ティーカップに残る最後の一滴を飲み干すと、豊かな紅茶の香りが口内に広がった。ラズワードは空になったカップをハルから受け取り、ベッドサイドに置く。
「ラズワード、紅茶淹れるの上手くなったな」
「ありがとうございます。元々紅茶の味は舌が覚えているので、そう苦労はありませんでした」
「そっか、おまえも貴族の出だもんな」
一日が終わろうとしている時間。寝室にはハルとラズワードの二人だけであった。ベッドに隣り合って座ると、妙に緊張してしまう。
「あのさ、さっきあの人を殺すとか言っていたけど……それってノワールのことだよな?」
ハルは沈黙を作らないためにも、適当な話題を振ろうとする。慌てて引っ張り出した話題だからか、少し唐突な上に重いものとなってしまった気がするが、ラズワードは表情を変えることはない。
「……そうです」
「本当にあいつのこと殺したいとか思っている? なんかさっき、おまえ様子おかしくなかったか?」
「おかしいというと?」
「だって……なんか悲しそうっていうか……」
青い薔薇を抱きしめたときの表情。髪に隠れた瞳はよく見えなかったが、憎しみとか嫌悪といったものではなかったはずだ。
「……悲しそう……と言われましても。別に無理にやらされるわけでもないし、俺の意思で殺したいわけですから……そんなこと思っていないはずですけど」
「……そうなのか? じゃあ、なんで殺したいの? 憎い、のか?」
「……さあ。その理由を説明しろと言われても、できません。俺だってよくわからない。……ただ、あの人は殺さなくてはいけない。そう思うんです」
「……ふーん」
これは、話題を間違えたかもしれない。ラズワードは詳しく語るつもりもないし、語ることはできないのだ。それでも、ノワールに対する何らかの感情がラズワードを支配していることは間違いないだろう。彼の話をするときにラズワードは、普段と違う表情を見せるのだ。
少し、悔しいと思った。例えその感情が憎悪であったとしても、嫌悪であったとしても。彼の中を、あの男が満たしているのだと考えると。
ハルの隣りで静かに座っているラズワードは、全てが美しかった。白い肌、さらさらとした髪。すっと通った鼻筋も薄く形の良い唇も。この世に散らばる宝石など目じゃないほどに綺麗な青い瞳が。形容し難い不思議な甘い香りは、何よりも芳しく。
自分の奴隷であるはずなのに。形式的には、確かにハルの所有物であるのに。心だけは、手に入れられない。
もしも、あの男のことなど考えられないくらいに壊してやったなら、自分のものになるだろうか。この美しい身体に自分の全てを刻みつけたのなら。
「……っ、ハル様?」
気付けば、ハルはラズワードのことを押し倒していた。突然であったからか、ラズワードは驚いたような表情をしている。
しかし、抵抗はしなかった。その細い首を隠す襟のリボンを解き、シャツのボタンを外していけば、彼は黙ってそのハルの動きを見守っていた。呼吸の度に上下する胸の動きが微かに早くなっていっている。こく、と彼の喉がなって、静かにその唇から吐息が漏れた。
奴隷は、主人のどんな欲望にも応えられるように調教されるのだという。ラズワードも例外ではないのだろう。急に押し倒され、服を脱がされるという状況に、確かに彼は欲情していたのだ。僅か赤く染まった頬と、期待に濡れた瞳がそれを物語っている。
……ああ、やれる。ここでやろうと思えば、彼を蹂躙し激しく突いてよがらせて狂わせて。身体からラズワードの全てを自分のものにしていくことが。
「……っ」
馬鹿じゃないのか。
ハルはぐっと唇を噛み締めた。そんなことをしてラズワードを自分のものにしたところで、この手になにが残るというのだろう。虚しさ、後悔。そして彼本来の美しさは全て枯れる。手のひらに残るのはきっと、枯れ落ちた花だろう。
