彼という人は、
それは、本当の自分を探す旅のような時間だった。誰にも見せたことのなかった、自分自身ですらも知らなかった自分を、あばきあって、晒しあって、みっともなくもがく時間だったのだ。
ぼんやりと、ラズワードはノワールの横顔を眺める。
この建物は、ワイルディングやレッドフォードの屋敷とは様式がかなり異なっていた。木材がメインに使われており、部屋には畳と呼ばれる床が敷いてある。今、二人が座っている場所は、縁側というらしい。
縁側からは、庭がよく見えた。よく整えられた木々が並んでいて、風が吹くたびにさらさらと音を立てる。同時に、ノワールの髪も揺れる。綺麗で、不思議な光景だ……そんなことを思いながら、ラズワードはノワールを見つめていた。
「浅葱っていうんだ」
唐突に、本名を教えられた。
ノワールに見惚れるばかりであったラズワードは、ぎょっと息を呑む。
ノワールという名を名乗る彼は、神族の長である。その名前は爵位のようなもので、本名ではない。ノワールとは、そのときの神族の中で最も力を持つ男性が授かる地位のことを言う。女性の場合はルージュだ。
ラズワードは、いきなり彼が本名を告げたものだから面食らってしまった。ノワールとルージュの本名はそう簡単に教えてよいものではないという。だから、彼とは深い付き合いではあるが、一生彼の本名を知ることはないと思っていたのだ。
「アサギ……ですか? それが、貴方の本当の名前?」
「……本当の名前と言っていいのかはわからないけれど。母が俺のことをそう呼んでいただけで」
「?」
「名前はないんだ。名前をつけてもらえなかった。厳密に言えば、生まれたときから俺はノワールだった。ノワールとして生きるために生み落とされて、それ以外の生き方を許されなかった。それを憂いた母が、せめても、と俺を浅葱と呼んで人のように愛してくれていた」
「……」
名前を与えられていない。それを聞いても、ラズワードはあまり驚かなかった。
ラズワードも似たような境遇で育ったからだ。
子どもの頃から娼婦の真似事をさせられて、言葉すらも教えてもらえず、自我を持つことを禁じられた。個々人の尊厳だとか、そんなものを完全に無視されて、傀儡のように生きてきたのだ。彼も同じようなものだろう――そう思えば、すんなりとその事実を受け入れることができた。
「どうして、教えてくれたんですか?」
「なんとなくだ」
「……そうですか」
ラズワードはちらりとノワールを横目で見る。
彼をまとう雰囲気は、筆舌に尽くしがたいものである。幾多の嘆きを踏み抜いて、数え切れないほどの憎悪を浴びて、それでもそれらを嗤いとばす。そこまでの悪を貫いておきながら、まるで普通の人間のように振る舞っている。まともに目を合わせた者は、大抵、その狂気の前に腰を抜かす。
しかし、今、ラズワードの横にいる彼は真っ白な人間だった。ノワールという名前を感じさせないような、そのあたりを歩いていそうな普通の人間だったのだ。
たぶん、今の彼が、ノワールという仮面を外した彼なのだろう。誰にも見せてこなかった彼の姿。
だから、彼も唐突に本名を教えたくなったのかもしれない。
「アサギさん」
「……!」
ふと、ラズワードは彼に触れたくなった。そっとその頬に触れてみれば、彼はきょとんとした顔をして見つめ返してくる。
可愛らしい表情だと思った。
ああ、この顔は。たまに見せてくれる、彼の本当の顔だ。たまに――そう、少しばかり、いじめたときに見せる顔。
「ん、…… 」
「アサギさん……」
彼は、たぶん、いじめられるほうが好き。
それは、誰も知らないだろう。どちらかと言えば、彼はサディストな人間と思われているかもしれない。神族の長で、奴隷商人たちを束ねる悪党の頭――その地位に相応しい人となりであると。彼自身、そのような振る舞いをしようと意識しているに違いない。だからこそ、彼の本当の姿を知る者はいない。仮面の下の、硝子細工のようなマゾヒズムなんて。
