Crepuscular rays

 その日は、いたって穏やかに一日を過ごすことができた。幻覚を見ることもなく、妄想に囚われることもなく。平穏に、過ごすことができたと思う。

 ただ、生徒会がどうしても億劫だった。逢見谷は普段と態度が変わらなかったけれど、かえってどう接すればいいのかわからなかったし、そして――ゆう。時折俺を観察するようにじっと見つめてきたと思えばふっと目をそらして、の繰り返し。本当に何を考えているのかわからなくて、怖かった。

 だから……生徒会が終わった時に呼び止められたときは、恐怖を覚えた。



「涙、ちょっとここに残ってよ。話があるからさ」



 いやだ、と言って逃げてこようとも思ったけれど、今日一日ずっとゆうのことが気になっていたから俺はゆうと生徒会室に残ることにした。

 校庭には、部活を終えて用具を片付けているサッカー部、砂をならしている野球部がいた。その光景は普遍的なもので、いつもの日常を思わせるけれど……窓ガラス一枚がその日常と俺達を隔てている。生徒会室の中は妙に張り詰めた空気が充満していて、息苦しかった。



「……話って?」

「え? 聞きたいことがあったから」

「……俺に?」

「うん。そう。涙、まだ精神病治ってないよねって」

「……ッ、」



 ゆうが俺に言ってきたのは、すごく、直接的な言葉。『空が何色に見えているの』、って、『おまえの精神病は治ったのか?』って意味だったみたい。精神病なんてはっきり言われるとさすがに辛いし、俺はなんて言葉を返せばいいのか迷ってしまう。



「君の病気ってちゃんと薬とか飲まないと治らないやつだし。藤堂くんと何があったか知らないけれど、そう簡単には治らないでしょ?」

「治っては、いないけど……でも、これからゆっくり、」

「治さなくていいよ」



 ふ、と笑ってゆうが俺に近づいてきた。ゆうに騙されてゆうの友人たちに襲われたときのことを思い出して、体が震えた。かたかたと足が痙攣しだして、吐き気まで覚えてくる。逃げたいのに、逃げられない。



「おまえが病気治したら、俺の苛立ちどこにぶつければいいんだよ」



 ぐ、とゆうに肩をおされて、体がふらついた。一目見てわかるくらいにゆうは苛々としていて、俺は言葉を紡ぐことができなかった。気圧されてしまっていた。

 ゆうが何を考えているのか、わからない。なんで、俺がゆうに苛立ちをぶつけられなくちゃいけないの。そもそもゆうは、何に苛々としているの。



「俺、アイツのこと殺したくて殺したくて仕方ないけど、アイツ精神病棟にぶちこまれて近づけないから、おまえのことイジメて憂さ晴らししようと思ってた」

「……、あ、アイツ、って……」

「戸籍上の俺の兄? 血が繋がっているとか思いたくないけどあのクソ野郎と」



――逢見谷に言われたことを、思い出す。ゆうの、お兄さん。精神病を患っていて、ゆうの彼女をレイプした人。その人と俺を、ゆうは重ねているのだと、逢見谷は言っていた。

 ゆうは、お兄さんへの憎しみを俺にぶつけて平静を保っていたようだ。ゆうは俺の思っているよりもずっと精神的に追い詰められていて――自分のサンドバッグがなくなるかもしれないと感じている今、おかしくなってしまっている。



「なあ、涙、思うだろ? 精神病患者は罰を受ける権利を剥奪されているんだ、そうだ、人間じゃないんだ、あんな奴人間じゃない、なあ、涙、人間でいたいだろ、罰を受けさせてやるよ、俺がおまえを、地獄に突き落としてやる」

「……俺、犯罪なんて、おかして、ない」

「犯罪者予備軍がなにほざいてんだよ! おまえキチガイだろ! どうせいつか犯罪者になるんだ、今死んでおけよ!」



 は、と視界がブレる。何が起こったのか、わからない。

 ゆうの叫び声と同時に、ぐっと首元が苦しくなった。胸ぐらを、掴まれていたらしい。そのまま、思い切り押し出されて、強制的に俺は後退させられる。



「――ッ」



 この先には――ガラス。このままだと、俺は窓ガラスに突っ込むことになる。でも、もう勢いづいてしまった脚は止めることができなくて――



「――春原!」



 聞こえてきた、誰かの声。誰のものか、認識した瞬間に、俺はそのまま後頭部をガラスに突っ込んでいた。



「おまえ――なにやってんだよ!」



 ガラスの破片が、舞う。目に映る世界が、スローモーション。ゆっくりと、ゆっくりと……近づいてくるのは、結生。

 ガラスは、薄いガラスだった。だから幸いにも俺に思い切りガラスが刺さるということはなかった。服をまとっている背中は腕に傷はなく、頭や首の皮膚が少し切れているくらい。ただ、びっくりしすぎて俺はしばらく呆然と呆けていた。



「藤堂、邪魔すんな! 俺はこいつを殺さなくちゃいけないんだ!」

「意味わかんねえこと言ってんな、涙から手を離せ!」

「意味わかんねえのはおまえだ! こいつは犯罪者だ、他人に迷惑をかけるクズだ、生きている価値のないゴミだ!」

「犯罪者はてめえだろ春原! 涙にやったことを考えてみろ! それに……涙のことを精神がどうのこうの言ってるけど一番オカシイのはおまえだからな!」



 結生が、ゆうの胸ぐらを掴んで床に叩きつけるようにして押し倒す。ここまで怒っている結生を見るのも、怒鳴っているゆうを見るのも俺はほとんど初めてだったから、怖くて動けなかった。



「――は? 俺が、精神病って言いたいわけ?」



 ゆうは、結生の言葉にぽかんと不思議そうな顔をした。今まで怒鳴っていたのが嘘のように静かになって、かぱっと目を見開いて結生を見つめている。



「……いや、俺は普通だから」



 低い声で吐き出された、ゆうの言葉。ぞろりと空気を這うような声に、俺は身の毛がよだつような心地だった。つうっと首筋を、血が滴ってゆく感覚が気持ち悪い。



「俺が、そんなビョウキなわけないじゃん。一緒にすんなよ、違う、俺は普通の人間だ」

「……、悪い、言い過ぎた、春原――」

「俺は――違う! 俺は、俺は、普通だ、普通だから……!」



 おかしい。ゆうの様子は明らかにおかしかった。さすがに結生もぎょっとしたのか、ゆうをたしなめるようにして謝っている。



「あんな奴と一緒にするな! 俺は、普通の人間だ!」



 がしゃん、とゆうがガラスの破片を叩いた。ゆうの手のひらが切れて、血が、床にこびりつく。錯乱状態に陥っているゆうがこれ以上怪我をしないように、結生が慌ててゆうの手を掴んだけれど。



「――なんの騒ぎだ!」



 生徒会室に先生たちが飛び込んできて、すべて、見つかってしまった。

 明らかに正気ではないゆう、それから怪我をしている俺と、ゆうをなだめている結生。誰が、何をしたのかなんてことは明らかだ。ゆうのしたことが先生たちに全てバレたら、ゆうはどうなるのだろう。それが、怖かった。



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