「……ハル様?」
はだけたラズワードの胸元に、ハルは顔を埋める。すべやかで、ほんのりといい香りのする彼の肌。
とくとくと聞こえてくる心音。
ああ、自分は今、これを壊そうとしたのか。
ハルは自分を戒めるように、ラズワードの体を静かに抱きしめた。
「……? あ、の……?」
今にも情事を始めるような空気が一瞬で変わって、ラズワードは戸惑ったのだろう。少しだけ上半身を浮かせてハルの様子を伺ったり、行き場のない手をどうしようかとおろおろしていたりしている。
「……ハル様……? その、やらないんですか……?」
「……」
顔を上げてラズワードを見てみれば、彼は拍子抜けしたような、残念そうな、そんな顔をしていた。施設で身体に快楽を焼き付けられているのだ。体を押し倒されて服を脱がされるという行為だけでも、身体は熱をもってしまうのだろう。
「……ごめん、変なことして。……やらないよ」
そんな彼に期待だけさせて途中で投げ出してしまうというのは悪いような気がしたが、やはり理性が体を動かさない。心が結ばれていないとわかっていながら、好きな人を抱きたいとはどうしても思えなかった。
本当に、くだらないことを考えるようになったと思う。こんな女々しいことをグダグダと考えてしまうということはわかっていただろう。誰かのことを好きになんてなったりしたならば。
だから特別な感情なんて抱きたくなかったのに。それでも、気づいてしまった感情の名前は、ハルの心を支配してゆく。
今、目の前にいる人のことで、頭のなかはいっぱいなのだ。
「……ハル様」
だから、そんな風に濡れた瞳で見つめられてしまっては、ハルの理性は崩壊寸前である。触れたい、触れたい……と騒ぐ心を、抑えつけるので精一杯だ。
「……最後まで、とは言いません。……少しでいいです……触れて……いただけませんか……?」
「……な、い、いや……だめだよ……」
「なぜですか? 俺に触れるのが嫌ですか?」
「そ……そうじゃなくて……た、たぶん……触れたら……止まらなくなる、から……」
カッと身体が熱くなっていくのが自分でもわかる。自分がとんでもないことを言っているのはわかっているが、そうでも言わなければ体が動いてしまう。
「……触れるのは嫌じゃない……もしかしてハル様は性的なことはお嫌いですか? この前も拒否しましたけど」
「そういうわけじゃ……いや、もちろんずっとそういうこと考えたりなんてしてないからな!」
「……じゃあ……よくわかりませんけど……俺に触れるのは嫌ではないのにセックスはしたくないんですね」
「……へ?」
ぐい、とラズワードがハルの体を押して起き上がった。僅かにその唇は弧を描き、情欲に濡れた青い瞳がハルをじっと見つめる。
「ラズワード……?」
ラズワードがとん、と頭をハルの胸に当てる。指でツ、と胸の中心をなぞられ、ハルはビクリと身じろぎをした。
す、と顔を上げたラズワードは目を細め、うっすらと微笑む。
「……ご主人様……どうか、卑しい私にお情けを……」
「え」
きゅ、と何かに腕を拘束されたような感じがした。
見ればラズワードのリボンタイで手首が後ろ手に拘束されているのだ。ハルが驚いてもう一度ラズワードを見やれば、彼はただ微笑むばかりである。
「止まらなくなってしまうなら、動けないようにすればいいでしょう?」
「お、おい……何を……」
「大丈夫です……最後まではしません……これ以上衣服をはだけさせることもない、です」
「は……」
そう言うとラズワードはハルの膝の上に乗る。呆然とハルはその様子を眺めることしかできなかったが、腕を背に回されたとき、妙なことを思ってしまった。
「え、まて……この体勢は、まず……」
(これ、対面座位じゃねーか!)
