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「あ……」

「おかえり。ラズワード。どう? ちゃんと気づけた?」

「……知ら、ない……こんな感情……名前が、わからない……」


 眩い青の夢から覚めれば、目の前で紅い瞳の悪魔が笑っていた。

 ギリギリと締め付けられているかのように痛む心臓、勝手に伝ってくる涙。この胸の中で渦巻く感情の名前が、わからない。なぜイヴが「愛する人」を問う質問のなかでこの夢を見せてきたのかもわからない。愛は暖かいもの……こんなに苦しい感情とはかけ離れているはずなのに。そう、知ったはずなのに。


「……違う……今のは……今の人は……」

「違う? なぜそう思う?」

「なぜ……? 俺は……あの人のことを考えたとき……暖かい気持ちになんてならない……! ただただ、辛いだけだ……苦しいだけだ……! こんな感情、『愛』なわけないだろ! こんなものを『愛』だっていうなら……なんでこんなものを皆称えるんだよ……馬鹿じゃないのか……!!」

「ふ、泣いちゃって……可愛い」


 イヴはラズワードの言っていることを気にする様子もなく、微笑んだ。麻痺が身体に行き渡って自分の体重を支えられなくなったラズワードを抱き寄せ、涙に濡れる瞳にキスを落とす。


「……『愛』が、幸せを生むとは限らない。ただ心を破壊するだけの時だってある」

「……そう、わかっているなら……俺は……」

「無理だね。『愛』って制御できる感情じゃないし」

「だから……! 俺は、あの人のこと愛してなんかいない……!」


 ずるりと体を滑らすラズワードを、イヴは抱きしめる。髪を指ですくい、そこに唇を寄せる。ラズワードは抵抗もできず、ただされるがままになっていた。イヴの胸に体を預けることは屈辱的に感じたが、体が動かずなにもできない。ただ、嗚咽を漏らしながら泣くことしかできなかった。


「いいよ……それで。見て見ぬフリをすればするほどに……無視された君の中のその感情が育ってゆく。気付いたときにはもう、君の心はそれに食いつぶされてしまうかもしれない」

「……っ、俺は……」

「見せてくれ。君の壊れてゆく様を……もっともっと、その感情を育てるといい」


 はは、とイヴが笑う。その声をラズワードは聞いていることしかできない。愛おしそうに撫でてくるその手を、今にも振り払ってやりたい。訳のわからないことを言われて、勝手に頭の中で妄想されるなんて、たまったものじゃない。


(俺は……あの人に対しては、殺意しかもっていない……!)


 ラズワードは動かない体を無理やり起こす。がくがくと震える腕で体を持ち上げ、首をあげ、イヴを睨みあげた。


「俺は……あの人のことを絶対に殺す……! 俺は……っ」

「ふっ……言ってればいい。今日はいいよ、今度また、楽しませてもらうから」

「……何、」

「今日のところは、身体的な苦痛のほうで我慢するね。味見くらいしたいんだよ……『vergasen』!」


 イヴがにやっと笑ったその瞬間、ラズワードの痺れが一気にとれる。パトローネに違う命令を与えたのだ。今がイヴを殺すチャンスだ、ラズワードはそう思ったが、少し遅かった。

 ガクン、と急激に体の力が抜けたかと思うと、強烈な痛みが体中に走る。そして、何かがこみ上げてくる。


「――うっ……!!」


 抑えようと思って口を手で塞いだが、意味がなかった。それは口から溢れ、指の隙間からつたい落ちてくる。口から吐いたのは、大量の血。

 ラズワードはそれを見て、イヴの命令が毒の呪文だと悟った。それもおそらくグラエムの時よりも数倍強力なものだ。体を貫くような激しい痛みも、レーメンの超音波によって魔術を妨害されて治すことはかなわない。


「あっ……、……う、」

「うん? 結構いい表情するじゃん。これでこんな顔ができるんなら、心が壊れたらどんなに素敵なんだろうね」


 ガクガクと震えながら血を吐くラズワードの顔を覗き込むようにイヴは見ていた。顔を真っ青にし、脂汗をかきながら咳き込むラズワードの顔を舐めるように見続ける。

 何かが腹の中で暴れ狂っているような感覚。内蔵が破壊されているような、そんな痛み。息をしようにも血でむせてしまって上手くできない。痛みと酸欠で、意識を失ってしまいそうだ。


(まずい……このままだと……)


 これほどの苦痛は今まででもほとんど感じたことはない。下手をしたらここで死ぬ。


(死ぬわけには……死ぬわけにはいかない……!! 俺は……あの人を殺さないといけないんだ……!!)


