二十一


「今日は浮かない顔をしていらっしゃるのね、織さま」



 さあさあと氷雨が降っている。待ち合わせ場所には、赤い傘を差した暦が立っていた。
 
 分厚い雲がかかる空、憂鬱な雨模様。そんな薄暗い天気にも、暦は映えていた。肌がいつもに増して白く見えて、そしてどんよりとした景色のなかにあると彼女の赤い唇が一層華やかだ。



「……今日は千歳さまはいないんですか?」

「今日は私とデェトをしましょう? 一応、私が貴方の妻になるのですから」

「……まあ、それはそうですけど」



 街行く人々が、みな、振り返る。そんな際だった美しさを持つ暦に微笑まれても、織の心臓がはねることはない。せっかく綺麗な格好をしてきてくれたのに失礼だなと思いつつも、織はどうしても彼女を妻として迎える覚悟ができないでいた。

 特に行く宛もなかったため、二人は街を見て歩いていた。織はほしいものというものがなかったため、ほとんどは暦の付き合いとなる。女性と一緒に街を回るという経験がほかにない織にとって暦と一緒に街を回るのは緊張することであったが、それ以上に気疲れしてしまった。

 なにより、暦という人物がどんどんわからなくなってゆくのだ。暦は、女性ものの服や装飾品の店に好んで入っていった。そこで彼女がはしゃぐものだから、彼女はかわいらしいものが好きなんだと織は感じていたのだが……彼女が本当にはいりたそうにしているのは、本屋。じっと遠巻きに見つめては、気にしていないふりをするようにすぐに視線をそらす、それを繰り返している。なぜ彼女がそんなことをするのか理解できない織は、彼女の好みがわからなくなってしまって、次行く先を誘導することができない。



「千歳とはどこへいったんですか?」

「……花屋、とか」

「まあ、千歳、以外と色男なんですねえ。なにか、花を買ってもらいました?」

「……薔薇、とか」

「……そう。私も薔薇、好きですよ」



 何かを買うということもなく、二人は時間つぶしのように街を歩いて行く。会話はほとんど暦が引っ張ってくれていたが、その内容のほとんどは千歳のことだった。ただ、織は彼女とあまり千歳の話をしたくなかった。



「いつか、好きな人から真っ赤な大きい薔薇をもらうのが夢だった」

「……、」

「千歳は貴方に渡したのね。その薔薇、大切にしてね」



 千歳の話をするときの、暦。どんな話題よりも楽しそうに話してくれるが、とても切なそうな顔をする。そんな彼女を見ていられなかったのだ。



「……あの、暦さん」



 彼女は――一体、この婚約をどう思っているのだろう。前向きな姿勢を見せているくせに、表情の端々に憂鬱を見せる。

 自分が、千歳でもない男のものになることに、抵抗はないのだろうか。目の前で、好きな人が奪われていくのを見て、辛くないのか。

 織は、さすがに暦の言動に不可解を覚えてしまった。聞きたいことが、喉のあたりまでこみ上げてきた。しかし――



「……暦さんは、本が、お好きなんですよね。どうしてですか?」

「あら、どうしたの、突然」

「いえ、先ほどから本屋が気になっているみたいだから、よっぽどお好きなんだなあって」

「気付いていたの? 恥ずかしいわ」



 ――聞けなかった。彼女の柔らかい部分へ踏み込む勇気など、織にはなかった。



「本はね……ああ、そういえば前に私、英文学が好きって言ったでしょう。外国のお話は特に、浪漫に溢れているのよ」

「浪漫……恋愛ものですか?」

「そう。現実のことなんて忘れられるような、浪漫がいっぱいの恋愛のお話。私、そういうの、好きなんです」

 

 雨足が激しくなってゆく。

 丁度、本屋の前を通りかかれば、暦が並んでいた本をじっと見つめた。

 店の前に並ぶには珍しい、英文学の本。タイトルで判断すれば、恋愛小説だろうか。表紙には、幸せそうに顔を寄せ合っている男女の絵が描いてある。

 その本を見つめる暦の表情は、織からはほとんど見えなかった。赤い傘と長い黒髪に、彼女の顔は隠されて。



「……私は、恋をしてはいけないから物語に夢をみるの」



 その言葉は、雨の音にかき消されて。
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