Engage ring
「慧太、おはよう」
鑓水が目を覚ますと、朝日に照らされた波折が微笑んで見下ろしていた。すでに髪も服装も整えていて、きらきらとしている。ああ、愛おしいな……そう思いつつ鑓水は、波折に手を伸ばさない。ここで彼に触れたら、彼を愛でたくてたまらなくなってしまうからだ。忙しい朝に、そんなことできるわけがない。
鑓水がのそりと起き上がると、波折がちゅっとキスをしてくる。バカおまえそんなことしたらせっかくの我慢が――そんな想いを飲み込んで、鑓水はよしよしと波折の頭を撫でた。
――波折と鑓水が同居を始めて、二年以上経っている。浅羽はあの日波折たちに打ちのめされたあと、波折と性関係を持つことをやめていた。ただ、波折が浅羽の目的のために動こうとしているのは変わっていないらしく、進む道は結局は悪の道。
波折の置かれている状況は、以前苦しいもの。しかし、鑓水はこうして浅羽が波折と少し距離を置いたことによって、波折をほぼ独占できていた。波折が自分のことをどう思っているのかは、まだよくわかっていない。しかし、一緒にいてくれているというだけで鑓水は幸せだった。
***
「――慧太、お疲れ」
鑓水が仕事を終えて帰ろうとすると――鑓水の車の前で、波折が待っていた。
鑓水は、波折と同じ事務所で働いている。しかし、波折と同じ裁判官ではなく、裁判官たちの心のケアをするカウンセラーという職についていた。裁判官になろうと思えばなれたのだが、浅羽が裁判官たちの心理状況のデータが欲しい云々と言っていたため、そういった情報を集めやすいその職についた。
ただ、職場に波折との関係を知られるわけにはいかない。波折は裁判官一年目にして非常に期待されていて、おそらくあっという間にトップをとるだろうし、そんな彼に同性愛などという噂がたってはいけない。そのため、出勤も退勤も別の車で違う時間にしていた。
「波折……どうした」
「んー、一緒にごはん食べに行こうと思って」
「? いいけど……めずらしいな?」
「……たまには、デートしようよ」
ほんの少し、波折が頬を赤らめる。その可愛らしい表情に、なんで朝電車使って出勤したのかと思ったらそういうことか、ぶっちゃけレストランのごはんよりおまえのごはんのほうが美味しい、とか余計な考えは吹っ飛んで、鑓水はうきうきと車に乗り込んだ。
***
食事を終えて、夜風が心地良い、そんな状態で再び車に乗り込む。行きは波折が運転したため、今度は自分が運転しようと鑓水が運転席についてシートベルトを締めようとしたときだ。波折が、きゅ、と鑓水の腕をひいてキスをしてくる。
「……波折?」
「慧太……知らないでしょ」
「……なにが?」
「俺、ちゃんと、慧太のこと、好きだよ」
「……知ってるけど」
「……そうじゃなくて」
波折の瞳は、夜の光できらきらと輝いていた。そして、微かに切なげに細められている。波折は、その瞳のまま、微かに微笑んで、鑓水の手に自分のものを重ねる。
「俺……慧太に、恋、してるよ」
ドッ、と鑓水の心臓が高鳴る。あんまりにもその表情、言葉がしとやかで、美しくて、愛おしくて……心臓が激しく高鳴りすぎて、死んでしまうのではないかと思ったほど。
波折は――浅羽のせいで、おかしくなった。愛されることが大好きで、そして愛してくれる人たちがみんな好きで。波折にとっての「愛」は、普通の人たちの「愛」とは確実に別物だった。
それを、鑓水は理解していた。鑓水は一般的に言う「愛」を波折に抱いていて、そして波折が自分に対して抱いている「愛」が自分のものとはズレている、それをわかっていた。それでも波折のことは愛しているし、波折は自分を必要としてくれているし、この愛が一方通行だとしてもずっと一緒にいよう……そう思っていた。