 意識が飛んでしまわぬように拳を握り締める。頭に浮かんだ青の夢、あの人の消えゆく笑顔。儚きそれが、ラズワードの意識をなんとかつなぎとめていた。


「……!」


 バサバサ、と翼を羽ばたかせる音が聞こえる。

 上だ。上にレーメンがいる。あれを撃ち抜いて殺せば、この状況を打破できる。

 ラズワードは背負っているライフルに意識を向けた。麻痺とは違ってこの魔術は体が動かないわけじゃない。血反吐を吐こうとも無理さえすれば、体を動かせる。


(……大丈夫だ……いける……!)


 ラズワードはギッとイヴを睨みあげた。喘ぐラズワードを間近で見ていたイヴは、その表情にすら悦んでいるに違いない。この状況でラズワードが反撃できるわけがないと油断しているイヴから時間を稼ぐことは、そう難しいことではない。そうラズワードは判断する。

 そして。


「――っ!?」


 ラズワードはイヴのネクタイを引っ張り、その唇に自らのそれを重ねた。イヴは流石にそれは予想がつかなかったようで、驚きから抵抗を見せなかった。抵抗される前に、とラズワードは舌でイヴの唇を割り、イヴの口内を弄る。


「……っ、何を……!」


 ラズワードがイヴの後頭部に手を添えたところで、やっとイヴはラズワードを突き放した。意図の掴めない突然の口づけにイヴは激しい嫌悪を見せる。ギロッと睨むイヴにラズワードは笑みを返してやった。そして立ち上がり、言う。


「……どうだよ……自分の魔力の味は……!」

「……な、……っ!?」


 その瞬間、イヴはガクッと項垂れた。それと同時に、血を吐く。


「……貴様っ……」


 ラズワードは自らの体液をイヴに送ったのだ。

 パトローネによってイヴの魔力が体中に回っているのだと推測したラズワードは、その魔力が溶け込んでいる体液をイヴに流し込んでやれば、同じ効果を与えることができると考えた。

 だから、キスをしたのだ。見るところによれば、推測は正解。ごく微量の体液しか送れなかったためその効果はイマイチではあるが、イヴの動きを鈍らせるのには十分なようだ。

 ラズワードはその隙にライフルを抜く。毒の痛みが引いているわけではない。まったく治る気配もない。本当は立っているだけでもやっとの状態であった。毒のせいで視界もはっきり定まらないため、羽ばたきの音と、ぼんやりと見える影だけを便りにラズワードは標準を定める。

 そして、引き金を引く。毒でボロボロの体ではその反動に耐えられなかったのか、ラズワードはライフルを落としてしまった。まずい、と思ったが、それは杞憂のようだった。レーメンのいたところから、ドサ、と肉の落ちる音がする。

 レーメンは死んだ。魔術が使える。

 ラズワードは痛みで上手く働かない頭を奮って解毒の魔術を使う。体の痛みはみるみる引いていき、ぼやけた視界も良好になっていく。


「……よくも好き勝手やってくれたな……イヴ……! 俺の苦しむ顔が見たい? そんなものもう二度と見れないと思え! おまえは今ここで殺す!」

「……ふ、初めてだね……俺にこんなことしてくれたのは……でもそれで調子にのるなよ。そういうことはせめて俺の使える魔術を全て把握してから言うんだな……『Folgen Sie meinem Befehl』!」

「……っ、また、パトローネか……!」


 イヴの叫んだ命令。意味のわからない言語のため、どんな魔術だか予想がつかない。どんな魔術がくる、ラズワードは身構える。

 しかし、少し待ってみても何も身体に異変は起こらない。即座に治癒を行うことを考えて行動を攻撃に移さなかったが、それは失敗だったか、とラズワードは内心舌打ちをする。

 しかし、イヴの魔術が効かなかったわけではない。それは、背後から急に襲ってきた衝撃に気づかされる。


「……っ、な、」


 鋭い痛みが腹部を貫く。何事かと見てみれば、刃物で腹が貫かれている。


(なんで……イヴは確かに俺の目の前に……!)


