嫌悪の中の矛盾

「ノボリはキミのこと好きだよ」

数日前クダリにとんでもないことを告げたエメットの言葉。それは今でもクダリの頭から消えなかった。寧ろノボリと生活している以上消えゆく可能性は低く。何とか悪態をつこうとしても結局は無言で終わる。そんな日がもう1ヶ月続いた。


……ばっかじゃないの。

クダリはよくわからなかった。それは何がわからない、ではなく。わからないものがわからなかった。何にむしゃくしゃしているのかも。ノボリを見ると目を抉りたい衝動に駆られるのも。何に対して自分がこれほどまでに苛立っているのかも。この1ヶ月とにかく理解が出来なかった。周りから見たら極々普通。しかし今のクダリをノボリが見たら「普通ではない」と蔑んだ目で答えるだろう。それほどまでにクダリの様子はおかしかった。しかしそれは対ノボリ限定の話。ノボリが何も言わなければ日常生活で困ることなど何も無かった。そう、ノボリが口を出さず互いに干渉しない生活を今まで通り続けていればの話。ノボリは知らないがクダリはそれを望んでいた。それなのに。

「…クダリ、お前最近何なんですか、人の顔はずっと見てくる癖に喋らないなんて。気持ち悪いんですけど、やめてもらえません?」

なんてことだ。ノボリのあの冷たい眼が此方を向いてしまった。クダリは内心動揺していた。久方ぶりに面と向かって声を掛けられただけなのに、何故。何故こうも心の音が鳴り止まない。身体中の血液が沸騰するかのように胸がざわつく。黙ったまま自分を見つめて動かないクダリの異変に気付いたのか。ノボリにしては珍しく困惑した顔でクダリに手を伸ばす。やめろ。触るな。何で触る。やめろ。クダリの中で誰かが叫ぶ。

「お前熱があるんじゃないですか?…バカなのに風邪引くんですね」

ひやりと額に温かい何かが触れる感触。それはクダリの前髪を押しのけ無遠慮に伸びてきたノボリの白い手。クダリは何年振りにか至近距離に居る兄を瞬きもせず見つめた。どくんどくんと高鳴る胸に震える唇。頬を伝う汗。それらは全てノボリがクダリに与えているにも同然のもので。焦る自分を抑える為クダリは生唾を飲み込んだ。それと同時にノボリの手はクダリからゆっくりと離れていく。

そもそもクダリはノボリが大嫌いだ。幼い頃はそうでもなかったが思春期を向かえた頃から自分と同じ顔、同じ声の片割れが嫌いで仕方が無かった。ノボリもそれも同じで。互いに顔を合わせる度に眉間に刻まれる深い皺に冷たい瞳。いつしかそれが普通になって今日に至った。ーーそれなのに、何故あの顔だけそっくりな似非紳士な奴に言われただけで…!クダリは考えた。しかし答えなど一向に見える兆しなどある訳なく、無言でその場を立ち去ろうとした刹那。

「待ちなさい!」
「……!」

ノボリに手を掴まれた。無視をするクダリが気に食わなかったのか、強引で力加減など一切ない。けれど理由はどうあっても触られた、あの、ノボリに。クダリの中で考えこんでいたものがしゅわしゅわと泡をたて溶けていく。腕に伝わる何年振りか分からないその熱に自然とクダリの顔に熱が集まる。そんな片割れにノボリは眉を顰めた。やはり熱があるのだろうか、ノボリが僅かに首を傾げた瞬間。

「…っ!!」
「!?な、なんですかお前は!いきなりっ」

クダリが顔を抑えその場に沈み込んだ。訳が分からず掴んでいた手を離し見下すノボリにクダリは自分を必死に説得していた。違う、落ち着け。これはノボリ、あの大嫌いなノボリだ。

「クダ…」
「名前を呼ばないでくれる?気持ち悪い」

クダリは今までしてきたように軽蔑の色を含んだ目で睨み普段を装った。しかしそれは返ってノボリの怒りを買ったらしく。目をかっ開きノボリは俯いている片割れの頬を思い切り掴んだ。容赦ない力のお陰で口はアヒルのように尖り傍から見たらとんだ間抜け面だ。けれど目を逸らすなと言ってるようなノボリの真っ直ぐな瞳にクダリは唖然としたまま動けなかった。顔を支配していた熱も引き始め、代わりに冷汗が頬を一筋流れ落ちる。ノボリは歯をギリと音がなるまで噛み締めてから息を吸い込む。

