「……ゆう」
「んー?」
「……俺、ゆうの家で何してたんだっけ……?」
「えっ、なに、知りたいわけ? せっかく記憶吹っ飛んだのに」
「……べつに」
「だよね。死ぬんだからどうでもいいよね」
ゆうの家を出て、しばらく歩く。外は、真っ暗になっていて、住宅街を離れると足元が見えないほどだった。真っ黒な足元から、手が生えてきて、俺を闇の中に引き込んできそうなくらい。
なんとかゆうの背中を追っていくと、ゆうの言っていた通り、少し高めのビルがあった。廃ビル、とゆうが呼んでいたそこは、それなりの高さのある古いビル。
……ここの屋上から落ちたら、死にそうだ。
ゆうは、俺の手を引いて中に入ろうとした。この先に行けば、楽になれる。いいようのない強烈な不安感、虚無感、それから解放される。そう思うと……抵抗する気は、一切起きなかった。
「――待って!」
ゆうが、一歩、ビルの入り口に足を踏み入れた瞬間。後ろから、俺たちを呼び止める声が聞こえてきた。聞き覚えのある声。振り向けばそこには……
「……なんでここにいるの?」
「……いやな、予感がしたので」
「は? 勝手なことするなよ。逢見谷」
逢見谷がいた。
逢見谷はつかつかと俺たちに近づいてくると、その勢いのまま、ゆうと俺の間に割り込んでくる。そして、じっとゆうを睨みあげた。
「……ここで、何をしようとしてたんですか」
「……このビルの屋上に、涙を案内しようと思って」
「どうして」
「死んでもらうために決まってるじゃん。それくらい、わかるでしょ」
「……春原先輩、貴方、人殺しになるつもりですか」
「俺が殺すんじゃないから。涙が、自分で屋上から落ちるの」
「……っ、同じです、春原先輩、それだけは……それだけは、だめです。後戻りできなくなりますよ」
逢見谷は、必死に、ゆうに向かって叫んでいる。ちょっと邪魔だから、どいて欲しい。俺は、はやく、死にたいんだけど。
ゆうは、俺の前に立つ逢見谷をみて、苛立たしげに、舌打ちをする。そして、口元を歪めるようにして、嗤った。
「……なにが? 今更、なに言ってんの、逢見谷。ここまで俺について来たくせに」
「……殺すのは、見過ごせないです」
「共犯者になるのが嫌なだけだろ、おまえ。人殺しの仲間って言われるのが、怖いんだろ。安心しろって、俺が殺すわけじゃないし、たとえ補導されようがおまえの名前は出さないよ」
「違います……! そうじゃない!」
逢見谷は、何かを訴えるような目を、していた。俺は、二人の会話の意味がわからなくて、ただ、ただ、混乱していた。
「ここで芹澤先輩の命を奪ったら、春原先輩の未来がなくなるんですよ!」
「俺に未来なんてないよ」
「そんなことない!」
叫んで、叫んで……逢見谷は、泣き出した。ゆうの胸元に縋り付いて、嗚咽をあげ……泣いていた。
でも、ゆうは……鬱陶しそうに、そんな逢見谷を突き飛ばす。
「……白けた。逢見谷、涙のことまかせた〜」
「……え?」
呆然と尻餅をついた逢見谷に、見向きもせずに、ゆうは、俺たちに背を向けて歩き出した。あっという間にその背中は消えて、俺たちの間には、静寂が訪れる。
「……あ、あの……逢見谷……?」
「……芹澤先輩。……春原先輩から、離れてください」
「え、……えっと、」
逢見谷は、ゆらりと顔をあげて、濡れた瞳で俺を見上げた。その目は、まるで、眼窩のようで、吸い込まれそうで、怖い。
「……あなたと一緒にいると、春原先輩が、壊れる」
「……俺、……何か、した?」
「別に……何も、してませんよ。ただ、芹澤先輩の存在が、春原先輩はゆるせない」
「な……んで?」
「精神に障害を持った人間だから」
「……ッ、」
がく、と体から、力が抜けた。腰が砕けたように、その場に座り込んでしまう。
俺の持つ、病のことを、そこまではっきりと拒絶されたのは、初めてだった。馬鹿にされてきたことは、いくらでもある。でも、こんなふうに言われたのは、初めてだった。
「……別に、俺は芹澤先輩のこと嫌いってわけじゃないですよ。どうでもいい。でも、春原先輩は芹澤先輩のことが、嫌いだ。自分の病に甘えて平気で人を傷つけるような、貴方を」
「……わかって、る、よ……俺が、酷いこと、言っちゃうこと……でも……好きで、こんな病気になったんじゃ……」