 振り向いて、ラズワードは戦慄した。そうだ、イヴでないのなら、これを可能とする人物は一人だけ。


「……グラエム……!?」


 ラズワードの腹を刃物で刺したのはほかでもない、グラエムであった。裏切ったのか、そう思ってラズワードはショックに目眩がしたが、グラエムの表情にそれは違うと気付く。


「……洗脳……」


 ラズワードのことを見つめる瞳に光は消えている。本人の意思を感じない。

 先ほどのイヴの命令は洗脳魔術だったのか、ラズワードはそう気付く。ゆっくりと身を引いてナイフを腹部から抜けば、強烈な痛みが襲って来て立ちくらみを起こす。その傷を治しながら、グラエムの様子を伺い続けるが何も行動を起こす様子はない。

 何が狙いだ。味方のグラエムを使えばラズワードが反撃できないだろうという狙いならばさっさと攻撃させればいいのに。

 ラズワードは、グラエムに命令を出しているイヴの意図が掴めず苛立った。チラリとイヴを顧みれば、イヴは微笑んでくる。


「ああ……ううん、本当はさっさと君を傷つけさせようと思ったんだけど……なんだか面白いからさ、彼」

「……はあ?」

「え? いや……そのグラエムって子。君への恋心をなんだか知らないけれど押し殺している……可哀想だね。君のことを大事に思うばかりに自分の気持ちに素直になれないんだ」


 そこまで言ってイヴはクッと吐き出すように笑った。


「そうだ、彼の願いを叶えてあげよう」

「……何を言って……」

「ラズワード……おまえは気付いたほうがいいよ。人の好意に気付けないことがどんなに残酷なことか」


 ニヤ、とイヴの唇が弧を描き、その紅い瞳が見開かれる。黒の絵の具を溶かしても赤を保てるほどに深い深いその瞳の紅の禍々しさに、ラズワードは身の毛がよだつのを覚える。

 思わずその瞳を凝視していたラズワードは、背後の気配に気付けなかった。後ろからグラエムに体を押さえ込まれたのだ。


「……! くそっ……」


 抱きしめるように体を拘束され、振りほどこうともがいてみたが効果がない。洗脳魔術によって動いている彼に催眠や視覚を奪う魔術を使ってもおそらく効果はない。

 厄介だ。拘束を解くにはグラエムを洗脳から解くしかない。解けるだろうか、そう不安ながらもグラエムの体の解析をしようとしたときのことである。


「……ラズ」

「えっ」


 ふとグラエムに名前を呼ばれてラズワードはびくりと身動ぎをした。洗脳されているグラエムが愛称で呼ぶことなどあるのだろうか、そう思ったのである。操られているのは体だけなのか、そんな洗脳あるのだろか、そう思ってラズワードは振り向きグラエムの瞳を覗き込んだ。


「……ラズ」

「……グラエム、精神は無事なのか? 俺がちゃんとわかるか?」

「……なあ、おまえさ……本当どうしちゃったの? こんなに可愛かったっけ? こうしてみたらわかったけどさ、おまえ細いし……いい匂いするし」

「な、グラエム!? どうしたっ……」


 グラエムの突然の発言にラズワードが驚いたのも束の間、グラエムはラズワードの首筋に顔を埋めて匂いを嗅ぎ始めた。ラズワードは抵抗しようとしたが、両の手首を片手で掴まれてそれは叶わなかった。思った以上に強いグラエムの力に驚いたがそんな場合ではない。グラエムのもう片方の手が服の中をまさぐり始める。


「ちょっ……グラエムっ! やめろ!」

「すっげェ……肌すべすべ……おまえこんなのいつもご主人様に触らせてんだ……妬けるわ」

「ま、違う……あっ……」


 きゅ、と乳首を摘まれて思わず体が跳ねた。くにくにとしつこく弄ばれて体の力が抜けていく。かたかたと震える足でなんとか立っていようとするが、それも辛くなってきてラズワードは叫ぶ。


