微笑んでいる。まるで、私が昼に見たことは夢だったとでもいうように。ふたつの瞳だけが冷ややかに、どこかうつろな視線が現実を見透かしていた。

「あの場で誰も呼ばなかったことを褒めてあげる。君は賢いね。でも昼間見たことはさ、うん、忘れてほしいんだ。そうでもなければ僕は、君を斬らなきゃいけない」

その言葉が冗談などではないことを私は良く知っているから、出来る限り大きく頭を振った。誰にも言わないでほしい、ではなく、忘れてほしいと彼はいった。つまりはそういうことなのだろう。いい子だねと私の頭に手を伸ばす彼は、そのまま私を見据えると、

「君の願いをひとつだけ叶えてあげる」

まああんまり大きなことはできないけどね。でも、君を一日外に出すくらいならできると思うけど――。そう続けて、細く長い指先が私の髪を絡め取る。そのまま手弄りを続ける沖田さんは、そのまま独り言のように続けた。いつもあんな顔で見送られちゃ、僕だって少しくらいは心が痛むんだよ、と。
彼の目には、私が外の世界を羨んでいるように映っているのだろうか。私はただ祈っているのだ。どうかその美しい羽織が彼の血で染まることがないようにと。この治安の悪い京の町で、それを願うことがどんなに贅沢であるかを、分かっていながら。

「私、沖田さんの羽織が着てみたいです」

不意に口をついて出た言葉に、驚いたのは私だけじゃないようだった。沖田さんはどんぐりのような丸い目をぱちりとさせて、それでもすぐに困ったように眉を下げた。

「ごめんね。君は隊士じゃないから、それは叶えさせてあげられない」

分かっていたことだった。その羽織には、意味があるものだから。だから私は笑って応える。
彼はうつくしく微笑むと、おいで、と私の手首を引いて自分の胸に寄せた。戸惑う私の視界が彼の羽織で包まれる。ふわりと香る石鹸と、日向の香り。それから、彼の――。


「さっき、君に渡された手ぬぐいを洗ったんだ。君がいつも使ってる、あの桶でさ。透明な水が赤くなっていくのを見ていると、なんだか気持ち悪くなった。でも僕はこの先も、人を斬ることをやめられないんだろうね」

蝋燭の影が、水の波紋のようにゆらりと波打った。





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