赤をはらんだ笑みに


「綾、綾」
「……」
「綾ー」
「……」
「そんなに露骨に無視されると流石に傷つくぜ?君って案外小悪魔だよなー」

「……(悪魔はお前の方だと物凄く言いたい)」




私の眼前に迫る真っ赤な騎士さまはやっとこさ本から顔をあげた私へ向けて嫌な顔ひとつせずにこっと笑った。さわやかーに。
………もうこいつマジで死んだらいいのに。




「ねえ、エース。ここどこだかわかる?」
「はははっやだなあ綾。幾ら俺が方向音痴だからって今居る場所くらいはわかるよ。木の上だろ?」



そう。私達は木の上に居た。何故か木の下にいるライオン(ぐるる…とかいううなり声をあげる)にじっと狙われている見つめられているという特異な状況で。
もう一度言うがライオンだ。百獣の王って呼ばれる哺乳綱食肉目ネコ科ヒョウ属に分類される食肉類だとかなんとかというどうでもいい情報をエースがぺらぺら喋ってくれたが正直そんな無駄知識はいらない。




「ライオンの餌でも横取りしたの?」
「え?心外だぜそんなの。心優しい俺がライオンくんの獲物を横取りする訳ないだろ」

「………へー…じゃあ何したの?」
「いや、ちょっと遊んであげただけだよ。鹿を斬ったら突然襲い掛かられてさーびっくりした、びっくりした」




思いっきり横取りしてんじゃねーか。……まあいい。このひとにそんなことを言っても無駄だってわかってるしな。
これで木を落ちたらまず間違いなく死ぬ事が確定した。おそらく食い千切られるという何ともグロッキーなバッドエンディングになりそうだった。武器であるエストックはこの距離では届かないし、投げて外したりしたら意味が無い。
銃は二挺とも木の下だ。いや、まあ、別にどうせ使えないからいいけど。




「最悪」
「そう?この前だって熊さんに追いかけられたじゃないか」
「……今回は誰かさんが池に落としてくれたから服を乾かそうとしたところで百獣の王さんに追いかけられたからびしょ濡れできもちわるいんだよ」
「はははっ、まあ別にいいじゃないか。どうせ暫くすれば乾くんだからさ」




そういう問題じゃない。カーディガンは水を吸って重かったので脱いで、今はワイシャツにプリーツスカート、かろうじて無事だった制服の上着を腰に巻いているのみだ。
対するエースはいつもの真っ赤なコートを脱いだ、黒服の状態。下に居るライオンを見て面白そうにブーツの先を揺らしていた。
……しかしこいつ、幸い近くの木に登ったからいいものの、そうじゃなかったらどうしていたんだろう。……愚問か。切り伏せるに決まっている。




――――とりあえず確かな事は完全に手詰まりだということだった。
まあ、どうせこの男はこのまま暫く動く気なんてないんだろうし。落ちないよう体を幾分か気を張って座りなおして、上着の内ポケットから文庫本を取り出す。
くすんだ赤色の表紙はちょっと前までは水でべちゃべちゃだったのにそんな事実はなかったとばかりに元通りに乾いていた。服より乾くのがはやいって何でだよ。




「ん、本?」

「うん。アリスにおすすめして貰った本読むからなるべく邪魔しないで欲しいなーとか思うんだけど」

「えー」
「良い大人がえーとか言うなえーとか」




まあ、この世界にまともな大人なんていないが。
あ、いや、塔のトカゲさんなんかは割とまともか。




「綾も読書とかするんだな〜…初めて知ったぜ」
「まあ、薦められれば。絵本とかの方が可愛くて好きだけど」

「はははは、君の方が可愛いぜ綾」
「……エースって時々頭弱いなーと思う時がある」
「はははははっ君の方こそ時々酷い事言うよなー。俺は本気で君の事を可愛いって思っているのに。
俺…綾の事が好きなんだよ」



さらり、と。今晩の夕食のメニューでも言うように告白された。
爽やかだけど…うさんくさいな。いや、うさんくさいというかこれは―――――、



「………エース」
「ん?」

「八つ当たりはやめてよ…ユリウスも元気にやってるから大丈夫だと思うし、また引越しがあれば会えるかもしれないでしょ」




最近、妙にエースに絡まれる。前なら笑顔で飄々としていたのに、今は笑顔でも端々に棘があるのだ。
この前なんて斬りかかられたし。彼がいささか攻撃的になった理由について思い当たる節といえば一つしかない。――――ユリウスだ。
親友と引き離されて荒れるなんて全くめんどくさい男である。




「ははは、君は面白い事を言うなあ。俺は前と何にも変わってないさ。それとも、今のは話を逸らすために言っただけ?」

「……すきって言われても実感が沸かないっていうか」




第一、きみは私のことが嫌いでしょ、という言葉が喉まで出掛かる。




「好きだよ」



これが彼と初対面の人間ならおそらく真摯な好青年の告白に聞こえたかもしれない。だが私は彼という人間を知っている。
エースは真摯な愛の告白などしない。
まるで心を読んだかのように仄暗い赤が冷たく私を捕らえる。張り付いているのは、笑顔、ではなく。それに思わず目を奪われて、彼が器用に近付くのを阻止出来なかった。
実のところ、ライオンなんかよりこの男の方が、怖い。殺される、というか、もっと根本的な―――、




「綾」



低く甘ったるい、耳元へ残る声。
近い。無駄に近い。動けば触れ合ってしまいそうな、くちびる。赤い慧眼がふといつものとぼけたそれに戻って、はっとした。
何をやってるんだ、私は。




「………服、乾いてきたね」




やっとのことで搾り出した声は上ずっていたかもしれない。ぎし、と枝音を立てて私から少し離れた位置へ戻った彼は適当に答えた。
爽やかに笑って。それに僅かだが安堵してから、私は腰に巻いていた上着を解き、袖を通す。すると何を考えているんだかわからない赤い騎士は
「折角いい眺めだったのにな」と残念そうにぼやいた。………爽やかに言うもんだからセクハラに聞こえない。今になって、話を逸らされたのは私の方だったということに
気がついた。




赤を孕んだ笑みに、




(思考をかき乱される)