「……おい、イヴっ……! 俺の友人使って変なことする、な!」

「変なこと?」

「今まさにお前がグラエムにやらせていることだよ! ……っ、俺とグラエムはそういう関係じゃない! 今すぐやめろ!」

「ふっ……酷いこと言うなあ。別に俺はその彼に強制的にやらせているわけじゃないよ。まあ、俺が命令しているのには変わらないけどさ」


 まっすぐ立っているのが辛くなり始め、ラズワードはくたりとグラエムに寄りかかった。


「あっ……、う、やめ……」


 グラエムが手首を拘束していた手を離す。しかし手は開放されたと言うのに、腕が上がらない。くらくらと快楽に体が支配され始めている。そんな虚ろ眼で耐え続けるラズワードの顎をつかんで、グラエムは自分の方へ向かせた。

 そして、口付ける。


「んっ……」


 ぎゅっと目を閉じてラズワードは唇に力を込めて閉ざした。しかし閉ざした唇をなぞるように舌で舐められて、ゾクゾクと嫌な感覚を覚え思わず舌の侵入を許してしまった。そのままズルリと入り込んできた舌に口内を犯させる。できるならば舌を噛み切ってやったのに、グラエムが相手ではそれもできない。ただラズワードはされるがままでいることしかできなかった。

 クチュクチュと水音が脳内に響き、意識も朧げになり始めたその時、イヴが口を開く。


「『可愛い、唇柔らかい、暖かい』」

「……、……?」

「今君とキスしているグラエムの心の声。はは、ちょっと罪悪感もあるみたいだけど、本能にはかなわないみたいだね。今彼の心は君とキスすることの悦びで満たされている」


(心の声……?)


 イヴの言っていることを飲み込もうと頭を働かせようとするがグラエムにそれは阻まれていく。舌を引き抜かれれば銀の糸が引く。唾液に濡れた唇を指でなぞられて身体はぴくりと反応してしまう。


「あ、グラエム……だめ、やめろ……」

「ラズ……好きだ……可愛い」

「……っ」


 ボタンが外されていき、抵抗しようとも腕に力が入らなくて上手くできない。鎖骨をじっとりと舐められてラズワードは思わず吐息を漏らした。


「だめ……だめだ……グラエム……」

「ラズ……ここ、美味しそう」

「……っ、あ、あぁっ……」


 グラエムが乳首を口に含む。吸い付くようにそこを丹念に愛撫され、ラズワードの身体の力が抜けていく。グラエムの肩に手を置き、腰を彼に支えられてやっと立っているようなものだった。口のなかで敏感なそこは優しく嬲られ、転がされ、視界にチラチラと白みが生じてゆく。


「あ、あ……グラ、えむ……お願い、だから……あぁ……」

「はっ、そんなに拒否することないじゃん。可哀想に、彼」

「……い、ヴ……」


 ぼんやりと霞む目でラズワードはイヴを顧みた。イヴは口元に手を当て、目を細め、卑しく笑っている。


「ラズワード……言っておくけど、それ彼の意思だから」

「……嘘を……ん、ぁ」


 今は反論する余裕がなかったが、ラズワードはグラエムが妙なことを言い出したときから彼の行動に違和感を覚えていた。

 今までそんな素振りを見せたことがなかったのに、こんな場で急に好意を伝えてきて、あまつさえ身体を弄り始めてきた。ありえないのだ。イヴが洗脳魔術を使ってグラエムにやらせているとしか思えない。

 「グラエムの意思」など、そんなわけがない。


「君とその彼はさ、結構長いあいだ友人だったみたいだね」

「……」

「たしかに、彼は君に恋慕の情を抱いていたわけではなかった。せいぜい綺麗な顔しているな、くらいの認識だったみたいだね。そう、ただの『友人』であり、かけがえのない『大切な人』だった」


 イヴが朗々と語り始める。なぜグラエムのことをそんなに知っているのか、これも魔術なのだろうか。ラズワードはそんなことを考えることすらもできなかった。グラエムから愛撫を受けながら、イヴの言葉に耳を傾けることでやっとだった。


