「三国先輩、今度勉強教えて欲しいんです」と名前が遠慮がちに言ってきたのはテスト期間一週間前のことだったと思う。部活停止前最後の練習後、タオルを受け取りながら聞き返す。 「何の教科だ?」 「英語です」 英語か。別段嫌いなわけでもないし、二年生のレベルならなんとか教えてやることも出来るだろう。「いいぞ」と快く返すと名前は「ありがとうございます」と嬉しそうに笑った。 「じゃあ明日の放課後、図書室でいいですか」 「おう」 次の日の放課後図書室へ向かうと、名前が入り口で待っていた。遠目からでも時計をちらちらと見ているのがわかる。…遅れたかな、出来るだけ早く来たつもりだが。 「名前?」 「あ、三国先輩!」 「待たせたか?すまない」 「わ、私も今来たところですよう!」 張り合うように身を乗り出す名前。頭一つ分低い名前にぐいと見上げられ、思わずかわいいなあと思ってしまう。…いけない、今から勉強するのに。 図書室はそれなりに人は多く、主に集団ごとに席を陣取っていた。大方勉強会でもしているのだろう。あちこちで公式を暗唱したり英文を読んでいる声がする。 適当に、隅のパソコンで死角になった人気のない席に鞄を置く。名前も後ろからよちよちとついてきた。椅子を引くと、周りをちらりと見渡してから名前が言う。 「先輩、」 「どうした?」 「二人きりの時は名前で呼んでもいいんですよね」 名前はずいっと俺の顔を覗き込む。にやにやにや、そんな擬音がよく似合う。『できれば学校では名字で呼んでくれないか。その代わり二人きりの時は名前で呼んでほしい』そ、そういえば前にそんな約束したような。その時に名前が「先輩ったら、付き合ってるのみんなにバレるの恥ずかしいんだ。かーわいいー」と今以上ににやにやと笑ったのは忘れはしない。…まあ、間違ってはないが。 「ああ。約束だからな」 「やったー。太一先輩太一先輩!」 まあ、厳密に言えば二人きりでもないが。名前ははしゃぎながら「でも太一先輩は私のこといつも名前で呼ぶのに、私は駄目なのが納得いかないですけど」と笑った。ほんとにこいつはよく笑うな。意味は違えど。こちらもつられて笑ってしまうが、すぐに気を取り直す。 「こら、やるんだろ、英語」 「はーい」 「わからないとこあったら聞くんだぞ」 聞き分けよく席に着く名前。根は真面目なんだよな、こいつは。お互い向き合うように座り、教科書やノートを広げる。 しばらくするとどちらともなく勉強を開始する。名前が英語をやるから俺も英語の問題集を持ってきたのだが、正直言うと、その、名前は相当英語が苦手なようで。所々詰まってはむうと唸ったり机に突っ伏したりする。その癖遠慮しているのかわからないところをなかなか聞いてこず、問題集は埋まらない。 「…名前?大丈夫か?」 「やばいですね」 「だろうな…」 真っ白の問題集に溜め息をつく名前。どうにかしてやらないととこちらも焦ってしまう。 「名前はどれがわからないんだ」 「長文読解」 「これか。文章は理解できたのか?」 「トムとナンシーとジョンがなにやらやらかしている」 「…残念。見たところジョンじゃなくてジェーンだな」 「まじですか」 懐かしい文法や単語が並ぶ長文を一つ一つ和訳していく。ちょうど一年前に習ったところだ。俺でもそれなりにすんなり理解できる。 名前は時々頷きながら文章に書き込んだりマーカーを引いたりしていたが、しばらくすると集中が切れたのか「たーいちせんぱーい」と足をばたつかせるようになった。…一体やる気があるのかないのか。人の話くらい聞け。 「名前、わからないんだろ。ちゃんと聞――」 「太一先輩、I love youを和訳してみてください」 話を遮り出し抜けに名前が言う。机から思い切り身体を乗り出し、またもやぐいぐいと顔を覗き込まれる。目と鼻の先にある名前の顔。…俺、完全にナメられてるな。どこまでも面倒なやつだ。I love youなんて一年の連中でも答えられるだろう。 「愛してる、とかじゃないのか」 呆れながら立ち上がり、名前の肩を押し戻す。名前は「うー」とか言いながら抵抗する。幼稚園児か!俺もムキになってしまう。 「違いますよー。そんなんじゃないです」 「じゃあなんだよ。愛だとか好きだそういう意味だろ」 「太一先輩ってば、ほんと恋愛には鈍いですよね」 名前はむすっとふくれる。鈍いってなんだよ鈍いって。…否定は出来ないが。 「恋愛ってそんな単純なものじゃないんですよ」 I love youの意味って、と名前は続ける。たった一行の英文と恋愛にどんな因果関係があるっていうんだよ。 「『私にはあなたしかいない』とか、『あなたのためなら死ねる』とか。恋愛って、複雑なんです」 わざとらしくため息をつくとわかりましたか?とにんまりと口角を上げてくる。…つくづく意味がわからない。そんなもの、英語のテストで書けば0点は必至だぞ。 まあ、これは名前なりの解釈なんだし、それはそれで面白い。名前はこういう哲学的なものが好きなんだから、受け入れてやるのも悪くはない、と思う。 「太一先輩のI love you、どんな意味なんでしょうねえ」 名前の赤く濡れた舌が形の良い唇を舐める。挑発気味に近づく名前の顔。突然のことに心拍数がどんどん上がっていっていく気がする。顔が熱い。…これ、逃げられないな。 「す、すきだ」 「ん?」 「俺は、名前が、好きだ」 羞恥を捨て一文字ずつ噛み締めるように発音する。…周りに聞こえてはいないか。図書館にしてはここは騒がしいのだけれど。名前はふむと一瞬考えたようだったが、直ぐにまた生意気な笑みを浮かべた。 「うーん、まあまあですね」 そう言いながらも目には満足感が揺らいでいた。ゆっくりと名前の唇が近づく。う、嬉しいが。やめろ、こんなとこで、 「あ」 突然名前が思い出したように漏らした。唇が離れる。そうかと思えばあのー、と申し訳なさそうに笑った。 「私、英語が学年トップなんですよね」 「は?」 「だーかーら。さっきのは出来ないふりしてただけです。雰囲気って大事ですからね」 えへへとはにかむ名前だったが、俺は呆然と名前を見つめる。えー、なんだ、その。つまり俺は名前に騙されて、なんかいろいろされたってか?名前は名前で「太一先輩が騙されちゃうなんて、私女優向いてるかも!」なんて照れている。いや、違うだろ。 「…お前なあ」 「きゃー太一先輩怖い!」 「許さんぞ」 「やだ、そんな。…あ、でも私数学はからっきしなんですよね。というわけで今度教えてくださいね!」 屈託のない笑みで言われてしまうと、どうにも引き下がれなくなる。なんだかんだで俺は名前に甘いんだなあと実感。こんなんだから名前のいたずらっ子が治らないんだろうか。…それが名前の良いところなんだけどな。 「…よし、いいだろう」 「ほんとですか?だから好きです、太一先輩!」 お互いの歯がぶつかる程勢い良く口を塞がれた。じわりと広がる鉄の味。…まあ悪くないか。 次の日教室へ入ると、車田がこちらを見てにやにや笑っていた。いやな予感。 「お前、名字とそんな関係だったんだな」 「え、な、」 「昨日お前が直ぐどっかに行っちまったから、二人でテスト勉強するかって天城と図書館行ったんだよ。そしたらお前と名字の声がしてさ。さすがだよ、太一先輩?」 …なんだこれ、もうやだ。 110815 |