センチメンタルラバーズ・シガレットキス




「あの……私と、お付き合いしていただけませんか……?」



――女性から、告白をされるたびに思うことがあった。この人と恋人になって、結婚して子供を産んで、家庭を築けたなら、自分は普通の幸せを得られるのではないかと。でも……そんな考えは浮かんではすぐに消えてゆく。



「……ごめん、君とは付き合えない」



 途方もない、恋をしていた。絶対に叶わない、叶えるつもりもない恋をしていた。その人を幸せにするために、自分は自分の幸せを捨てて、彼のために生きるのだと、数年前に決めていた。まだ青かった、青春時代に決めたこと。それは――今でも、神藤沙良の胸のなかに灯っていた。




***




「――ここにいたのか」



 東京のとある裁判官の事務所。その屋上で、神藤はぼんやりと空を眺めていた。そんなところに声をかけてきたのが――冬廣波折。神藤の、想い人。



「……冬廣さん。なんでここに?」

「いいや。今、新人がはいってきたから顔をみてきたら、って」

「新人……? ああ、もうそんな時期ですか」



 神藤が裁判官になって一年。あっという間に過ぎていった日々のことを、神藤は振り返る。なにひとつ、いい思い出なんてなかったな、と思って苦笑することになるのだが。



「その新人の教育係、神藤だからさ。先に顔をみていたほうがいいかなって」

「……いいです、めんどくさい」

「……そう」



 フェンスに寄りかかり、神藤は冬廣に背をむけたまま。あまり、冬廣の顔はみたくなかった。どうしても彼の顔をみると、彼への恋心がぶり返してしまうから。彼と決別するのだと決めたのは自分自身。その決心を揺らがせたくなかったし、彼がもう違う人のものになっているという事実も苦しかった。

――神藤の冬廣への想いは、少し変わっている。ただ彼と敵対したいわけではない。彼への恋心こそが、彼と敵対する糧となっている。冬廣を幸せにするには、彼の命を絶ってやらねばならない。だから、自分が彼を――……そう思っている。しかし、恋心は恋心。彼を抱きしめたいとか、そういった想いもある。色んな想いがぐちゃぐちゃになって……だからこそ、苦しかった。



「……そうだ、冬廣さん。昨日、誕生日でしたっけ」

「ああ……うん、そうだよ」

「おめでとうございました。鑓水さんとどんな誕生日を過ごしたんですか?」

「ありがとう。慧太とは……うん、幸せな誕生日を過ごしたよ」

「そっか、それはよかったです」



 冬廣が神藤のとなりに立つ。フェンスに肘を乗せて頬杖をつくその左手の薬指には――きらりと光るシルバーリング。冬廣が「彼」のものになった証。鑓水は、かつて神藤と同じように冬廣を愛した人物の一人で……今は、晴れて冬廣の恋人になっている。自分とは全く違う心を持つ鑓水。彼は彼の方法で、冬廣のことを幸せにしてあげようとしているんだ……そう神藤は鑓水に対して思っていた。自分の考えとは全く違うが、彼なりの方法を最近は認めている。



「……ね、神藤」

「はい?」

「いつから「それ」吸ってるの?」



 冬廣はちょいちょいと神藤を指差して首をかしげる。ちょっとした仕草があざといのは相変わらずだなあ、とため息をつきながら、神藤は口にくわえていた「それ」――煙草を唇から離した。



「……一年前」

「……一年前って……まだ神藤、19歳……」

「……目をつぶってくれませんか」

「……うん、わかった」



 冬廣は神藤の指先でゆらゆらとのぼる紫煙をみて、物憂げに目を細めた。彼の周囲に、煙草を吸っている人間はたしかいなかったはず。親も、友人も、同僚も、そのなかに喫煙者はいなかった。だから、神藤が煙草を吸い始めたのは、彼の意思だろう。彼は煙草を吸って――心の安寧を保つようになったのだ。そして、その原因が、自分にあると、冬廣はわかっていた。自分が、神藤に助けて欲しいと……そう縋ったから。だから、神藤の人生は狂ってしまった。狂ってしまったから、彼の心は少しずつ朽ちていった。



「……一本、もらっていい?」

「冬廣さん、煙草吸うんですか?」

「吸えるってだけで俺は喫煙者ではないかな」

「付き合いで吸うだけみたいな?」

「そうそう。自分では吸わない」



 神藤から差し出された箱から、冬廣は一本煙草を手に取る。そして、唇に近づけて言う。



「……火、くれる?」



 煙草を咥え、冬廣はさみしげに微笑んだ。神藤はすうっと目を細めると、フェンスにかけられた冬廣の手に自らの手を重ねる。そして……そっと、煙草の先を触れ合わせた。

――この、煙草の先の口付けが、幻のようにみえる。今の二人は、純粋で歪な想いが交差した――恋人よりも深く浅い関係。誰よりも遠く、そして誰よりも心の奥底を支配し合う、そんな関係。キスをしてもそこに熱など灯らない――それなのに、煙草を触れ合わせれば、そこに火は灯る。



「冬廣さん。俺ね、自分が選んだこと、後悔なんてしていませんよ」

「……ああ、」

「あなたが命を終えるときに、その瞳に映っているのが俺だって考えると……嬉しい」



 神藤の人生を狂わせた。愛よりも強烈な情念を、神藤は冬廣に向ける。それが――冬廣は、嬉しかった。哀しくて、嬉しかった。



「ねえ、――波折先輩」



――はやく、この醜い命を終わらせて欲しい。



「俺は、先輩の事がだいすきで、だいきらいです」



 苦い煙草の味を口の中で転がして――愛されることを何よりの幸福としたエゴイストは、微笑んだ。





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