Three
「神藤、日本酒はいける?」
「いやあ、あんまり飲まないですかね」
「ちょっと飲んでみよう、な?」
「うーん、じゃあ、ちょっとだけいただきます」」
今日は神藤の属する事務所の社員旅行だ。温泉旅館に泊まってのんびりして宴会をするといったお決まりのコース。
神藤の属する事務所は裁判官事務所のなかでも大きなもので、いくつかの部署に分かれている、人数の多い事務所だ。普段仕事をしているなかで顔を合わせないメンバーとも交流できるこの機会を楽しみにしている社員は結構多いという。しかし――神藤としてみれば、事務所内の人間全員と顔を合わせることになる社員旅行は杞憂となっていた。
まず――裁判官の心理状態を管理するという研究機関に属する、鑓水。彼とは時々話をするが部署が違うためその頻度は少ない。彼とも、今回の社員旅行では一緒になる。そして、同じ裁判官でありながら一緒に仕事をすることは滅多にない、冬廣。彼ももちろん今回は一緒だ。彼ら二人と共に過ごすというのが、神藤にとっては憂鬱で仕方ない。彼ら二人のことは好きなのだが、それなりの事情があるためあまり関わりたくないのだ。
しかし、こうした場であからさまに彼らを避けることなどできるわけもなく。宴会の場で、神藤は鑓水の隣の席になり、酌を交わすこととなる。
「鑓水さんは? お酒強いんですか?」
「俺? 俺はねえ、弱いよ」
「え、こんな見た目しているのに」
「うるせえ、俺は酒・タバコはやらないの。あとギャンブルとかも。真面目な夫でいるんだ〜波折のために」
「……もう酔ってます?」
***
「……」
地獄絵図だ。神藤は今自分の目の前に広がる光景をそう思っていた。裁判官は体育会系なところもないというわけではないため、結構激しい飲み会になるらしい。みんな、次々とお酒を飲んで――このとおり。顔を赤くしながら、べろべろに酔っている。
神藤は自分がそこまで酒に強くないことを自覚していたため、ある程度自粛していた。ほろ酔い程度の心地よい酔いが回っているのだが……あまり、いい気分ではない。
「けいたー、ねえねえけいた。ずるいよけいたばっかりさらとはなして」
「おまえも混ざればいいじゃん」
「だってー」
神藤の前でふらふらになっている鑓水。彼にぴったりとくっついて甘えているのは……冬廣だ。冬廣は酒に弱いらしく、酔うと甘えん坊になってしまうらしい。普段は高圧的で且つ他の裁判官の憧れの存在である冬廣の、とんでもない一面である。
神藤の近くで飲んでいた女性社員たちが、興味津々といった様子でこちらの様子を伺っている。彼女たちは女性ということもあって、あまり酔わないように気をつけながら飲んでいたらしく、ほぼ素面の状態だ。この状況を見られるのはまずいと、神藤はヒヤヒヤしっぱなしなのである。
というのも、神藤と冬廣はあまり仲がよくないというふうに見られていて。ここで冬廣が酔いに任せて甘えてきたりでもしたら、のちのち面倒なことになると、神藤はそう思ったのだった。
「……さら?」
「な、なんですか」
「きょう、いっしょのふとんでねよ?」
「ばっ……お、お断りします! ひとりで寝て!」
「……うう、ひどい」
めそめそ、めそめそ。鑓水の胸にすがりついて、冬廣が悲しんでいる。憧れの裁判官のあられもしない姿に、女性社員たちは目を丸くして驚いている。どうしたものかな……と神藤がため息をついていると、冬廣がちらりと鑓水の顔を覗き込んで、とろんと甘い声で話し始める。
「おれ、さらにきらわれてるの」
「嫌ってないよ、神藤は」
「だって……だって……」
「神藤はおまえのことが大事なの」
「でも、おれは、さらにぎゅってしてほしいのに……いやがられるし……」
「それはなあ、しょうがないよ。神藤なりの気遣いだってば」
……顔が、近い。鑓水と冬廣の顔の距離が、やたらと近い。軽く頭を押せばキスをしてしまいそうなほどに。普段からそんなふうにして話しているんだろうなあと思うと、神藤はうんざりとした気分になった。
本当は、自分だってそんなふうにして冬廣と甘い生活をおくってみたいのに、って。
もやもやとして、なんだかもう見ていたくないって、神藤はその場を離れようとした。思い切り周囲の視線を集めてしまっているのも、居心地が悪い。立ち上がって、他の席へ逃げようとしたときだ――
「さら、まって」
「……、」
きゅ、と冬廣が神藤の服の裾を掴んできた。あんまりにもさみしそうな顔をしていたものだから、神藤も流石に抵抗できなかった。しぶしぶともう一度座布団の上に座って、「なんですか」とぶすっとしながら聞いてみる。
