六十六(2)
 吾亦紅も白百合を斬ることはできなかったようで、寸でのところで手を止めた。切っ先が白百合まであと少しで届くというところで、刃は止まる。

 吾亦紅はじろりと白百合をにらみつけた。


「……白百合、きみも僕に逆らうのか」

 
 白百合はジッと吾亦紅を見つめて立つ。

 彼女の後ろでは、鈴懸と織――そして詠が白百合を見守っていた。
 

「ここで貴様が織を斬ったらどうなる」

「ん? ああ……織も、咲耶も……僕の手で殺されたことによって、輪廻から外れる。死んでも転生しても救われない……永遠の地獄に堕ちるだろうね」

「そうだろうな、……其方に輪廻を乱された魂は救われなくなってしまう。咲耶が死んでもなお呪われ続けているのは、櫨が咲耶の命を救ったからであろう。だから……貴様がまた咲耶の輪廻を乱せば、再び咲耶は呪われる」

「ふん……そうだね。咲耶が呪われているのは、櫨のバカが咲耶を輪廻から弾いたから。櫨もいい仕事をした……ハハッ」

「……」


 櫨、の名が出た瞬間に吾亦紅は愉しそうに笑った。その様子が不気味だったので、白百合は思わず後ずさってしまう。


「な、何を嗤っておる……」

「いいや、べつに」

 
 白百合は、織と鈴懸、そして詠に「退がれ」と声をかけた。白百合が三人を護りきるのは難しいだろうが、何が何でも織を殺されるわけにはいかない。織も、咲耶も、白百合にとっては大切な人なのだ。

 しかし、吾亦紅はすぐに斬りかかりはしなかった。何かを思い出すように視線を漂わせては、ふ、と笑う。


「櫨、か」

 
  そう、櫨が咲耶を護ったから。……櫨は咲耶を護ったから死んだ。本当にバカなことをした、彼は。くだらな。もうどうでもいいよ、あんなやつのこと。僕も死ぬんだし。

 ……ああ、そういえば僕たちが死んだらどこへゆくんだろう。人間と同じように輪廻を巡れるのだろうか。

 まあ……きっと、乱れた輪廻を巡ることになるんだろうけれど……。それでも、生まれ変わった先でまた櫨に会えたら……
 

「吾亦紅……お主、櫨とは……」

「……それはきみに関係のある話なのかい」

「ない、が。……お主が懐かしそうな顔をするから」

「そう。僕は顔にでやすいのかな。自覚はなかったけど。……櫨は、僕の恋人だったんだよ。それが何か?」


 白百合が吾亦紅の言葉を聞いて息を呑む。

 櫨――彼を、白百合も知っていた。気のいい男だった。そして……咲耶のかざぐるまを受け取っていた。

 吾亦紅が咲耶を恨む理由を察した白百合は、つい黙り込んでしまった。

 しかし、それでも吾亦紅に咲耶の魂を壊させるわけにはいかない。咲耶がどれほど罪深かろうと、白百合にとって咲耶は大切な人だった。


「話はもういいかな。白百合……そこをどけ。そうでなければ、きみも殺す」

「どかぬ。其方が手を引くがよい。織も、咲耶も――絶対に傷つけさせぬ」

「……自分を犠牲にしてまで護るつもりか。何がきみをそうさせる? あんな女に、どうして」


 どうして?

 そんなわかりきったことを何故問う。

 白百合はキッと吾亦紅を睨んで叫ぶ。


「咲耶が妾の友人だからだ……大切な存在だったのだ! だから、これ以上傷つけさせぬ! 絶対に、ここはどかぬ!」


 吾亦紅は白百合の言葉を理解できなくて、顔をゆがめた。

 あんな女に護る価値などあるものか。そこまでして、どうして。わからない、わからない!


「たしかに咲耶はたくさんの罪を重ねたが、妾にとっては大事な友人だったのだ!」

「どうしてそこまで、あの女を……!」

「咲耶は! たくさんの時を共に過ごした、大事な大事な友達なのだ!」

「……っ、」
 
 
 ――ふと、思い出す。白百合と咲耶が笑顔で語らっていたときのことを。


『ふふ、私もっと花の名前を知りたいわ』

『信じているわ。いつまでも、信じている』


 「……っ」


 白百合の前では、ただの少女だった咲耶。

 たしかに彼女は、白百合とささやかで愛おしい日々を重ねていたのだろう。小さな花を摘んで、嬉しそうに笑っていた彼女は。


「……それが何だ、あの女は……」
 

 そんな彼女と白百合の日々に――思わず櫨との思い出を回想してしまう。

 楽しかった日々。悲しかった思い出。たくさんの幸せを彼と重ねた。櫨の笑顔を思い出す。

 たくさんの日々を、共に過ごした。


「……僕には、関係ないっ」

「わからぬのか! お主だって櫨を愛していたのだろう。妾も、咲耶を愛していたのだ……だから傷つけさせたくない!」

「黙れッ!」


 知らない。咲耶のことなど知らない。

 それなのに、自分と重ねてしまう。

 櫨を失った悲しみを知っている。愛する人を失ったときの悲しみを知っている。櫨がどんな想いで自分を愛してくれていたのかを知っている。何気ないひとときを笑いながら過ごす、一人の大切な人として。

 ――できない。刀を握る手が、動かない。

 大切な人を愛する、彼女を……殺せない。


「……っ、咲耶は……僕たちを壊した……壊したんだぞ、……それなのに咲耶だけが救われるなんてこと、あってたまるか! どんな想いで僕がここにいると思っている!」

「吾亦紅っ……」

「そこをどいてくれ、白百合……僕は、咲耶を殺すんだ」


 白百合はジッと吾亦紅を見つめた。

 涙に濡れた彼の瞳が、悲しい。


「……そうか。ならば、妾を殺してゆくがよい。妾は抵抗せぬ」

「……ッ」


 吾亦紅が刀をグッと握る。その手は……カタカタと震えていた。


「どいてくれ、白百合……」

「どかぬ」

「……頼むから……」


 ――斬れなかった。

 白百合と咲耶の間にあった愛を、壊せなかった。


「……くそ、」

 
 吾亦紅はだらりと腕をぶら下げる。

 自分自身が、憎たらしい。咲耶を殺すためだけに生きてきたのに。櫨の復讐のためにここまできたのに。結局……何もできなかった。

 櫨に教えられた愛が、吾亦紅の復讐を妨げる。


「なんで……」
 
 
 ……どうして、人って人を愛するのだろう。
 
 ――そんな感情がなければ、ずっと楽に生きられるのに。


「櫨のことなんて、愛することがなければ……」 


悲しそうにうつむく吾亦紅、白百合は問う。
  
 
「……吾亦紅、其方は……櫨を愛したことを後悔しているのか……?」

「……しているさ。アイツを愛することがなければ、僕はこんな想いを味わうことはなかった」


 吾亦紅が白百合たちに背を向ける。刀をずるずると引きずって、吾亦紅はゆっくりと歩き出した。

 そして、白百合たちに聞こえない声で呟く。


「……それでも、今でも愛しているよ」
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