そう、今ラズワードがハルにしていることは、擬似的なセックスとなんら変わりのないことだ。臀部の割れ目をハルの股間に密着させ、はだけた胸元をハルの胸板に押し付ける。ラズワードのため息のような熱い吐息が、耳元に感じる。
挿入もしていないし、服も着ているがむしろそれが倒錯的で卑猥であった。その証拠に、情けないことにもハルのモノは堅くなってしまっていた。
「ら、ラズ……」
「っん……」
「……っ!」
服の擦れる音とベッドの軋む音が、妙に大きく聞こえてくる。ゆるゆると上下に揺れるラズワードの体。胸元に、服越しにではあるが、硬くなった小さな突起を感じた。
「ぁ……っ、ん、……」
小さく、秘めやかに彼の唇からもれる艷声。しゅ、と小さく布の擦れる音にすらもかき消されそうなそれが、ひどく耳に熱くまとわりついてくる。
バクバクと全身が心臓にでもなったような感覚。鼓動の度に視界が揺れる。ほんの僅かな刺激、小さな音。それすらに大きく体は反応する。
目の前には、彼の細く白い首筋。襟足はさっぱりと整えられたサラサラの髪から覗くうなじは、ひどく甘美な色香を発していた。たまらず噛み付きたくなったが、既のところでハルはそれを堪える。
ぐ、ぐ、と堅くなったモノはラズワードの後孔を布越しに刺激する。ハル自身その刺激に目眩がするようだったが、ラズワードもそれは同じらしい。ぴったりと密着した部分は、布を挟んでも、きゅうきゅうと収縮を繰り返していることが丸分かりであった。
揺れる、揺れる。吐息の溢れるような、甘い声。
体が動く度に、彼の仄かな甘い香りがハルの鼻孔をつく。ふと、体が揺れた拍子に唇が彼の首筋にあたって、思わず、そのまま舌を出して舐めてみてしまった。チロ、とほんの少し。
「んっ、あ、……!」
そうすると、今まで儚い声を出していたのが、急に大きくなった。ぴくん、と僅かに体が跳ね、ハルの背を抱く腕に力がこもる。
「ハル……様……、あ、はぁっ……!」
彼の反応。そして、自分の名を呼ぶ、その声。
それがヒビが入っても崩れることのなかったハルの理性を、壊してしまったのか。ハルは目の前の甘そうな白い首筋に、軽く噛み付いた。そして、じっとりと舌を這わせ、彼の滑かな肌を堪能する。
「あ、あぁ……」
ラズワードは力が抜けたようにハルの肩口に頭を預ける。く、と伸びた首筋は更に綺麗で、艶やかだ。つい、とそこに舌を動かせば、ハルに全てを委ねたようにくたりとした体が、ぴくぴくと反応する。
耳元で、甘い声がふわりと響く。それは頭の中で木霊して、残響のように離れない。
舌の動きに伴ってそれが聞こえてくるものだから、今、自分がラズワードの全てを支配しているのではないかという錯覚に捕らわれる。柔らかな肌にほんのわずか歯を食い込ませれば、はじけたような、可愛らしい声が聞こえてくる。
もっと聞きたい。その声を。艶やかで、愛しい、おまえの声を。
「……あっ!?」
ハルはラズワードを突き上げるように腰を動かした。その瞬間、ラズワードの身体はびくりと跳ね上がる。
「……んっ……あ、!」
屹立したモノで、ぐいぐいと押し付けるように突き上げてやると、ラズワードは背を仰け反らせ、ビクビクと反応を示した。構わず何度もやってやると、彼はがくりとハルにしなだれかかり、壊れた人形のように揺さぶられるままに揺れていた。背に回された腕だけは縋り付くように力が込められている。
「あっ、あっ……」
擦れる服の音。絡みつくシーツのざわめき。軋むベッド。
「あ、あ、あ、」
熱い吐息。甘い声。苦しそうな呼吸音。
「はっ……は、あ……!」
「あっ!あ、んんっ!」
ぎゅ、としがみつく腕に力が込められる。ハルは腕が使えないため、代わりにラズワードの首に噛み付いた。