「そう言って自分が悪いなんて思ってないんでしょ。そんなところを、春原先輩はあの人に重ねているんですよ」
「……あのひと?」
逢見谷が、俺に近づいてきて、俺の、胸ぐらを掴む。そして、恨みがましく、俺を睨みつけてきた。
「――春原先輩の、お兄さんにだよ! 精神イッてて、春原先輩の彼女をレイプして殺した、ゴミとアンタは同じなんだよ!」
「え……な、なんの話……なんで、俺が……その人と、同じなの」
「頭がおかしいからってなんでも許される、精神障害者っていう免罪符を持ってるところ? 実際そうじゃないですか、藤堂先輩がアンタに何をされても許しているのと、春原先輩のお兄さんがお咎めなしなのって、同じでしょ? 春原先輩のお兄さんって死刑になってもおかしくないことをしているのに、未成年ってことと併せて精神に障害があるから、無罪になって今ものうのうと生きているんだよ? 同じじゃないですか、藤堂先輩に酷いことをして、何食わぬ顔で生きているアンタと」
「……だから、って、そんな、」
「自分だけ被害者ヅラして人を傷つけてるアンタと春原先輩のお兄さん、何が違うんですかね。精々顔が可愛いかそうじゃないかくらい? アンタ顔が可愛いから、騙してひょいひょいと縋り付いてくるのみたら、楽しいかもね」
逢見谷が、俺を突き飛ばす。わけが、わからなかった。まったく、知らない人の話を出されて、同じと言われて。逢見谷は、ゆうの前とは態度が全然違うし。
それに、俺は……藤堂に、浮気をされた、わけで、……捨てられたんだから、もう……藤堂の話をされても。
「自分が何をしたのかわかってない顔ですね。そう言えば知らないんでしたっけ。藤堂先輩、浮気なんてしてないですよ」
「……え?」
「藤堂先輩、浮気してないって言ってたじゃないですか。キスも俺が勝手にしただけですし、俺と藤堂先輩の間には何もないですよ。芹澤先輩が、ひとりよがりな思い込みで藤堂先輩のことを突き放しただけ」
……藤堂が、浮気、してない?
逢見谷の言葉に、俺は、目の前が、真っ暗になった。
じゃあ、俺が、ああして、藤堂に別れを告げたのは。裏切ったのは、藤堂じゃなくて、俺? 俺は、また、藤堂を、裏切ったの? 藤堂を、傷つけたの?
「……え、……なにも、ないって……じゃあ、なんで……逢見谷は、藤堂と、キスを……」
「春原先輩がやれって言ったので」
「……なんで……?」
「そうしたら思い込みの激しい芹澤先輩は、藤堂先輩を突き放すだろうって、春原先輩が」
「……」
ゆうの、考えていることが、わからない。いや、それより、おれは……おれは、
「ほんと、最悪ですね、芹澤先輩。藤堂先輩の言葉を信じないで俺たちの言葉を信じちゃった。まあ、それも春原先輩の思惑通り? なんか芹澤先輩みたいな人って、信じたい人ほど信じられないんですって」
「おれ、……ゆきのこと、しんじられなかった、……」
「いや俺は芹澤先輩に恨みはないんですよ。春原先輩が恨んでるから嫌いなだけで、」
「信じてって、いってくれたのに……おれ、ゆきのこと……」
何も、聞こえない。視界が、まわる。
「どうするんです? これから自殺するんです? するなら止めませんけど。春原先輩もいないし……今、芹澤先輩が死んでも春原先輩に悪い影響はないでしょう」
「……」
「俺、芹澤先輩に付き添うつもりもないんで、帰っていいですか? 今頃春原先輩、一人で家にいるだろうし、春原先輩のところにいこうかなあ」
ぼーっとしていると、そのうち、足音が消えていって、いつの間にか、逢見谷の姿がなくなっていた。
なんだか、何も、やる気力が、なくなってしまった。結生に、こんなに、ひどいことをした、自分。死んだほうがいいんだろうけれど、死ぬ気力すら、わかない。
ふと、歩きたくなった。どこへ、向かうという、わけでもなく。ただ、なんとなく、結生は、どこにいるだろう、そう思って、歩いた。よろよろと、歩いて。自分が、どこにいるのかも、わからないけれど。お金も持っていないから、電車にも、乗れないけれど。虫が、光に向かって、飛ぶように。あてもなく、歩いた。
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