だから、波折の言葉には驚いた。「恋」という言葉。波折の口からでてきたことはない。「愛している」ならばセックスの最中とかに何度も言ってきていたが……あえてここで「恋」と言ってきたのは……
「……ごめんね、慧太に不安な想いさせていたでしょ」
「え、なにが?」
「俺が、慧太のこと好きじゃないって」
「波折は波折の愛し方で俺を愛してくれているって、わかってたよ、謝らなくても」
「ほら……慧太は、自分の愛が一方通行だって、そうやって苦しんできた。俺が、おかしいせいで」
「苦しんでなんかいない……! 波折、俺は……」
「愛し合ったほうが幸せに決まっているでしょ、慧太……」
波折が鑓水の手をとって、自分の左胸にあてる。――激しく、心臓が高鳴っていた。それに連動するように鑓水の心臓までもが高鳴ってきて、狂ってしまいそうになる。
これは、まさか――絶対に、ないと……「諦めて」いた……
「愛している、慧太。俺、慧太と同じ気持ちだから」
「――っ、ま、まって……」
波折が再びキスをしてこようとして、思わず鑓水は逃げた。かあーっと顔が熱くなって、混乱してしまって、思わず逃げてしまったのだ。
――これは、夢だろうか。波折と本当の意味で気持ちが通じるなんて、そんな……。
鑓水の動揺は収まらず、ずっと顔を赤くしてぼんやりとしていたものだから……結局、波折が運転をすることになり、席を交代することになってしまった。
***
波折が、鑓水への愛情に気付いたのは高校3年のころ。浅羽たちの非道的な行いに、苦い顔をしながらも付き合っている鑓水をみて心を痛めたことが始まりだった。
鑓水を、この道に引きずり込んだのは自分だ。鑓水が、自分のことを溺愛してくれていて、そしてついてきてくれると確信していたから。ついてきてくれればかんの鋭い鑓水のことを殺さずに済むし、彼をこの道に引きずり込むほかはないと、そう思っていた。
しかし……最近になって、そうして自分のために自らの倫理を犯す鑓水をみて哀しいと思うようになってきたのだ。彼は、自分のためにすべてを捨てた。輝かしい未来も、なにもかもを捨てて自分と一緒にいることを選んでくれた。それが、昔はただただ嬉しかったのに今は哀しかった。
それが、愛だった、と気づくのには随分と時間を費やした。いつの間にか波折は鑓水を見つめるだけでも、幸せな気持ちになることが多くなった。昔はただ、鑓水が自分にキスをしてくれたり抱いてくれたりするから「好き」と思っていて、ただ彼の姿を見るだけで幸せになるなんてことはなかったのに。こうして同じ部屋にいて、「おはよう」を交わして、自分の作った料理を彼が「おいしい」と言って笑ってくれて、そして彼に「おやすみ」を言って一日を終えて。そんな何気ない日常がものすごく、幸せだった。毎日のように抱いてもらわないと気がすまなかったはずなのに、ただ一緒にいてくれるだけで心が満たされて、抱いてもらわない日もそれなりにでてきた。
ただ――「愛しているよ」――鑓水にそう言われて抱きしめられ、キスをされるとたまらなく幸せな気分になる……その幸せな気持ちのまま「俺も愛しているよ」と返せば鑓水が満足そうに笑うのを、申し訳なく思った。この愛が、鑓水に伝わっていないからだ。鑓水は波折が普通の愛を知らないから、と波折へ想いが伝わらなくても波折が幸せならいいと、一緒にいてくれている。そんな、自分の幸せを捨てている鑓水に、ひどく波折は心を痛めていたのだ。
だから――伝えた。必死に伝えた。仕事が終わってから、普通の恋人たちがするようにデートに誘って、そして言葉でしっかりと鑓水に想いを伝えた。