「ラズワード、君が奴隷商共に連れて行かれてから、彼は君を取り戻すために必死だった。四六四十君のことを考えて、君のためだけに全てを捨て……君が彼の全てとなっていった」

「……」

「そんな君が突然目の前に現れた……。今まで募らせていた君を想う気持ち……それは爆発していったんだ。どこか昔と変わった君、貴族の奴隷となって美しさに磨きがかかった君……大切な君。『友人』の枠を超えた愛情を、彼は君に抱いてしまったんだよ。たった一晩でね」


 ラズワードの制止の言葉を無視しながらもグラエムの愛撫は優しかった。今まで抱かれた人の誰よりも。ラズワードの身体の隅々を味わうように、じっくりと愛撫は続けられていく。

 ラズワードは身体を愛撫し続けるグラエムを見下ろした。イヴの言葉の真偽はわからない。それでもグラエムが自分を大切に想っていてくれていることはわかっていた。昨日怒鳴りつけてくれてまでそれを教えてくれたグラエムには感謝していた。

 イヴの言葉でそれを改めて認識し、ラズワードの胸の中に締め付けられるような不思議な気持ちが湧いてくる。今までまともな愛情を受けたことがなかった。ここまで真っ直ぐに自分を想ってくれた人はきっとグラエムが始めてだろう。嬉しさとも感謝ともわからない、不思議な気持ちだった。


「でも、一度生まれてしまった恋心を殺すことはできなかった。彼は君を目で追いながら、君を自分のものにできない苦しさに心の中で喘いでいた。今君にやっていることをしたい、そんな気持ちを抑えていた」

「……おまえ、まさか」

「俺は人の気持ちくらいなら簡単に読めてしまうからね。彼の可哀想な恋心を供養してやろうと思って、こうして洗脳魔術を使って彼の体を動かし、彼の願望を叶えてあげている。こうでもしなければずっと彼は自分のなかで暴れ狂う恋心に苦しんでいただろう」

「……おまえ……グラエムの気持ちをもてあそぶな……!」

「え? そんなことしてないよ? こうして洗脳をしている間にも、彼の心は生きている。さっきも言ったじゃないか。『彼の意思だ』と。いま彼は洗脳を受け君を弄びながらも、心のなかで君にこうして触れられることに悦びを感じている。……まあ、ちょっと悪いな、とは思っているらしいけど」


 イヴがクスクスと笑っている。グラエムを使って遊んでいるのだと、グラエムのことを馬鹿にしているのだと思うと無性に腹が立ってきた。ラズワードは自分の胸元に顔を埋めるグラエムの頭をそっと抱きしめる。


「ちゃんと君の言葉も認識できているよ。だからさっき君が拒否の意思を示したときは少しショック受けていたみたいだね」

「……イヴ、おまえは……」

「……そろそろ洗脳を解いてあげようか? 君の心も少し動いたことだし? ……『Freilassung』」


 イヴの目がカッと見開かれた。目にも止まらぬ速さで腰の剣を抜く。その黒い刀身の剣でイヴが空を切ると、一瞬嫌な音がラズワードの耳に届く。


「――っ」


 その瞬間、ラズワードは膝から崩れ落ちていった。体を傷つけられたわけではない。強烈な目眩と、体の震えが体を襲ったのである。続いて過呼吸でも起こしたかのように、息苦しくなってゆく。


「ラズッ……!?」

 
 洗脳から解放されたグラエムは、ハッとはじかれたように覚醒する。


 尋常ではない様子のラズワードに、グラエムが駆け寄った。ラズワードはあまりの苦しさに地面を引っ掻くように砂を握り締める。


「ハッ、思った通りこの魔術への対処法を君は知らないみたいだ」

「……あっ、な、なに……っ」

「あんまりこういう魔術は俺は使いたくなかったんだよね。個人的に好きじゃないからさ。でも、君に効くのこれくらいかなって思ってさ」


 イヴが嗤いながら歩み寄ってくる。起き上がることもできないラズワードを庇うように、グラエムがダガーを構えた。しかし、その手は震えている。


「うん、勇敢勇敢。よかったねラズワード、素敵な友人をもって」

「……お、おまえ……まさか」

「ああ、おまえ、俺のこと知ってるの? 服装からしてハンターだもんね、知っていてもおかしくないかな」


 グラエムの脳裏に浮かんだのは、とある噂であった。黒髪、赤目。主に精神への異常をきたす魔術を得意とする悪魔。上位ランクのハンターにしかその存在は通知されていなかったが、ハンター達の間で噂になっている悪魔がいる。……なんでも、あの施設のトップのルージュの手を逃れて施設から脱走したらしい。