「あッ、」
「あなたは、本当に……繊細なひとですね」
ラズワードはする、と彼の首筋を撫でると、そのまま首に噛み付いた。甘噛みをして、そして徐々に歯を肌に食い込ませてゆく。
「ぁ……」
びく、びく、と彼の喉が震えた。ちらりと視線を落とせば見えたのは、ぎゅっと握られた彼の拳。痛みは感じているのだろう。それでもまったく抵抗する様子はなく、されるがまま。このような状況で艶めく彼の吐息は、呆れるほどの彼の被虐心を映していた。
そっと、口を離す。くっきりと浮いた歯形が、痛々しい。ここまで強く噛んだら痛かっただろうに、彼は気持ちよさそうな声をあげていた。彼は、そういう人なんだな――ラズワードは理解して、はあ、と息をつく。
「……可愛いですね」
「ん、……」
彼の手を引いて、部屋の中へ。そして、敷かれた布団の上に、どた、と彼を押し倒す。
ぐ、と首を掴んで顔を覗き込んでやれば、彼は焦がれるような目をラズワードに向けてきた。潔癖そうな顔をしながら、快楽と苦しみに目を歪ませるその表情は、あまりにも美しい。
「……こうされるの、好きですか? 言ってくれれば、いつでもするのに。あなたは、全然教えてくれませんね」
「……俺を、誰だと思っている。俺は、他人に組み敷かれていい人間じゃないんだ……こんなこと、」
「まあ……そうですよね。あなたは、ノワール様ですから。でも、今……あなたは、アサギさんです」
さあ、と葉風が立つ。風が彼の髪をはらはらと散らし、前髪が彼の瞳を隠す。
ここまで自分を曝け出しておいてまだ隠そうとするのは、彼のノワールとしてのプライドだろうか。そんなもの、ここでは必要ないのに――とラズワードが甘やかすように彼の頭を撫でてやると、彼は困ったような表情を浮かべる。
ラズワードが彼の前髪を払ってあげれば、彼は戸惑ったようにラズワードを見上げ、また、ふいっと視線を逸らす。
「……よく、父に折檻されていた」
ぽろ、と彼の口から言葉が転がり落ちる。
「抵抗しようと思えば、いくらでもできる。けれど、俺はしない。……あの人に嬲られることが、俺という人間の役割なんだって、なんとなくそう思う」
「……それは、違うと思いますよ」
そのようなことが、正しいわけがない。自身も似たような過去を持っていたラズワードは、彼の言葉を否定した。しかし、彼はふっと笑ってゆっくりと首を横に振る。
「なんだかんだ、俺はノワールという生き方から逃れることはできないんだ。俺は、本当は地獄のような苦しみを味わうべき人間だと思っている。父からの折檻なんて、まだまだ足りないくらいだ」
「……だから、痛いのが好きなんですか?」
「さあ。おかしいかな」
彼の首を掴むラズワードの手に、彼の手が重なる。ラズワードは彼に誘導されるように、彼の首を絞める力を強くしていった。ぐ、と手のひらに彼の喉仏の感覚が伝わってきて、少しだけ怖くなる。これ以上締めたら、首の骨を折ってしまいそう。
「あ、……」
彼は軽くラズワードの手に爪をたて、目を閉じた。ひら、と前髪が上がって、彼の額が見える。
唇からこぼれた吐息が、甘そうだと思った。
首を絞められて喘ぐ彼が、ラズワードにはひどく色っぽく見えてしまった。
――倒錯している。
この、浅葱という男、恐ろしいまでに倒錯している。ラズワードは彼の中にある空虚に恐怖を感じたが、同時にするべきことをわかってしまった。
ラズワードは彼の首から手を離し、くい、と彼の顎を掴む。彼は少しばかり驚いたような表情を浮かべていたが、すぐに受け入れたようで大人しくされるがままになっていた。焦がれるような目でラズワードを見上げ、ゆるく唇を動かした。
「――……」
その唇からは、言葉は紡がれない。はく、と動いたと思えば吐息が漏れるだけ。しかし彼が何を言おうとしたのか――それを、ラズワードはわかってしまう。
