様々な生き物が春の温かさに顔を出し始めた今日この頃。彼女に呼ばれたその日は、いつもと違っていた。何か用事がない限り自分のことを呼ばない実の母が俺を呼んだのだ。母上が住むのは青葉城のなかの東側の一角。
戦に専念し体を鍛える男達が足を踏み入れることなどない、女の居場所。自分自身さえ滅多に入らないその土地へと久々に足を踏み入れる。奥へ進めば、一段と広い襖。
その襖の前に母上の侍女であろう女が此方に向かって深々と頭を下げ、この部屋の中にいる母上へ俺が来たと告げればすぐさま返答が返ってくる。その合図とともに侍女は襖へと手をかけそれを開いた。
部屋の中心へと座る母上。
彼女をこの目に映したのは何年振りだろうか。その母上のすぐ隣には小さな子供が寄り添い、此方に頭をあげようともせずただ畳をじっと見つめ固まっていた。見慣れない餓鬼だ。
「政宗、よくぞいらしてくれました」
母上は沈黙していた空気を破りこちらへ笑顔を見せることなく無表情で告げる。その彼女の瞳には自分自身が映っている筈なのに、彼女が望み呼ばれた筈なのに、母上がこちらを見つめる視線は何も映していない。
俺がこの場に存在しているのに彼女は空気のように扱う。
「心から感謝致します」
感謝も建前だろう。その言葉に心はないのだろう。それはすべてわかっている。
「要件はなんだ」
実の母に対してどれだけ冷たい言葉なのだろうか。だけれど母上はそんな言葉も気にとめない。俺の言葉なんて彼女には関係ないのだから。
「政宗、こちらは貴方の妹じゃ」
唐突に切り出された本題。
母上…義姫が隣の少女の背を優しく撫でた。
その背を撫でられた子供は一度びくりと体を震わせながら下げていた視線をのろのろとこちらへ向ける。
「名はなまえ。此方の方は貴方の兄、伊達政宗であらせられる」
「お兄、さま…?」
目の前に存在する妹という存在。
「お初にかかります。…なまえ、と申します」
桜の花を彩った真っ白な着物を着飾る少女はこちらをみて一瞬目を丸くさせる。
初対面の俺に緊張しているのだろうか、紡がれる言葉は小さくかすれており自身の着物をきゅっと握りしめながらも此方をじっと見ていた。
しどろもどろしながらも彼女は会話を続けるべく小さな口を開こうとしたそのとき、
「なまえ、お兄様は忙しい方よ。ご迷惑をかけないように」
まるで二人の間を遮断させるかのように母上の声が遮った。
母、――義姫は俺の瞳を睨みつけこの子と話をするなというような視線を送った。なんて醜い。
「わ…わかりました!母さま」
「そなたは実にええ子じゃ」
ふわりと優しげな瞳があいつへと降り注ぐ。
俺には見せないその温かな愛情。憎い。嗚呼、憎いさ。愛されているお前が。愛情をもって接されているお前が。
己の黒い感情が沸々と苛立ちを生む。そんな自分にすら嫌気がさした。
「用件がこれだけなら俺は失礼する」
母上は俺がこの城の家督であるために、全てを伝えねばらないためにこの子供の存在を告げたのだろう。
俺の妹……大事といえば大事な話だが別に人生に関わる話でもない。そんな餓鬼の世話なんてお前が勝手にすればいい。俺にはなにも関係のないことだ。
その場から立ち上がり、入ってきた襖に手をあてこの場を後にした。
久々に足を踏み入れたと思えばこのざまだ。
妹だと告げられ現れたのは見ず知らずの餓鬼。母上が身ごもったという話は今までになく本当の親子ではないのは明らかだ。なのに、あいつは十分に気に入られていると見た。血の繋がりなどないのにあいつはどうして愛情を向けられるのだ。
―俺はまだ求めているのか。母上に愛情を。認めたくない事柄に今朝胃に入った食い物を吐き出しそうになる。
淡い期待がなかったといえば嘘になる。何度裏切られても俺は学習などしない。もしかしたら、と考えてしまう自分に更に嫌気がさした。
「兄さま!」
ぱたぱたと駆け寄ってくる小さな足音。
その声に振り返れば、小さな足を懸命に動かしながらこちらへ向かってくる母上とともに居たはずのなまえの姿があった。
「兄さま…あの、またお会いすることができますか?」
「お前と会うことは二度とない」
俺の言葉にこいつはびくりと肩を揺らし、目尻に涙を滲ませた。今にも涙が零れそうな瞳がチクリと胸に痛みを入れる。
「要件はそれだけか」
これ以上この小さな子供に言うべきことはない。たとえ俺の妹でも、どうせお前と俺は生きる世界が違う。
ここは俺の居場所じゃない。俺のあるべき方向へ再び足を歩め、背に感じる小さな視線に気づかぬ振りをして俺はその場を後にした。
冷たく言い放った己の言葉。想像以上に低い声が出たような気がした。あんな小さな子供に何を嫉妬しているのだろう。俺はなんてバカな奴だろうか、己に酷く失笑した。