『 いかないで 』

 夏よりもいくらか乾いた秋の風がひとつ、微睡んでいた意識を揺り動かした。そうして目を覚ましたその先で、総司さんがやわく微笑んでいて、彼の後ろで、記憶よりもずっと赤くなった陽が、草花の上に寝転がるわたしたち二人を照らしている。
「ごめんなさい。わたし、あれからずっと寝ていたのですね。いまご飯を――」
「まだだめだよ。お腹だってそんなに減ってないから、今日はもう少しこうしていようよ」
 それじゃあ、すこしだけ。じきに冷たい風がやってきますから、夕陽の先があの山にかかるまで。
 気づかぬうちに、まるで幼い子どものように総司さんの着物の衿を掴んでいたわたしの手のひらの上に、彼はそっと手を重ねた。ふたりだけの体温を持った手のひら。指をからめて、じゃれあうように頬と頬をすり寄せ、くすぐったいと笑うわたしに彼は小さなキスを落とす。
 季節を告げる風の音と、子守唄のような川のせせらぎ。色とりどりの草花に囲まれ、やさしい色をした、誰も知らないわたしたちの小さな世界。人口はふたり。今はそれだけでいい。

『 いかないで。
いかないで。総司さん 』


「君は、夢の中でも泣くんだね」
 永遠のように思えた時間は、されど長くは続かなかった。
 彼の笑顔は、悲しいような、そんな色に落ちて、わたしの心に深い影を落とす。
「泣き虫な君の涙を、ずっと傍にいてせきとめてあげたいのに、その涙を流させているのは僕なんだ。そうしていつか、君の涙を拭うことすらできなくなる日がきて、君が泣いていることにだって、誰も気付かなくなるかもしれない。だから今のうちに、僕がたくさん君を慰めてあげないと」
 夕陽はだんだん欠けおち、今日という日が終わっていく。きっと季節は居心地のいい秋を通り越して、すぐに冷たい冬をつれてくる。その間にも彼を巣食う病は、彼のいのちを毎日少しずつ、だけど確実に奪い去っていくのだ。そうしてまた春がやってきても、総司さんはわたしの傍にいてくれるだろうか。
 あやすような彼の指が、わたしの瞼のふちに張りついた涙の跡を撫でた。あたたかい体温が、またわたしの涙をつれてくる。
 残された茶碗のなかのご飯を見て唇をかみ締めるわたしを、夜、あなたの咳一つですぐに目を覚ましてしまうわたしのことを、あなたは笑うだろうか。そうしてわたしが流す涙を、あなたはいつまで拭い取ってくれるのだろうか。
「死ぬ覚悟は、もうずっとできてるんだ。でも君をひとりぼっちにしてしまう覚悟は、いつまで経ってもできやしない」
 瞼がじわりと熱をもつ。鼻の奥がつんとして、突き刺すような夕陽の赤がにじんでいく。そんなわたしを、彼は慈しむように笑う。

「僕は今、君の傍にいる。だからどうか泣かないで。僕の可愛いお嫁さん」
 陽だまりの春に眠る花のような、あたたかい声が降り注ぐ。
 わたしの涙をやさしく掬う、彼の右手のひとさしゆび。
 そして、生涯彼だけを愛すると誓った、わたしの左手のくすりゆび。


plan by 美しく夢を見る


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