Plastic girl


何の前触れもなく、降って湧いたように現れた悪魔は、ソファでごろんと横になる女を視界に入れ、露骨に顔を顰めた。





「…ねぇ、どうして君がここに居るの?弱くて醜い人間の分際で勝手に部屋に入って寛ぐだなんて…ああ…殺したい、殺したい、殺したい」

「おーミハ。綾が魔導書貸せってうるさくってさー」

「あ、お帰りミハエル。マイセンが、おまえは悪戯に使うから貸さないって言うんだよ酷くない?」




唇をとがらせて悪魔へ問うのは、衣装が奇抜であることを除けば、極めてごく普通の女だった。街でショッピングでもしているのがよく似合う、愛嬌のある顔立ちである。
名を、綾と言う。





「酷いのは君だろう?マイセンを困らせるなんて。…ああ、でも困ってるマイセンも良いね。困ってないマイセンと同じくらい良い。それに比べて君は駄目だね、綾。ねぇ、マイセン。ちゃんと隠蔽するから殺してもいい?」
「おいおい、止めろよ、ミハ。こんなところでお前らが戦ったら俺が困る。せっかく調べものに来たっていうのに、肝心の書物が無くなっちまったんじゃ元も子もないだろ…それに綾相手だと、死神VS悪魔の最悪な世界大戦が始まる可能性が高いからなー…ってもう聞いてないし」



綾はソファの上からジャンプしてミハエルに飛びつき、再びソファの上に叩き落とされていたりした。
美貌の悪魔、ミハエルはその柳眉を寄せて、手の甲を向けて振り、近づくなという意を示す。露骨に嫌な態度であるが、それを向けられた当人ももう慣れたもので、
特に気には留めていない様子だった。





「全く、どうして君みたいなのを気に入るのか、僕には全然わからないよ。汚くて愚かな人間なのに」

「…それ本人にも言ってあげてよーほんとに」




本人、を思い浮かべナツメは苦笑いを零した。どうにも彼は手に余る。人間である綾とそうでない彼では隔たりがあって当然なのだ。
そこで、魔導書を傍らで死守したままのマイセンが横から口を挟んだ。




「…あの、ナントカって奴だよな?は〜…綾はモテモテで良いよなぁ」

「マイセン適当すぎ。でもマイセンこそモテモテだよね〜男に」

「…うぐ。それ、地味に傷つくから…くそー俺もたくさんの可愛い女の子に追いかけられてみたいぜっ」




拳を握り締め、力強く男の夢を語るマイセンに、「んー…マイセンはちょっとアレだからアレかなぁ…ミハエルなら全然問題ないけど」
「君、何言ってるの。マイセンに何か問題なんてある訳ないだろう。マイセンはいつだって完璧で素敵な人間なんだから。マイセンの魅力が分からない人間の女なんて放っておけばいいんだよ。ね、マイセン」現実を見る綾に、現実しか見ないミハエル。まさに三者三様である。




「あのなぁ、男に生まれたからには一度はやってみたい事ってあるだろ?女の子達から熱い視線を送られたり、きゃーきゃー騒がれたり…つまりモテたいっ」

「そんなに熱く言われても困るなあ〜わたし女の子だし?」

「おお、これが性別の差ってやつか…なあ、ミハ…っていつの間にかいないし」




もう一度意識を向ける頃には、不機嫌そうな悪魔の姿は忽然と消えていた。彼は現われる時も消える時も突然である。
ソファに軽く座り直し、欠伸を一つしてから、綾が続ける。




「シエラちゃんのところかな」
「シエラちゃ…ってメイドさんのことかっ?なんていうか、綾って時々強いよなー…」
「えー強いか弱いかで言ったら多分わたし弱いとおもうよ」
「いや、そういう意味じゃなくってさ。そういや先生に対しても強いよな、お前」



机の上から本を一冊取り上げて、読んでいるのか読んでいないのか、パラパラとページを捲りながら言う。
彼が言いたいのは、綾がオランヌに対して強気である、という事だ。オランヌとは様々な過去の遍歴を経て現在の関係性に至る訳だが、確かに付き合いが長い分気のおけない関係、少なくともただの師弟関係よりは親しくあるかもしれない。(そもそも親しさの種類が違う)
ギリギリセーフとか言ってるマイセンと違いわたしは最初っからオールアウトなので、せんせーから見たらちょっと複雑な心境なのかもしれないな、とほんの少しだけ後悔を滲ませて、綾は彼を思った。
まあ、仕方がない。禁術というのは得てして魔法使いの好奇心をくすぐるものなのだ、と言い訳も交えて。




