第六幕 14
 氷高が屋敷に戻ってきたのは、月が昇ったころだった。既に屋敷に到着して、自室にいた契は、彼が帰ってくる気配を感じるなりぎゅっと体をこわばらせる。

 氷高は、天樹カレンとどうなったのだろう。それが、気がかりで仕方なかった。気にしても仕方がないのだとは、わかっている。彼を「恋人」という関係で縛り付けることをしなかった、そしてこれからもするつもりのない自分が今回の事態の元凶なのだから。氷高と天樹カレンがどうなろうと、契に気にする権利もないのだった。

 氷高が欲しいのなら。氷高にふさわしい男にならなければいけない。だから、まだそこに達していない自分は、彼の報告を快く受け入れなくてはいけない。

 まだ未熟な彼の主人として、契はじっとベッドに座って彼が来るのを待っていた。彼が部屋の前までくると、緊張で心臓が口から飛び出してきてしまいそうだった。



「……契さま。失礼します」

「……氷高。……はいれ」



 氷高は、私服姿で部屋に入ってきた。デートから帰ってきた、そのままの姿でここへ来たのである。それを見た契は、どことなくもやっとした嫌な気分になった。あの姿の氷高を見てしまったら、天樹カレンはますます氷高のことを好きになってしまうだろう、そう思って。



「……ひさしぶり、氷高」

「あっ……はい、お久しぶりです、契さま」

「……」



 氷高の顔を見た瞬間、きゅう、と胸が締め付けられるのを覚えた契は、ふっと氷高から目をそらした。

 一週間、彼と会っていなかった。いなければいないで生活に支障がでるわけではないのだが、こうして久しぶりに会うと、心にはぽっかりと穴が空いていたのだと気づかされる。氷高の姿が視界に入った瞬間、彼に会えなかった時間を埋めたいと言わんばかりに、全身がむずむずと寂しさを覚えてきて、今すぐに抱き着きたい、そんな衝動に見舞われた。

 けれど、そんなことをするわけにもいかない。もしかしたら彼は、天樹カレンのものになってしまっているのかもしれないのだから――……



「……契さま。先に、ご報告から」

「……まっ……て。あの、まだ、俺……心の準備が、」

「――天樹カレンさんとは、お友達として今後付き合っていくことになりました!」

「……へ」



 ふ、と聞こえてきた言葉が飲み込めず、契は氷高に視線を戻す。氷高は背後で手を組み、まるで選手宣誓でもするかのように、そんな報告をしてきたのだった。



「誤解を招く行動をして、申し訳ありませんでした。俺は、契さま一筋です。俺が好きなのは、生涯契さまだけなので、天樹カレンさんとはお付き合いしません。告白もされましたが、断りました」

「……え、……え?」

「言い訳をすると、天樹カレンさんは真琴さまと仲がよろしいので、彼女の誘いを断ると真琴さまに迷惑をかけるのではないかと、そう思って彼女の誘いを断れませんでした。しかし、そもそも男女が二人きりで会うということ自体、冷静に考えて「そういうこと」なのに、俺は……」

「……氷高、俺が好きなの?」

「ま、前からそう言っているじゃないですか!」



 契は全身から力が抜けるような感覚を覚えた。

 氷高が天樹カレンからの告白を断るというシナリオを、全く想像していなかったわけじゃない。10パーセントくらいの希望は、契も持っていたのである。けれど、いざこうして言われてみるとなかなか受け入れることができないもので。

 ……いや、受け入れられないのではない。

 極度に、安心してしまったのだ。



「せっ……契さま――!?」



 契は衝動的に跳ね起きて、氷高に向かって突進していくようにして抱き着いた。びっくりした氷高はおろおろとしながらも、なんとか契を受け止める。



「ひ、氷高、……ひだかぁ、……ばか、ばかばか、……ばか……! ひだかの、ばかぁ……!」

「せつ、さま……?」

「ひだかは、俺の、なのに……へんに、……不安に、させんなよ、……ぉ……! ばか! ばか!」



 ――氷高が俺のことを好きでいてくれる。

 契は、それがたまらなく嬉しかったのだ。

 自分は、氷高にふさわしくない。彼を幸せにすることのできる器じゃない。契はそう思っているが、心の奥では――氷高のことが、欲しかった。氷高のことを自分のものにしたかった。その想いを押さえつけて、彼の幸せを願って自分の想いを口にしようとはしなかったが――彼に会えない間ずっとずっと不安にさいなまれ続けた契は、とうとうその想いを爆発させてしまった。

 涙を流しながら、ぼろぼろと本心を氷高にぶつけてしまったのである。



「こわかった、氷高がカレンさんのものになるのが、こわかった……俺以外の人に、優しくする氷高をみたくなかった……」

「……、せ、……契さま……もしかして、……カレンさんに、嫉妬、……」

「するに決まってるだろ馬鹿! ばか、ばか! おれ、……俺、……俺は、……だって、俺、氷高のこと……」



 めんどうなことが考えられない。ただ、こうして彼が自分の腕にいることが、嬉しい。

 契は顔をあげて、氷高のことを見上げる。氷高は顔を真っ赤にしてうろたえていて、唾を飲み込みながら契の言葉を待っている。
 
 しかし、契はそこで理性を取り戻し、口から出そうになった言葉を飲み込んだ。そして、切なさに瞳を震わせて――そっと、氷高にキスをする。

 氷高はひゅ、と体をこわばらせたが、すぐに感覚を取り戻す。唇を離して寂しそうな瞳で見つめてくる契の後頭部をすくいあげるようにして手を添えると、ぐ、と噛みつくようにキスをした。



「俺は、きっと誰にでも優しくするでしょう。契さまは、それをみて嫌だって思うかもしれない。けれど――こうして、キスをしたいと思うのは、契さまだけです。契さま。もっと、俺のことをとらえてください。もっと、独占してください。もっと嫉妬して、俺のことを考えて。契さま……もっと……」

「うん、……うん……ひだか……俺以外に、こういうこと……してほしくない」

「こういうこと、って……?」

「……きす、と……それから、……」



 契がそっと氷高の服の裾をひっぱる。そして、ちらりと背後にあるベッドを伺い見た。

 氷高はぞく、と全身の血が震えるような感覚を覚えて、ぎゅ、と契の手首をつかむ。びくん、とこわばった契の耳元に唇を寄せて、囁く。



「……そういうこと、ですね」


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bkm
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