スカイブルーのまぼろしに臨む


夜勤バイトを終えて、さて今日は夜までぐっすり眠るぞ!と意気込んでベッドに入ったのだが、しかし流石に真夏の気温には勝てないもので、寝苦しくて目を開けると、ふわりとした癖っ毛、切れ長の眼の男――というか黒澤さん――の顔が目の前にあった。突然の出来事に叫び声をあげ、る前に黒澤さんの細くてしなやかな指に抑え込まれ。何を考えてるのわからない眼がにっこり、上品に歪む。「おはよう。綾」おはようじゃねーよ。


「……で、なんで水族館なんですか」


私と黒澤さんはこの街にある唯一の水族館に来ていた。というか私の場合一方的に来させられた、という方が正しい表現であるが。


「綾は水族館に行きたかったから、以外の理由で水族館に行く事があるのか?」
「…今現在そんな状況なんですけど」


小さくつぶやいた独り言など、都合のいい泥棒さんの耳朶を打つはずもなく、むなしく虚空へ消えていくだけなのである。


「あと黒澤さん、夏場にその格好は見ているこっちの気が滅入りますよ」


暑苦しいことこの上ないダークスーツを指差してそう言うが、黒澤さんは「泥棒だからな」とよくわからない理屈を述べた。しかしこれだけの暑さで汗ひとつかいていない、というのも不気味である。黒澤さんは、人間らしいといえばとても人間らしいのだけれど、どこか浮世離れした感じがするから、それが不気味さに拍車をかけているような気もする。
まあ、しかし、だ。来てしまったものは仕方がない。水族館なんて久しぶりだし、満喫しておくことにしよう。順路に沿って水槽の前を移動する。大小様々な魚たちが群れをなして横切っていくさまは、この夏にふさわしく涼しげである。不意に、視界が陰る。ゆっくりと、優雅な動きで泳ぐイルカと、眼が合ったような気がした。

「イルカ、可愛いですね」

問いかけてみるが、返事がない。横を見ると、じぃっと、嘗て見たことがない程真剣な表情でイルカを見ている泥棒が居た。(仕事の時でもこんな顔はしないだろう)ほんの少し、魅入る。いつもは飄々としていて得体のしれない黒澤さんだが、こういうときの彼は、凛々しいというか――純粋に、かっこいい。

「…黒澤、さん?」
「…美味そうだ」
「いやいやいやいや黒澤さん!?」
「冗談だよ」

くすくすと笑いながら、(私のことをからかっているときのそれだ)私の頭を撫でる。何やら、今日は随分と機嫌がいいらしい。頭を撫でられてしまった。ちょっと、嬉しかったり。

「あ、喉渇きません?何か買ってきますよ」
「まるでデートみたいだな」
「デートなら普通は男のひとが行くんでしょうけどね…で、何かリクエストは?」
「…ああ、」

逡巡のためか、一呼吸。

「アイスクリーム」

飲み物じゃねえ。と突っ込みかけて、いやいや一回りも年上の人にそれは失礼かとどうにか思いとどまる。


「チョコが良いかな」


とかなんとか言ってる間に要望追加してるし。私は絶対こんな大人にはならないぞ、うん。


***


とか言いつつ、アイスを買ってきてしまう私は彼に甘い。甘すぎる。しかもアイスクリームの売店を探すまで結構かかったし。黒澤さんは瞬間移動が出来るので(ここは笑うところだ)すぐ何処かへ行ってしまう。現に、先程別れたところにはイルカが一匹、水槽の中からこちらを見ているだけだった。仕方なしに、館内を捜し始める。全く、子供かあのひとは。館内は間接照明のような薄暗さに包まれているので、人間を判別しづらい。黒澤さんなんて全身真っ黒だから余計に見つからない。しかしどうにかこうにか、アイスが完全に溶けだす前に彼を見つける事ができた。


黒澤さんは、巨大水槽の前で、手すりに両手をかけて水槽の中をじっと見ていた。淡いスカイブルーの視界の中を、ジンベイザメが通って行く。黒澤さんが薄っすらと眼を細めた。どうせ、サメは食べれなそうだとか考えているんだろう。
たくさんの魚が、水槽の向こうで踊るように泳いでいる。こうして見ると、黒澤さんがまるで魚を指揮している指揮者のように見えてくる。BGMにモーツァルトでも流れて来そうだな、と思った。全く良い御身分だ。私はアイス(+黒澤さん)を探し求めて汗だくになっているというのに、かのドロボウさんは優雅の一言に尽きる。人生って不公平。黒澤さんの端正な横顔が、視界の端に私を捉えたのか、こちらを向いて口角をあげてみせる。


「悪いな」
「そう思うなら同じ場所でじっとしててくださいよ…」


子供じゃないんだから、とぼやきつつ、チョコアイスを渡す。いい歳した大人がアイスを食べている仕草というのは、なかなか可愛らしい。黒澤さんは一口、二口程舐めて、訝しげな顔をする。


「甘い」
「…そりゃあ普通のチョコじゃなくてアイスですからね」


甘くないアイスなんておいしくないだろう。とかなんとか言っている間に、私の手にした缶コーヒーがいつの間にかアイスに変わっていた。わーお手品みたい。


「…じゃなくて」
「なんだ」
「黒澤さんたまに可愛いことしますよね」
「いい年した男にその表現はどうかと思うが」
「いや、だってかわいいですもん」


一回り以上も年下の女にそう言われるのは確かに複雑な心持かもしれないが、可愛いものは可愛いのだから仕方がない。すると黒澤さんは張り付けた苦笑を、悪戯っぽい笑みへと変化させる。…あれ。


「綾の方がかわいい」
「は!!??」


思わず持っていたアイスを取り落としてしまいそうになった。突然何を言い出すんだこの泥棒は。


「だから、綾の方が可愛いだろう」
「えええ!?」
「こうして俺のために水族館まで来てくれるところとか」
「え、いやいやそんな、」
「言えばこうして俺のためにアイスを買って来てくれるところとか」
「え、ええ、あの、黒澤さん」
「綾は本当に可愛い」


最後は耳元で小さく囁かれて、今度こそ本当にアイスを落としてしまっていた。ジンベイザメの巨体が水槽を横切っているのか、黒澤さんの姿が影に隠れる。しかし私の表情の方は黒澤さんから丸見えで、この蒼い世界の中だ、顔が真っ赤になっているのはきっと気付かれない、はず。(多分、彼のことだから見透かしていそうだが)


黒澤さんはいつだって突然に何かを奪っていく。
改めて、心底この人は泥棒なのだ、と思った。(私の心なんてもうとっくに奪われたまま、返ってくる見込みなどなさそうだ)



スカイ・ブルーの
まぼろしに臨む






(館内は飲食禁止じゃね?とかKYなことを言ってはいけない)


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