「マイセン」



気を取り直して、机を挟んで向こう側のソファに座るマイセン目掛けて、跳躍する。「お、わっ…」着地は見事成功。
抱きつく振りをして、そーっと彼が脇へ置いた魔導書に手を伸ばす。その途中で眼が合うと、マイセンは悪戯を思いついた子供のように、にやりと口端を上げて笑ってみせた。そして、本へ伸ばされた綾の腕を掴み(そちらへ体の重心を傾けているので、掴まれると物理的に身動きが取れなくなる)自らの方へ引き寄せる。




「マイセ、」



咎めるような響きを込めた呼び掛けは最後まで繋がらず(こういう時のマイセンはとてつもなく素早いのだ、と綾は経験則上わかっていた)ちゅ、と音を立てて唇が触れる。軽いキス。…軽いのはキスだけではないのだけれど。




「綾?」

「…相変わらず、軽いなー」
「いやいや、軽くはないって。俺はいつだって真摯だぜ?」

「軽いから本気になりづらい。それとも、もう既に本気の相手が居るとか?」

「……。…俺って本当に信用ないのなー。こんなにも全力で尽くす男なのに。じゃあ綾判定で言うとどういうのが軽くないんだよ?」

「簡単にちゅーしたりしない」
「…俺だって簡単にはしてないだろー?したいと思ったからしてんの」




とよくもまあ真剣な表情で言うものだから、さしもの綾も呆れる。若干天然なところがあるんだよな、この男は。




「世の中思い通りにならない方がいいこともあるんだよ」




正しいとか、正しくないとかじゃなく、そっちの方が優しい結末を迎えられる。するとマイセンは眉尻を下げて苦味を含んだ笑みを零した。




「綾ってたまに、正しい事言うよな」



不意に、より強く抱き寄せられて、僅かに体を強張らせる。と思えば今度はマイセンの癖っ毛が首筋を撫でて、くすぐったさに身を捩りそうになる。それでも肩にかかる重みが離れていかないよう、我慢した。諦観めいた声音で「正しくて、困る」と呟いた直後に、「俺、笑えてる?」なんて柄にもなく弱気に聞いてくるせいで、鼻の奥がつんとする感覚に襲われた。――顔が見えないとわかっていて、そういう事を訊く。本当に、ずるいなあ。こっちが泣きそうじゃないか。そんなこと言われたら、わたし、




「――簡単にキスしないんじゃなかった?」



押し付けた唇を離して見上げれば、マイセンはいつものマイセンで、愉快そうにそう尋ねて来た。
キスをした理由?マイセンが、寂しそうだったから慰めた。ただそれだけのことで、他意はない。そう、さしたる意味なんて無いのだ。




「ほっぺただから、セーフ」

「…じゃあ、これでアウト?」



唇に落とされるキスを、今度は甘受する。
寂しさを紛らわすだけならば、相手は誰だっていい。どんなに愛し合っても、本当の意識は別のところにある。
彼は、残酷だ。とても残酷で―――とても、優しい。




「うさぎってさ、」
「ん?」
「うさぎって、寂しいと死ぬって言うでしょ。あれ、嘘なんだって。うさぎは縄張り意識が強いから本当は一匹で飼うのが一番良いんだって。せんせーが言ってた」

「…でも、寂しさはストレスになるんだろ?」




マイセンが自嘲気味に笑う。ねえ、誰がきみにそんな顔をさせるんだろう。ああ、そうだ。誰のせいでもない、だから余計に性質が悪いんだ。
戯れに唇を重ねても、慰めに体を重ねても、一時の愛を重ねても、心が重なることは絶対になく―――故に、その関係性に意味を持たせることなど出来はしない。
彼は、マイセンとはつまりはそういう男なのだ、と夏目は思う。彼の苦しみは心だとか意思だとかではなく、もっと別の深いところにあるような気がした。
止まずに降りてくるマイセンのくちびるへ指先を押し当てる。




「マイセンのばか。これ以上のことしたらアリシアちゃんに言いつけるから」
「…う。それは反則技だろ…」




途端に手を引っ込めるマイセンのうろたえ様に、綾は小さく笑う。笑ってから、もう一度頬へキスをした。これも、ただの戯れだ。



Plastic girl





(ああ、誰かがきみにそんな顔をさせているのだとしたら、そいつを縊り殺してやるのに)