「おまえ……『ナイトメア』か……!」

「それ神族が勝手に付けた名前だろう? 俺はイヴ。冥土の土産にこれくらい覚えていってよ」

「……冥土の土産?」


 イヴの言葉に反応したのはグラエムだけではなかった。ラズワードは目を見開き、ガタガタと震える体を無理やり起こし、叫ぶ。


「ま、て……! イヴ、やめろ……!!」


 イヴはグラエムがダガーを構えていることなど気にもせずに近づいてゆく。グラエムは噂で聞いた目の前の悪魔の恐ろしさに、震えが止まらなかった。焦りから、まともに魔術式を頭に浮かべることができない。それでもラズワードを守ろうと、ヤケになってダガーを振り回した。


「ふっ……まあ、そう怖がらないでよ。君の大切なラズワードはまだ殺す気ないからさ。……まずはちょっと危ないから、君は休んでいてくれるかい?『Paralyse』」


 またもやイヴがグラエムの体内のパトローネに命令をだす。その瞬間、グラエムの体は動きを止め、地に伏した。おそらくはラズワードに使った麻痺の魔術と同じであろう。ラズワードが何をするつもりだと目を見張れば、イヴが襟元を掴んできた。そしてそのままグラエムのもとへ引きずられていく。


「君の記憶見たけどさ、水魔術にこんな使い方あったんだね」

「……、なに、」


 動くことのできないグラエムは、その様子を見ていることしかできない。イヴがラズワードの額に手を添え、さらに手をつかむ。ぐったりとしたラズワードは、冷や汗をかき、荒く息を吐き、虚ろげな瞳でそれでも心配そうにグラエムを見つめていた。


「グラ……エム……」


 イヴがラズワードの手を引っ張り、グラエムの頭に押しつけた。


「素敵な嘆きを期待しているよ」


 イヴの紅い瞳の色が深まったような感覚を覚えた。その時、ラズワードが微かにうめき声をあげる。眉をひそめ、苦しげに目を閉じた。ポタ、と彼の汗がグラエムの体に一雫落ちる。

 グラエムは体に違和感を覚えた。イヴの魔術に散々弄ばれ疲労を蓄積していたはずの体が軽くなってゆく。これはラズワードの治癒魔術。

 しかし、今のラズワードは魔術を使える状況にない。イヴが何らかの方法を使って、ラズワードに魔術を使わせている。その魔術は治癒魔術なのだろうか。否。『冥土の土産』、『嘆き』『水の魔術にこんな使い方があったんだ』。イヴの言葉を思い出せば、今この体に使われている魔術など予想はついた。