――しかし、それから鑓水の態度はどうにもそっけない。そっけない、と言い切るほどのものではない、いつもとは何かが違う。いつもよりも触れ合いが格段に減ったのだ。……とはいっても、たった一日だが。昨日、想いを伝えてから家に帰ってもあまり触れてこなかったし、今日の朝も硬い笑顔を浮かべるだけ。極めつけは……いつもならすでに家に帰ってきていてごはんを食べている時間なのに、帰ってこない。
「……」
泣きたくなった。
なんとなく、理由を考えてみる。こんな、今後悪の頂点にたつことになる人間に愛されることが、嫌だったのかもしれない。ここで一緒になったらこれから新しく女性を見つけて結婚して子供を産むという未来が本当に失われてしまうということを、恐れたのかもしれない……。
色々と理由を考えて、波折はベッドに塞ぎこんで、嗚咽をあげた。鑓水を責めるつもりなんて一切ない。もともと鑓水は普通の人間で、こんな道に来てはいけない人間だったのだから。逃げたいと思うのが、普通だ。……そう、わかっているのに。哀しくて哀しくてたまらない。これほどまでに自分が鑓水のことを好きだったということを、痛感する。
こんな、おかしな人間は恋をしてはいけないかった。鑓水はもとの世界へ帰るべきだ。
いくら泣けばこの哀しみは流れていくだろうと、波折がぼろぼろと泣いていた、そのとき。
「――ただいま」
「……けいた?」
鑓水が、帰ってきた。車から降りて走ってきたのか、髪が乱れ息が切れている。
「悪い、せっかく波折がつくった飯、冷めちゃったか?」
「え……大丈夫、温めなおすから……」
「……あれ、なんで泣いてるの」
「……かえってこないとおもって」
「……あ、ああ……! ご、ごめん、」
鑓水は波折の涙に気づき、慌ててその涙を拭う。自分の帰宅が遅れたことが原因だとわかると、波折に何度もキスをして、謝った。波折は「けいた、けいた」とうわごとのように言いながら、鑓水にすがりつく。鑓水はそんな波折に最後にちゅ、と軽くキスをすると、離れていった。
そして、乱れた髪を手ぐしで整え始める。緩んだネクタイも締めて、なにやらかしこまったように真っ直ぐに立った。
「あのさ、遅れた理由なんだけど」
「う、うん……」
「昨日……波折が、俺のこと好きって言ってくれたじゃん。それで、俺と同じ気持ちって。でも、俺の思っている好きと違ってたら恥ずかしいからさ、」
鑓水が、ポケットに手を突っ込んだ。そして、小さな箱を取り出して、波折の前につき出す。もう片方の手で蓋を開けられたその箱には――シルバーリングが入っていた。
「俺のこと、愛しているなら、これを受け取ってくれ」
「えっ……」
「意味はわかるな。これを受け取ったら、おまえは俺以外の人間に「好き」って言っちゃいけない」
鑓水が、真剣な目で見つめてくる。どくん、と心臓が跳ねた。
「……これ、けっこんゆびわ?」
「まあ……結婚できねえけど、そんな感じ」
「……ッ」
――波折が、その瞬間に崩れ落ちるようにして泣き始めた。鑓水に抱きついて、声をあげながらえぐえぐと泣き続ける。鑓水は指輪が落ちそうになって慌てながらも波折を受け止めて、指輪を持っていないほうの腕で抱きしめた。
「けいたっ……けいた、すき、すき……だいすきです……」
「波折……」
「……ゆびわ、つけてください」
波折が涙を流しながら微笑んで、左手を差し出す。鑓水はその左手をみて、まぶしそうに目を細めた。そっと手をとって……そして、薬指に、指輪を。
「けいた……?」
「……悪ィ、カッコ悪いな」
波折の指に指輪がはまった瞬間、鑓水の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。「幸せすぎて、死にそう」そう言って鑓水は、波折にキスをした。
終