ヒトクイのつもり


僕が彼女に燻った鉄のような想いを抱くようになったのはいつからだろう。
さらさらとした砂のような鉄は喉の奥を焦がすように滑り落ちて、徐々に溜まってゆく。それはきっとこれから先も取り除かれる事はないだろう。


「神宮寺さん」


呼びかけてみるが、返事が無い事は解っていた。何故なら彼女は、あたたかな陽光の差す、保健室の清潔感のあるベッドの上ですうすうと寝息を立てていたからである。太陽の光を通して透き通るような髪に指先で触れると、少女の端整な顔立ちが柳眉を顰めた。綺麗だ、と思った。陶磁器のような白い肌も、ふっくらとした唇も、甘く美味しそうで―――と言うと、少々誤解を生むかもしれないが――無防備なその姿には誰しもが誘われているような気分になるだろう。自然と、彼女に引き寄せられるように近付く。甘い香り。もう少しで零距離というところで、察知したかのようにぱちりと、その海を映したが如き双眸が開かれた。鼻先数センチの慧眼が僕を認識した後、訝しげに細められる。


「ああ、すいません。起こしてしまいましたか」
「人の事触っといて起こすとか起こさないとかの問題じゃないと思うんだけど」
「起きていたんですか?なら早く言って下されば良かったのに」
「途中までまどろんでたけど何か気持ち悪い気配を感じて危機回避本能が働いたの」
「おや。今日はまた随分と辛辣ですね」


それもまた、愉しくはあるのだけれど。


「何か言っても堪えなさそうだからもういい。…で、いい加減離れてくれない?顔近いから」
「おっと、それは失礼しました」


軽い口調で言って、鼻腔を擽る甘い香りから遠ざかる。
神宮寺さんはまだ完全に眠気が醒めきっている訳では無いらしく、胡乱気に瞼を擦る姿が愛らしかった。


「古泉くん、何で来たの」
「あなたが何時まで経っても部室に来ないものだから、痺れを切らした団長閣下から連れてくるようにと僕に命令が下ったのですよ、神宮寺さん」


同じクラスである僕がね、と彼女の分の鞄を見せてやると神宮寺さんは気まずそうに視線を下方へ逸らした。一応の自覚はあるようだ。


「あー…もうそんな時間?そういえば寝たの五時間目だったっけ」
「具合が悪いんですか?」
「ん。睡眠不足なだけ」
欠伸を噛み殺しながら真っ白に漂白されたシーツをまくって身体を浮かせ、地に片足をつける。と、そこで僕の視線に気がついたようで訝しげに色素の薄い慧眼を揺らす。


「何」
「いえ。先程の神宮寺さんの愛らしい寝顔を思い出していただけです」
「…古泉くんってさーたまにさらっと変な事するよね」
「変な事というのは?」
「だから、さっきみたいに顔近かったりとか…あと…勝手にちゅーしたりとか」


神宮寺綾という人間は鈍感過ぎる。大体、好きでもない相手にキスをする訳がないだろう。だが、それに気がつかないのが神宮寺さんなのだ。いつものことながら、困ったものである。


「…こいずみくん…?なんか…きもちわるいんだけど」


いいえ。何でもありません、と返して手のひらを差し出す。神宮寺さんは一瞬きょとん、とした後意味を察して自分の手のひらを重ね、ありがとう、と淡く微笑んだ。
―――彼女の莞爾は酷く悪辣である。
普段余り笑うことのない彼女の笑みは、僕の感情を掻き乱すからだ。熱しきったスープを掻き混ぜるように、ゆっくりと、焦らすように。苦しい。彼女は僕がこんな風に想っていることなど知りもしないのだろう。ああ、何て、無意味な。

「ふぁ…それにしても眠い…古泉くん、何か眠くなくなる方法知らない?」
「眠くなくなる方法、ですか」
「うん、出来れば簡単で今すぐ出来るやつ」


僕は今も"古泉一樹"の如く笑えているだろうか?特定の感情にだけ鈍感な彼女は気にした様子も無いので、当面の心配はないかもしれない。これから先だって、同じだ。ただそれで満足なのかと訊かれたら、僕は返答に窮する事になるだろう。


「それなら一つだけ知っていますよ。教えて差し上げましょうか」


手を伸ばせば届く距離にあるのは、甘くやわらかそうな唇。
さらさらと、熱い鉄が喉を滑り落ちてゆき、奥底に眠る欲求に胸を焦がされる。

「古泉く、」

喰べてしまえ、と頭の中で声がした、気がした。




人喰いのつもり

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -