年を重ねるにつれて忘れていってしまうことなんて山ほどある。幼い頃当たり前だったものが、じわじわと思い出の彼方になっていくのだ。そして、しまいには忘れ去られてしまう。――それは真夏のプールも例外ではなかったらしい。

この間、物置を片付けていた母さんが小型プールを見つけた。小さい子が使う、自宅用のビニールプール。一体何年前の物だろう。幼稚園の頃は夏がやってくるのが待ち遠しいくらいにこの小さなビニールプールが大好きだった。小学校に上がってからは、友達同士で市民プールへ行ったり、夏休みに開放される学校のプールに行くようになったからもう長いこと物置に放置されていたのだ。
「もう使わないでしょ、捨てるなりしまっておくなり自分で決めて」と、折り畳まれ埃まみれになったビニールプールを母に手渡され、どこかノスタルジックな気分が胸の中でざわつく半面、その情けなくしぼんだ姿に申し訳なくなっていた。存在なんて、すっかり忘れてしまっていたのだ。


そんなわけで、蝉の大合唱が響く庭でじわじわと午前中独特の日差しに首筋を焼かれながら、気まぐれに件のビニールプールを広げていた。今時縁側なんかある家だけに、庭は広い。青に近い緑色のビニールプールには、亀やヒトデがなんとなくアメリカンコミックを連想させるようなおおげさなタッチで描かれている。さて空気を入れてやろうと用意しておいた空気入れを掴むと、生け垣の向こうで短パン姿の守くんが「おーい」と手を降った。太陽に負けないくらいの笑顔で、片手にはいつものサッカーボールも一緒だった。


「あれ、なんでプールなんか出してるんだ」
「たまたま見つけてね。懐かしくなっちゃって。覚えてる?」
「あー…なんとなく、思い出したかも」

しゃがんだ守くんが、広げられたビニールをぱんぱんと叩いた。
うんと小さい頃の私と守くんは、こんな暑い夏の日は決まってうちのプールで遊んでいた。サッカーで目一杯汗をかいた後、お昼を食べて、プールで遊ぶ。そして夕方はまたサッカー。何の気がかりもなかった幼い頃の夏。サイダーの泡のように、思い出が浮かんでは弾けていく。


思ったより小さいのと、守くんが手伝ってくれたのとで、ぺらぺらのビニールはあっという間に小さなプールになった。ホースを伸ばして水を入れれば、きらきらと太陽の光を映しきらめく。隣で守くんは何度も「懐かしいなー」と呟いていた。
小さい頃は、まるで大きな海のように感じていたプール。しかしこの年になって見てみると、海とは程遠いように感じた。水は膝までは来ないほどの浅さで、両手を広げたくらいの幅しかない。時の流れとは、恐ろしいものである。


「さすがに泳げないよなぁ」
「なんか、プールが縮んじゃったないかって感じ」
「俺達がでかくなったんだろうな。すっげぇや」

暑さで少し汗を滲ませ、守くんが笑う。つられて私も笑った。十年近くの歳月を越えた不思議な空間が、そこにあるような気がした。


冷やした麦茶に氷を入れ透明なグラスで飲むのは格別で、そろそろお昼時なのもありそうめんを啜りながら、縁側に座った私と守くんはお互いの読書感想文を読みあいっこする。そんな私たちを見守るように、小さなプールは静かに水面を揺らしながらきらめいていた。

「守くん、『難』と『勤』間違えてるよ」
「えっ、マジで?」

ずるずるとそうめんを啜って目を丸くする守くんがなんだかおかしくて、思わず吹き出してしまう。守くんは「なんだよー」と咀嚼しながら唇を尖らせた。夏休みはいつもこうやって、二人で宿題をするのだ。大抵私が守くんに教えてあげる形になるけれど。


「だいたい俺、あんまり本読まないから感想とかよくわからないんだよなァ」

ごちそうさまでした!と守くんは手を合わせる。真っ白なそうめんの山は、すっかり守くんと私の胃の中におさまってしまった。

ふうと息をつきながら、ごろりと身体を倒す。守くんも、日に焼けた腕を伸ばして横になった。どこまでも広がる青い空と白い雲とが眩しい。五月蝿い程の蝉の鳴き声と生け垣の緑とが相俟って、まさに夏真っ盛り、と言わんばかりだ。

「なんか、いいよね」
「お?何が」
「こうやってさ、夏休み真っ盛りに縁側でごろごろしたり、のんびりできるのって。しあわせ」
「それだけか?」
「え?」

守くんはずずいっと私に近づいて顔を覗き込んだ。…あ。

「守くんと一緒にいれるのも、しあわせです!」

へらりと笑いながら言うと、守くんもうんうん、と満足そうに笑った。なんでだろう、守くんといると、自然と笑顔になってしまうんだよね。

「なんだかずっとこうしてたいよ、私」
「でもさ、女子は日焼けすると嫌なんだって、夏未が言ってた」
「私はいいよ、守くんとおそろい」

ほら、と私の腕と、守くんの腕とを比べる。どちらも健康的に日に焼けている。だけど、やっぱり私の方が細っこくて、守くんの普段はユニフォームでわからないけども、鍛えられた腕が随分と逞しく見えた。小さい頃は、そんな風には思わなかったのにな。

守くんは、しばらく私達の腕と、私の顔とを交互に見ていた。すると突然「よし!」と叫び、ぐいと私の手首を掴んで起き上がった。

「わっ!な、何、守くん」
「名前、せっかくプールがあるんだ、遊ぼうぜ!」
「え、ちょっと、待ってって、」

守くんは私の腕を引きながら裸足で駆け出す。そして横抱きにされたと思った途端、勢いよくプールに飛び込んだ。ばしゃりと水が跳ねた。視界が、きらきらと光る青い水でいっぱいになる。海だ。直感的にそう思った。しかしあまりにも唐突で頭がついていかない。やっとの思いで水中から顔を出した。

「…ぷはっ!うっ、ま、まもる、くん、はぁっ、」
「うわーっ冷てぇ!」

守くんも私も全身びしょ濡れになりながら、顔を見合わせた。重くなった衣服。水に腰が浸かり身体中がひんやりと気持ちいい。守くんの髪が、頬に張り付いている。まだ信じられない気持ちだったけれど、すぐに笑いが込み上げてきた。なんだって守くんは、いつも突然なんだから。

「はは、ごめんごめん」
「もう、びっくりだよ」
「いいじゃないか。狭いけど冷たくて気持ちいいぜ!」

それにな、と守くんは付け足した。小さなビニールプールに中学生二人は厳しいらしく、脚が絡むように折り重なる。そんな窮屈ささえも今は心地好い。

「なんか、懐かしいじゃん」

ぱしゃり、と水が跳ねた。守くんは、いつもの屈託のない笑顔で私を見つめる。揺れる水面がまるで波のようだ。そんな波の中で、私の手を取る守くん。私は胸の中で霞みのように、それでもあたたかく広がる懐かしさと、ひんやりとした水の感覚、守くんの手のひらを感じながら瞳を閉じた。今、小さなビニールプールはまるで大きな海だった。


120515

BGM:JUDY AND MARY/ラッキープール


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