「さら、おれとはちゅーしてくれないでしょ?」
「するわけないでしょ!」
「うん、だよね……だからね、」
もそもそと冬廣は移動して、鑓水の後ろに。「お?」と声をあげながら鑓水は冬廣を目で追っている。いちゃいちゃしやがって……と神藤は言いそうになったが、その前に冬廣がとんでもないことを言う。
「けいたとして?」
「……何を?」
「だから、ちゅー」
「……ちょ、ちょっともう一回言ってもらえますか、残念ながら俺の頭では理解できなかったので、」
「だから、さらと、けいたがちゅーするの!」
わーい!とぱちぱち拍手をしながら、冬廣が言う。二回言ってもらっておきながらも、神藤はすぐに冬廣の言葉を理解できなかった。
俺と、鑓水さんがちゅー? ちゅーってなんだっけ? キス? いや、波折先輩とキスするならわかる、俺と鑓水さ……
「――わ、わけわかんないから!」
「え、なんで?」
「なんでじゃない! まったくもって意味がわからない! 俺と鑓水さんにそういう要素ないでしょうが!」
何を言っているんだこの人は。冬廣の言っていることのわけのわからなさに、神藤はめまいがした。酔っているからといってなんでこんなことを言い出すんだ……と神藤は溜息をつく。
「ちなみになんで俺と鑓水さんにちゅーして欲しいんです?」
「おれ、さらもけいたも好きだから、好きなふたりがちゅーしたらさいこーでしょ?」
「どういう理屈!?」
ぎゃーぎゃーと騒ぐ神藤は、再び周囲の女性社員の視線を集めていた。普段は落ち着きがあって、しかも冬廣といまいちな仲の神藤が、こうして冬廣を相手にムキになっているのが珍しいのかもしれない。しかも、(なにげに)人気のある神藤と、女性に絶大な人気をほこる鑓水がキスをするかもしれないというわけだ。彼女たちが興味をもってしまうのはもはや必然といえるだろう。
絶対にやらない! と意地になっている神藤をみながら、鑓水は笑っている。なんで当事者のくせにこの人はこんなに余裕なんだと神藤が睨みつけて遣れば、鑓水はその笑みを絶やすことなく、神藤の肩に手を置く。
「よし、神藤。キスするぞ」
「あ!? あんたも酔ってんのか!」
「いや、そこまでじゃない」
「じゃあなに寝ぼけたこと言ってるんですか! 誰得ですか鑓水さんと俺のキスとか!」
「波折が喜ぶことは何でもやるんだよ俺は!」
「頭おかしい! ちょっ――ちょ、やめ……!」
どすん、と神藤は鑓水に押し倒される。ほんのりと酔っているせいでうまく抵抗ができず、神藤はされるがままになってしまった。がんばって首をよじって逃げようとしたが、鑓水は神藤の頬を両手でつかみ、そして――唇を奪ってしまう。
「――ん、」
適当にキスをしてくるのかとおもいきや。鑓水のキスはわりと「ガチ」なものだった。まるで恋人にするかのような、優しくて甘ったるいキス。吐息が蕩けるような、そんなキスで、思わず神藤もドキドキとしてしまう。
――いや、まてまてまてまて、おかしいからこれ!
「うおっ」
「ばっ……や、鑓水さん! ふざけんなー!」
「ええ? なになに? 俺に惚れそうになった?」
「なるか! ばか!」
神藤は顔を真っ赤にしながら、したり顔の鑓水に掴みかかる。そんな二人をみてきゃーきゃーと騒いでいる女性社員たちは楽しそうだ。
なんで俺が鑓水さんにキスをされてうっかりドキッとしちゃってそれをみんなに見られなくちゃいけないんだ……
理不尽すぎる辱めに、神藤はプチンといってしまいそうになった。文句を言ってやろうと鑓水の後ろで丸くなっている冬廣に視線を移して――神藤はあんぐりと固まってしまう。
「ね、寝てる……だと……」
***
「ん……?」
朝が、やってくる。太陽の光が部屋の中に降り注ぐと同時に目を覚ました冬廣は、いつもとは違う感覚に首をかしげた。
そうだ、昨日からたしか社員旅行で旅館に来ていたから、今自分が着ているのは浴衣で、それから寝ているのはベッドじゃなくて布団で……
「あれっ!?」
昨日の記憶が、ほとんどない。だから、冬廣は今の状況に驚いてしまった。何がどうなってこんなことになっているのか、わからない。
ひとつの布団に、冬廣を挟むようにして鑓水と神藤、三人で寝ていたのだ。まさか、酔った勢いで何かやらかしたかと冬廣は顔を青くしたが……服はしっかり着ているため、そこまでのことはしていない……はず、だ。
「……ま、いっか……」
こんなふうに三人で平和にいられるのなんて、今くらいだ。二人が目を覚ますまで冬廣はその幸せに浸かろうと……目を閉じた。