「壊して」と。
彼は、そうラズワードに懇願したのだ。
「アサギさん。優しく、しますからね」
「……ラズワード……? あ、……」
ラズワードは彼をうつ伏せにしてやった。そして、彼のシャツのボタンを外していき、がばっと肩をはだけさせる。強引に服を脱がされても、彼は抵抗しない。無防備で白い背中があらわになると、そこをどうにかしてやらねばという気持ちになった。
「ん……」
ラズワードは自らのネクタイをほどき、じっと彼を見下ろす。
「手を、シーツに突いて」
「――……、はい、」
「はい、よくできました。アサギさん」
彼はちらりとラズワードを見上げて、まつげを震えさせた。
「あっ――!?」
ネクタイを二つ折りにして、そのまま振り下ろした。パシッと音がして、彼の体がビクッと浮き上がる。
不意に零れた声は、艶めいた声。
ああ、この人は、こんなことをされて悦さそうな声をあげて。
こうされることが、好きなのだ。彼は。
「ぁッ……は、……」
振り下ろし、振り下ろし、ネクタイで彼の身体をいたぶると、そのたびに彼は甘い声をあげる。
シーツを掴む手が、憐れだ。
「ッ――あ、……ン、……あッ……、ぅ、」
この程度の痛み、彼にとってはどうということもないだろう。それでも、叩くたびに彼の体はビクビクと震えている。たまに背中が反って、揺れる肩甲骨の陰が色っぽい。
叩かれるということに、彼の心は歓びを覚えている。
「あなたは本当に……悪い子ですね」
ラズワードは彼に憐れみのような感情を抱く。
こんなものを抱えていたら、彼は自らの倒錯に気付けぬまま壊れていくだろう。なんて、可愛そうな人なのか。
俺が、救ってあげなければいけない。
「アッ……ぁ、……は、ァッ……」
――パァンッ、パァンッ。
彼の肌が叩かれる音が響く。少しずつ叩かれた彼の背中に赤い跡がついてゆく。
「声が上擦っていますよ、アサギさん」
「あっ……ら、ラズ、」
「お仕置きされるのが、好きなんですね」
「あっ……!」
――パァンッ!
一際大きな音が響いた。彼の身体が強張って、かくかくと揺れる。そして、彼の唇から、泣きそうに湿った吐息の音が溢れた。
彼が昇り詰めてゆくのが、手に取るようにわかる。彼のまっすぐな背中に浮いた汗の滴が、つう、と伝っている。こうして肌を濡らすほどに彼の身体は火照り、熱に支配され、どうしようもなくなっているのだ。
なんて憐れな身体なのだろう。
「まだ終わっていないですよ」
「――あァっ……」
――パァンッ、パァンッ、
弾けるような音が響く。くたりと力の抜けた身体が、跳ねるときばかり力がこもり、情けなく快楽に支配されている。
間違いなくこの行為は彼にとっての情事であり、ぶたれるほどに彼の心はぐずぐずに濡れてしまうのだろう。
「ゆ、……赦して、ください、……」
言葉が、零れる。
誰に、言っているんだろう。
――パァンッ!
「あぁッ……あ、……あ、……赦してください……」
「気持ちよさそうに言いますね……本当に悪い子だ、あなたは」
ああ、もっと、もっと、たくさん酷いことをしてあげないと。ラズワードの中に、嗜虐とは違う、憐憫塗れのサディズムがあふれてゆく。
「……ねえ、アサギさんは、痛いのと気持ちいいの、どちらで泣きますか?」
「――……わからない、そこまで身体を追い詰められたことが、ない……から、」
「……じゃあ、どっちもやってみましょうか」
ちら、と振り返った彼が、ゆれる瞳でラズワードを見上げる。その瞳の奥でゆらゆらと揺蕩うのは、不安か、それとも期待か。
「……俺が、泣くまで?」
ラズワードは微笑んで、ネクタイで彼の手首を縛り上げる。ひく、と震えた彼は、こくりと喉を鳴らす。わずか紅く染まる頬が、艶めかしい。
「はい、あなたが泣くまで、追い詰めます」
瞬き、彼の瞳。
救いを求めるようなその瞳が、ラズワードを誘惑した。