五十四

「ヤマボウシ、リンドウ、ヒメハギ……この山に咲く花をすべて覚えようとしたら、其方の一生では足りぬかもしれないな」

「本当に? そんなに多いの?」

「ああ。ここから見えるだけでも、今日一日で覚えきることはできないだろうよ」

「すごいのねえ……」



 咲耶は、本当にただ花の名前を教えてもらっていた。はじめこそは白百合でさえも餌食にしてしまうものだと思っていたが、まさか本当にただの友人だとは。咲耶は屈託のない笑顔を浮かべて、白百合と山道を歩いていた。



「でも私、もっと花の名前を知りたいわ」

「ほう? なぜそんなに花の名を知りたがる」

「覚えた花の名前の数は、白百合さまと遊んだ日々の証よ。たくさん覚えて、頭のなかが花の名前でいっぱいになると、貴女とつながっているような気がして嬉しくなるの」

「ふん、花の名の数など関係ないわ。其方と妾は、すでに友達ではないか。そうやってこだわる必要などない」

「……そうね。ふふ、白百合さま。私たち、友達だわ」



 咲耶は本当に嬉しそうに笑っていた。「友達」そう言って、見たこともないような顔で笑うのだ。

 「寂しさ」、「絶望」。負の感情だけが彼女を支配していると思っていた。それなのに、彼女はこんな顔をする。まさか、呪いにまで変貌してしまった彼女の魂が――本当に浄化されているのか。

 僕は、口惜しさを覚えた。この呪いは、解ける。彼女の魂は、救うことができる。その事実が許せないと思った。

 ああ――いつの間にか僕は、彼女が堕ちることを願うようになっている。前までは、たしかに彼女の救済を願っていたはずなのに。



「……ほんとうに、奇跡みたい。貴女と私が、友達だなんて。今でも、貴女が私の前に現れた時のことを夢に見るわ」

「奇跡なんかではない。其方が「助けて」とみっともなく泣いているからきてやったのだ」

「泣いてないわ」

「泣いていたな。魂が泣き叫んでいたのだ。あんな風に泣かれては、手を差し伸べるしかなかろう。妾は神様だ。救えぬ魂などないと、妾が証明してやらなくてはな」

「……ふふ。私のこと、助けてくれるのね。白百合さま」

「信じていないだろう」

「……信じているわ。いつまでも、信じている」



 救済の兆しを見ている咲耶を、恨めしく思う。きっと――僕自身の魂が穢れ始めているのだ。櫨の死、すべてへの絶望。このまま咲耶が救われてたまるかと、そう思ってしまう――それほどに、僕は腐っていた。
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