 治癒魔術のその先。昔、ラズワードが狩りの際に使っていた、魔術。

 その答えが正解だとでも言うように、体の中で水が茹だるような感覚を覚えた。ブツブツと、グツグツと。気泡が発生しては弾けていく、そんな感覚を。


「……なに、なにを、しようとしている……イヴ……」


 その苦しさに、ラズワードはこのことにまだ気づいていない。彼も自分も抵抗はできないと悟ったグラエムは、自分でもびっくりするほどに落ち着いていた。

 麻痺で動かない体を必死で動かす。ガタガタと震える腕で体を支え、上半身を起こした。

 目の前の愛しい友人に、何かを伝えたいとそう思った。ずっと長いあいだ共に過ごした人。無愛想に接してくる彼が、時折見せる笑顔が大好きだった。


「ラズ」


 ラズワードの頬に手を伸ばす。


「……おまえの、笑顔が好きだったぜ」


 ブチ、ブチ、と嫌な音が体の中で蠢き始める。


「きっと、みんなそうだ。好きな人には笑っていてほしい」


 ビクン、と指先が勝手に跳ねた。


「馬鹿みたいに笑っていればいい」


 目の前が、真っ赤に染まってゆく。


「そうすれば、おまえも、おまえを好きな誰かも、幸せになれるからさ。……俺も、幸せだってぜ。おまえと一緒にいられて――」


「あ――……」


 何が起こったのか、ラズワードには一瞬理解できなかった。すぐ目の前で笑っていたはずのグラエムが消えた。その奥にあった景色が、目の前には広がっている。

 少しがたついている民家、古い木々。日が昇り始めた空。

 しかし、平凡なはずのその風景に、なにかおかしなものが混ざっている。おびただしい量の血が地面に広がり、内臓のようなものが散らばっている。元の形ははっきりわからないが、それは紛れもなく人間のもの。ちぎれた指や髪の毛をみれば、それはすぐにわかった。

 では、誰のもの? この肉片が構成していた人間は一体誰? 


「……」


 違う。違う。――違う……


「あ……」


 震える手のひらを見つめる。新鮮な血がべっとりとついている。視線を下ろせば、体中に血や肉片がこびりついている。


「嘘、だ……あ、そんな……」


 頭が真っ白になる。

 強烈な耳鳴りが響く。

 吐き気がこみ上げる。


「……どう、自らの手で友人を殺した感想は?」

「俺が……殺し、た」


 ぐ、とイヴがラズワードを抱き寄せる。ゾク、とわけのわからない寒気を感じたラズワードは逃げようともがいたが、全くの無意味であった。


「ほら……いってごらんよ」


 顎を掴まれ無理やり後ろを向かされて、イヴの紅い瞳が視界いっぱいに広がった瞬間、なぜか抵抗する気が失せてしまった。紅く紅く、血よりも深いおぞましき紅。


「……おまえ、は、一体……」

「俺のことなんでどうでもいいからさ」

「おまえは……なんでこんなことを……」


 目の前の現実を、受け入れられない。自分の中心に放射線状に広がる血と肉片がグラエムのものだなんて信じたくない。それから逃げるように、ラズワードはイヴに言葉を投げる。溢れてくる涙は、本能的に事実を受け入れている証拠だと言うのに。

 細められたイヴの瞳はそんなラズワードを嘲笑っているようだった。イヴの唇はにっと弧を描く。その瞬間ラズワードの頭の中に妙なものが浮かび上がってくる。


「……!?」


 叩きつけられたように強く、重いなにかが入り込んでくる。


『悦悦悦悦悦悦悦悦悦悦悦悦悦悦悦』

『嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆』

『欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲』


「うっ……!?」


 気が狂うほどの、化物の叫びのようなもの。それが一気に頭に流れ込んできて、ラズワードは反射的にイヴを突き飛ばした。


「な、なんだ、今の……」

「……?」


 ラズワードがなぜ自分を突き飛ばしたのかイヴには分かっていないようで、イヴは訝むようにラズワードを見つめた。今の不気味な叫びは、イヴがラズワードに流したものではないのだろうか。


