シリアルキラーロマンス
漂白されたように白い粒を奥歯で噛み砕き、冷たい水と一緒に流し込む。小さい頃、錠剤を飲み込む際にどうにも喉へひっかかかる気がして、噛み砕いてから嚥下していたのだが、大人になってもその癖は抜けないようだった。ペットボトルの蓋口を閉めて、机の上に転がす。仮にも仕事をするデスクであるのに、その上に無造作に積まれたファイルやら書類やらの束のせいで、机本来の表面積が見えている箇所はほんの僅かだった。これだから彼女に、足立くんの机ってほんとに汚い、って苦笑されるんだよなあなどとどうでもいい事を考えつつ、椅子にかけたコートを適当に羽織って署を後にした。
透明の自動ドアを通り抜けた先には、一面の雪景色が広がっていた。知らぬうちに唇が緩んだ。
都会では雪なんて見ている暇は無かったっていうのに、何ともまあ綺麗じゃないか。
呼吸すると乾いた冷たい空気が喉を刺して、ただでさえ煩わしい頭部の鈍痛が増長されるような気がした。
「……(阿呆らしい)」
ざくり。靴が雪に沈む。土手沿いを散歩していると、以前よりも霧が濃くなっているのがよくわかる。遠目で見たなら、一面の雪の白しか認識出来ない程だ。
白、白、白。どこまでも続く同じ色がまるで雪山にでも来てしまったような錯覚を与えさせる。それくらい、霧が濃度と密度を増している。
見えない先を見通そうと眼を眇めて――――見開く。
雪の中に―――死体が、あった。
一瞬、心臓が止まったかと思った。木の根元に横たわった、眠っているような、女の死体。
数歩歩みを進め、間近でそれを視界に入れ、安堵だか嘆息だか判別出来ない息が零れた。
「綾さん」
名を呼ぶと、死体の長い睫毛が震えて、薄っすらと瞼を上げる。
「風邪ひくよ」
再度声をかけると、ああ、足立くんか、とでも言いたげに眉尻を下げ、綾さんは淡く微笑んだ。続いてその形の良い唇から、独り言のような音階を漏らす。
「寒い」
「そりゃそうだよ、雪なんだから」
僕の苦言にもう一度笑う彼女を、ただ、きれいだと思う。
雪の中で眠る姿は、ガラスケースに入れて飾っておきたいくらい、美しい。
眼を開けなかったら本当に死んでいるみたいだ。
「どうして、」
言いかけて、止めた。この人は時々おかしな事をする。
深雪に一層映える、彼女を包んだ漆黒のトレンチコートが、まるで喪服のようだった。死者を弔って、悼むかの如く。
この街に来て偶然にも再会した、高校の同窓生。それが綾だった。
明るく活発且つトリッキーな彼女であったが、まさか刑事になっているとは思ってもみなかった。というよりも、再会するまでは彼女のことなどすっかり忘れていた、というのが本音である。人間というのは往々にして現金なものだ。
ただ、僕と彼女の時は学生時代のまま、止まっている。
僕と彼女が接していたのは高校時代の三年間だけであり、現に今この位置に立つまでに辿って来た変遷はお互いに全く違ったものである筈だ。(唯一共通する点は国家試験を受けて合格したという点のみだ)
だからこそ、僕達には時間のずれが生じている。時が経てば人を取り巻く環境は変わり、共に時を歩まなかった人間との溝が生まれる。趣味嗜好、話題、その他諸々において。
そうして、僕と彼女の時は止まっていて、むしろ今こうして社会人になっていることすらがおかしな事に思えてくるから不思議である。
「桜の木の下には死体が埋まってるって言うじゃない」
彼女の声で過去へトリップしていた意識を戻し、言葉を認識してから改めてああ、桜だったのか、と思う。
雪が降り積もった樹齢の浅そうな木を見上げる。
春にたくさんの花を咲かせて皆に愛されても冬はただの枯れ木で、誰にも見向きもされない。否、彼女以外には。
「ねぇ、犯人さ」
犯人、とくれば僕ら警察の人間の間では連続誘拐殺人事件の犯人を指す。つまりは、先日捕まった生田目の事だ。生田目が逮捕されることによって、この街における一連の殺人事件は幕を閉じた。ということは警察諸君もお役御免で、今までの業務――書類を処理したりうだつの上がらない上司の酒に付き合ったりする仕事に戻った訳だ。
「多分死んでる気がするの」
ぞわり、と肌が粟立つのを感じた。彼女の言葉は真犯人の存在を暗に意味するものであったからだ。
「桜の木の下に埋まっているとか?」
何かを気取られないか内心冷や冷やしつつ、冗談めかして言うと綾さんは喉の奥だけで笑った。
「もし生きていたとしても――可哀想だわ。この事件、遣り口が幼稚だもの。犯人は生田目じゃない。たぶん、堂島さんもそう思っているはず。
…足立くんは、どう思う?」
何を根拠としてそう言うのか。訊けば彼女は勘だと言い切りかねない。いや、彼女の勘は統計に裏打ちされたものであるからこそ、より性質が悪い。確か、犯罪心理学をかじっていたとか言っていたし。だからこそ本庁からの増員で、あの少年探偵と共にこちらへ手配された訳で。事件が解決した今、本来なら彼女は本庁へ戻らねばならない筈だ。それなのに、未だこうして渋っているのは真犯人が別に居ると考えているから、か。
全く、薬を飲んでも頭痛は一向に酷くなる一方だ。
「さあ。君が言うならそうかもしれないし、やっぱり犯人は生田目なのかもしれない…わからないよ」
お手上げだ、と諸手を挙げる仕草をする。
白い息が零れる。綾さんは何か思案するように視線を明後日の方向へ向けた。考え事をするときの、彼女の癖だ。
「綾さん」
膝を折って、彼女の上へ跨るような格好になる。じんわりと雪が溶けてスーツに染みた。冷たい。
彼女の視線を僕へ戻すように、外気で冷えた顎を掴んで、唇を重ねる。予想に反して、彼女の唇は温かだった。艶やかな黒髪が肌に触れて、くすぐったい。
やわらかい唇を食んでいると、冷たい手が伸びて来て、僕の後頭部に触れた。後ろ髪を引かれ、キスを落とす。
「ん…足立くん、昔は…前髪、長かったよね」
「…はぁ、いつの話…、」
懐古の情を孕んだ瞳に呆れる。きみだって昔はショートカットだったじゃないか。
背中と雪の間に腕を差し入れて、抱き起こす。どうやら彼女の方は自力で起きる気がないらしく、全体重が両腕へ圧し掛かるため、ちょっと、重い(言ったら殴られそうなので言わないが)
不意に、まるで首でも絞めるみたいに後頭部へ回された細腕に、ぎゅ、と力がこもる。(いっそそのまま絞めてくれたらいいのに)
「高校生の子達、居たでしょ」
「ああ、堂島さんの」
余り印象に残っていない、というようにぞんざいに答える。
耳元で聴こえる彼女の声は心地良いトーンで、いつまでも聴いていたいと思わせた。彼女の声を聴くだけで頭部に響く鈍痛すら、和らいでゆく気がするのだ。
「あの子達、良い線いってたと思う」
そうだ、良い線いってるから問題なんだ。と僕は心中で笑った。別段、面白いわけではなかったけれど。
シリアルキラーロマンス
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