「こんのっバカ!何頑なになってるんですか!?とんだ愚弟ですね!わたくしとてお前など気持ち悪いです、しかしそんな声で言われると余計腹立しい!」
「……は…」
「いい加減元に戻らないと許しません。今のお前など殺したくもない。ですから馬にでも轢かれとっととくだばって下さいまし」

ゆらり。ノボリの瞳の奥が一瞬揺れた。クダリは瞬きすら忘れノボリの目を見つめる。何故、なんで?そう思いながら奥歯を噛み締める。兄に怒られたのは何年振りか。幼い時は調子に乗る自分をよくこうして叱ってくれた。クダリは当時のことを思い出す。大好き、大好きで大好きで堪らなかった兄。それがどうしてこうなってしまったのか。そして、何故ノボリの力強い瞳の奥が寂しそうに揺らめいているのか。クダリには理解が出来なかった。いやしたくなかったのかもしれない。

「…ねぇいつまでこうしてるつもり?離せよ虫唾が走る」
「それはこちらの台詞です!!元に戻ったならば部屋にでも戻ったら如何です?」

心の内が悟られぬよう毒づく。すると頬から手を離しソファに向かうノボリ。そんな後ろ姿を数秒見つめてからクダリはゆっくりキッチンへと足を向ける。2人が住んでいる借家はリビングとキッチンが繋がっており、所謂対面キッチンというもので。いやでも互いに姿を確認出来る構造になっている。

前ならばすぐにでも触られた頬を傷薬で消毒する筈の弟がリビングに居座る自分に何も文句を言わなかったことに、ノボリは内心困惑していた。しかしそれはクダリも同様で。自分の頬に触れた手を除菌用ティッシュで拭わない兄に違和感を感じていた。なんとも気まずいような居心地の悪い空間。2人は平常を装おうとして片やテレビをつけ、片やキッチンで洗いものをはじめた。

何故よりによって今洗い物するんですか。このなんともいえない空気読みなさいこのクソ弟。
なんで居座るわけ?いつもこの時間は部屋に篭ってるでしょ?お前のせいで空気悪いんだよ、早く戻れこのクソ兄。


それから数分してクダリが洗い物を終え顔を上げた時だった。先程まで背筋を伸ばして座っていたノボリが横に倒れうたた寝をしているのを見つけたのは。

「……なんで寝てるわけ」

クダリの前で無防備に寝るだなんていつものノボリでは考えられない。なのに目の前ではすやすやと寝息をたてる兄の姿。への字に曲がった口は少し和らぎ幸せそうにはにかんでいるように見える。眉間に刻まれている皺もなく、一見して無害そのもの。クダリは近付き片割れの顔を観察する。

「幸せ、にか」

ふとインゴが残していった言葉がクダリの思考に色を染める。幸せに、ぼくが、ノボリと?有り得ない、手遅れだよ。ぼくらはもう無理なんだから。

「………ん?」

そこまで考え奇妙な違和感にクダリは襲われた。

「もう、って何?え…何言ってんのぼく!」



これじゃあまるで、ノボリと仲良くしたいみたいじゃん。

そう呟いて頭を掻き毟る。理解したくない、自分を。たった一言言われただけで動揺し兄に対して何故こうも悩んでいる。気付きたくない。顔を手で覆い唸る。ああもう自分はどうかしている。クダリはそう結論付けその場を立ち去った。いや立ち去ろうとした。しかしどうしても寝ているノボリが気になる。

「……」

クダリはソファで幸せそうに寝息を立てる兄に舌打ちをし、近くの椅子掛けてにあったプランケットを掛ける。自分でも何故こんな無意味なことをしているのか理解が出来ない。混乱しながらも頭の中で「ぼくはこいつが嫌い嫌い嫌い」と念じ続ける。実際嫌いなのだから嘘ではないが、今の自分の行動には矛盾する点が多すぎる。クダリは溜息を漏らしながら自室へと向かった。




そしてその姿が消えドアの閉まる音が聞こえた瞬間、寝息を立てていた筈のノボリの目がぱちりと開き、自分に掛かっているプランケットに顔を埋めた。

「い、意味が分かりません…!」

その隙間から見える耳は赤く色付いており、ノボリは弟と同じように舌打をすることしかできなかった。