「イヴ……おまえ……何を飼っている……!?」

「は……?」

「おまえの中にいる化物はいったいなんだ……!!」

「……え」


 イヴはラズワードの言ったことがわからないとでも言うように、きょとんとした顔をした。

 イヴはしばらくラズワードを見つめていた。ラズワードの言葉の意味を考えるように、視線を時折動かし、そしてやがて、自分の心音を確かめるように左胸に手を当てる。


「……ラズワード……おまえ、何を見た」

「こっちが聞いているんだよ……。おまえの中の、気持ち悪い叫びの正体を……!」

「……そんなもの、俺は、知らない」

「なんだって……?」


 イヴはぼんやりと虚空を見つめたように、その瞳の紅を陰らせた。そして、ギロリとラズワードを睨みつけた。


「俺は俺だ……!!」

「……?」

「俺の中には何もいない!!」


 豹変したイヴに気圧されて、ラズワードは動くことができなかった。


「おまえは……何も見ていない!! 知らない!! そうだな!?」

「な、なんだよ! 急に……!!」

「俺の中に何かいるって……!? そんなわけないだろ……俺がおまえを苦しめたいとそう思うのだって!! 俺の意思なんだよ!!」


 イヴが何を言っているのかわからず、ラズワードは押し黙った。必死の形相で叫ぶイヴが何を考えているのかなんて、わかるはずもなかった。


「ラズワード、おまえを許さない……俺の存在を否定したお前を許さない」

「……っ、さっきから何を……!! 許さないだって……!? それは俺のセリフだ!! よくもグラエムを……!!」

「黙れ!! みていろ……!! おまえを逃れられない苦しみの中に堕としてやる……!! 俺の意思で!!」

「わけわかん……うっ!?」


 理解のできない一方的な怒りをぶつけられて反論しようにも反論できない。やっと叫んだ言葉も、イヴに阻まれてしまった。指を口に突っ込まれ、砂利と血の味が口内に広がり、そのおぞましさにラズワードは言葉を発することができなくなってしまった。


「おまえは……おまえは!! 一生足掻いていればいいんだよ!! 幸せになんてなれない!!」


 イヴが地に転がる肉片を掴み取る。ぶちゅ、と嫌な音を立ててそれからは血が滴り落ちる。ラズワードはそれをただ見ていることしかできなかった。友人の内臓が、ただの肉片となり他人の手の中で潰れていることが現実だとは未だに思えなかったのかもしれない。それが目の前に近づいてきてやっと、ハッと頭が冴えたように抵抗の声をあげた。


「や、やめ……っ」

「おまえには不幸がまとわりついていくんだよ。この血肉の味がおまえの舌から消えないのと一緒でな!!」

「――っ」


 びしゃ、とイヴの手のひらがラズワードの口に押し付けられる。指を突っ込まれ口を閉じることができなかったラズワードの口の中に、それが流れ込んできた。味わったことのない、生の内臓。血なまぐさい肉の破片。ざらつく妙な弾力のある皮膚。

 あまりの気持ち悪さに、強烈な嘔吐感を覚えた。生理的な涙も溢れてくる。それには口の中にある物体が友人のものだなんてことは関係なかった。同じ人間の、生の肉が口の中に押し込められていると考えただけで体が強烈な拒否感を示すのだ。むしろ、友人のものだということは、余計にそれを加速させた。

 飲み込めるはずもなく、それはずっと口内に留まり続ける。そうすれば余計に血の味が広がっていくことなどわかっているが、どうしても飲み込むことはできなかった。イヴがそれに気付き、ラズワードの口の中にさらに指を推し進めていく。肉片を押し込み、無理やり喉の奥へ突っ込んだ。ぐりぐりと押し込められ、息苦しさを覚える。限界を感じ、とうとう、飲み込んでしまった。

 ごく、と不自然なほどに飲み込む音が脳内に響き、自分が友人の肉を食らったのだという事実が叩きつけられる。それと同時に、こらえきれない吐き気がとうとう形となってあらわれた。胃液と共に、今飲み込んだばかりの肉片がこみ上げてくる。イヴが指を引き抜きラズワードの頭を地面に叩きつけると、吐瀉物は地に広がる血肉と混ざり合い不気味な色となっていった。


「っ……おえっ……げほ、」

「無様だな、ラズワード……もっとその醜態を俺に見せてもらおうか……一生をかけて」


 ゆっくりと目だけでイヴを顧みると、恐ろしく冷たい瞳でイヴが見下ろしていた。何がそこまでイヴを激高させたのかわからない。そんなことを考えることもできないほど、ラズワードの精神は擦り切っていた。友人の血肉と自分の吐瀉物の臭いにまた、吐き気を覚える。


「……次は、こんなもんじゃすまないからな」


 涙にぼやける視界の中、イヴが言い放つ。そして、あっけなく消えていってしまった。

 悪臭が鼻をつく液体の中に倒れ込みながら、ラズワードはただ弱々しく息を吐くことしかできなかった。起き上がろうにも、あまりにもショックが大きすぎて頭が働かない。

 不自然なほどに静まり返った村は、なぜか人の気配を感じない。イヴが魔術かなにかを使っているのだろうか。そんなことはどうでもよかった。グラエムが死んだという事実を、血の臭いと肉の感触、舌にこびりついたその味が教えている。今更のようにその事実に、ラズワードは悲しみを覚えた。

 朝日に照らされ、ただ、泣いた。
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