悪魔の申し子は甘くわらう
アルカトラズ刑務所 地下特別房
ある男を収容するためだけの特別な地下房において、本来其処に居るべきではない女が男と対峙していた。
男はベッドの上に腰を据えて、女は屹然と立ったまま。
男は口元に柔和な微笑を湛え、目前に佇む古き友人を観察する。もしも彼女を初めて見る者なら誰もがその、色を限界まで希釈したような瞳に心奪われる事だろう。文字通りこの世のものとは思えない程美しい、その姿。……性格も、この世のものとは思えないくらい破綻しているんですがね。
「今日は。ヒューイ。お嬢さん方は元気かしら」
「おや――――これはこれは。お久しぶりです、綾。ええ。それなりに活発な子達ですよ」
リーザはヒルトンとして動いているため、今現在この独房にはヒューイと綾の二人しか存在していない。……それに。
今は正直実の娘よりも彼女の方に興味があるのだと言ったらリーザはどんな反応をするでしょうか。まあ、考えるまでも無い事ですが。
両手の指を絡ませながら、ヒューイはふと彼女が侵入した手段について言及する。
「それは使わない筈では?」
「最終的な目的に支障がないと思ったから別にいいのよ」
「そうですか。実に綾らしい答えです。……ところで貴方が自分から会いに来るなんて、どうかなさったんですか?私はこれでも多忙な身なので出来るなら手短にお願いしたいものですが……ああ、それとも自ら実験体に志願しに来たという事なら喜んで歓迎しますよ。私自らお相手して差し上げます」
「死ねばいい」
「残念ながら不死者なので死ねません」
表面上だけなら無害な笑みを更に濃くして、ヒューイは腰を上げる。かつり、かつりと靴音を立てながら、訝しげに眼を細める綾の腕を掴んで壁へと押し付けた。
「いっ」がん、と勢い良く頭をぶつけた綾など目に入らないらしく、伸ばした指先で滑らかな白磁の頬を何かを確かめるようになぞる。
「また、より一段と人間らしくなりましたね」
「普通そこはより一段と綺麗になったね、とかでしょう」
貴方は一段と人間らしく無くなったわ。存外に僅かな苛立ちを込めてそう言う綾の顎を指で持ち上げ、散々瞳を透かしたり髪を触ったりした後、解放した。
極端に色素の薄い美女は嘆息しつつ、離れようとする彼の腕をお返しとばかりに掴み返す。
「私が世界で一番嫌いなものを教えてあげたよね。浮気と変態」
「以前は"私が世界で一番嫌いなものは私以外の人殺しと私以外の悪党なの"と言っていませんでした?」
「今変えた。ヒューイって意外と根に持つタイプなの?200年目の新発見だわ」
「いいえ。憶えているだけですよ。例えば頑なに拒絶する少年の頭に大きなリボンを無理矢理つけて爆笑していた貴方とか」
「根に持ってるじゃない…ヒューイだって私を睡眠薬で眠らせて実験体にしようとした癖に」
「ああ…あの頃は、私もまだ若かったですから」
「無理矢理犯した癖に」
「そんな事もありましたね」
「……昔は素直で可愛かったのに」
その言葉に、ヒューイは金色の双眸をすっと細める。そもそも自分はこんなところで昔話をしている場合では無いのだ。尤も、それは彼女の方も同じであろう。
「………貴方も、久闊を叙すためだけにわざわざ刑務所へ来る程暇ではないんでしょう?綾」
綾の手のひらに触れられている手首から彼女の体温が流れ込んでくるかの如く感覚に不快感を覚えるものの、顔には出さず、ヒューイは尋ねる。
綾は真正面から金色の瞳へ噛み付くように、視線を絡ませた。
「伝言を伝えに来たの」
真っ直ぐな、一点の曇りも感じさせない慧眼と口調で。
「エルマーから"ヒューイ、君は笑っているかい"だって」
そう、言った。
「……そうですか。それはどうも」
今までと何ら変わりの無い声音で礼を述べ、彼女にとっては些か残酷にも思える
限りなく柔らかい、作り笑顔を返した。薄く艶を放つ髪が、空気に揺れる。至近距離に逢った金色と灰色は、徐々にその間隔を広げてゆく。
それはあの時から変わらぬ彼女と彼の隔たり。
綾はそっと手を放して、静かな怒りを込めた言の葉を紡いだ。綾は、誰に対してでもない、自分そのものに苛立ちを募らせているのだった。
「今は昔よりも……救って欲しいって思ってるのね」
「……それは、貴方の方でしょう。綾。エルマーに宜しく言っておいて下さい」
衣擦れの音と共に、密着していた身体同士が離れる。温い体温が、煌く双眸が、甘い口元が、元あるべき位置へと収束する。
長い睫毛を震わせて、苛立ちを内に秘める彼女は矢張り昔と変わらず美しかった。
「きっとまた、近いうちに会う事になるよ。ヒューイ」
皮肉だろうか、今度は昔と同じ口調と声音でそう言って、彼女は踵を返して去って行ったのだった。
房に一人残されたヒューイは、今しがたの彼女の言動を思い返して薄く笑った。
結局のところ、綾は何をしにきたのだろうか。
エルマーからの伝言などと嘘を吐いて。
私の実験を止めるという宣戦布告による牽制か、はたまた別の思惑か。否、その答えも彼の中では既に出ていた。
彼女は。綾は、未だに私の事を救うなどとふざけた考えを持っているのだろう。
だが――――ヒューイ・ラフォレットはそんな事では揺らがない。
「今までも―――そしてこれからも、ね」
彼女もいい加減に認めるべきなのだ。誰かを救うという考えそのものが無意味だという事を。
ヒューイは、らしくもなく微笑を消して苦々しく顔を顰めた。
彼女はまるで砂糖菓子のように甘い。そして彼は知っている。彼女が砂糖菓子のように甘く、そして苦い"悪"であるのだと。
(悪魔の申し子は甘く微笑う)