ただ、その単調な行為に没頭していた。腰を突き上げ、身体を上下に揺するだけの行動に。
それでも強烈な快楽が脳に叩きつけられるようであった。ただ触れた部分の直接的な刺激だけではなく、五感全てを通じて感じるラズワードの存在も。彼の熱、声、匂い、味、美しさ。その全てが刺激となって、ハルに快楽をもたらしていたのだった。
激しく、強く。甘美に、淡く。美しく、儚く。愛しく、愛しく。
噛み付き、揺さぶり、突き上げ。はしたなく荒く息を吐きながら。ラズワードの全てが欲しいと、欲望の赴くままに。
貪った。
「あっ――」
ラズワードの身体が一瞬弓なりに反った。しかしすぐに彼はハルに再び抱きついてくる。
ラズワードは熱を逃がすように深く息を吐いていた。小刻みにその身体は痙攣し、その度に小さく声が漏れている。
(これで……イったのか)
服越しに身体揺するだけで絶頂に達したラズワードの敏感さにハルは些か驚いたが、今はそれどころではなかった。耳元で聞こえる喘ぎ混じりの吐息。未だ熱を持ち続ける自分自身。
まだ……まだだ。まだ、足りない。
ハルは強めにラズワードの首筋に噛み付いた。う、と小さくラズワードが鳴いたが気にしない。
今の行為で手首を拘束していたリボンは緩んでいた。ハルはそれを解き、自らの腕を解放する。
自由になった腕が行き着く先はもちろん。
「……あ」
ハルはラズワードを押し倒し、その細い手首を掴んで抑え付けた。自分の影で彼の快楽に支配された淫靡な表情がよく見えないが、それでもその光景は絶景とよべるに等しかった。
くたりと力なく横たわる首。はだけた胸元にできる陰影。激しい呼吸に上下する白い身体。しっとりと汗ばんだ肌。
全部、喰らってやりたい。その色香はハルの本能を煽るには十分すぎた。欲望の滴る目で見下ろされたためか。ラズワードは黙り込み、ハルの様子を静かに伺っていた。これからどんな激しいことをされるのだろう。そんな期待を隠すように、目を伏せる。
その表情がひどく扇情的で。ハルは煽られるままに、顔を近づけた。
近づくほどに色香は増して、鼓動が早くなっていく。息のかかるほどに近づくと、彼の身体の内側から漏れる甘い香りが漂ってくるようだった。
その甘い吐息を飲み込んでしまいたい。
唇から、それを奪ってしまおうと。ハルがそう思ったときである。
「……」
ラズワードが静かに目を開けた。それと同時にもの欲しげに唇を微かに開く。
ハルの欲情した顔を見ただけでイってしまうのではないか。そんなことを思わせるほどに、ラズワードの表情は切羽詰っているようであった。
早く――……
そんな言葉を、その瞳で訴えているようであった。
来て、ハル様――……
小さく、かすれ声で。その唇から言葉が漏れた。
欲しい。
その言葉だけが、ハルの頭を埋め尽くした。もう、抑えるものなどなにもなかった。
その唇に噛み付いてやりたい……そう、思った。
しかし。目が合った瞬間。
青く、深い、美しい瞳が視界いっぱいに広がった瞬間。
『闇が光に変わる瞬間の――夜明けの空』
美しく、煌(きらめ)く漣。眩い、光。
その瞳が、その光景を思わせて。
「――っ」
ハルははじかれたように体を起こした。
ドクドクと激しくなる心臓。グラつく視界。激しく襲ってくる後悔。
急に起き上がったハルをラズワードは驚いたような目で見つめてくる。
「……ハル様?」
訝しげに名を呼ぶラズワード。ハルが一体何を考えているのかなど、彼には絶対にわからないだろう。
「ラズワード……」
ハルは震える手で、ラズワードの頬に触れた。ラズワードはその様子を、不思議そうに見ている。
「おまえはさ……」
「……はい」
「……綺麗、だよな。……本当に」
「……は?」
そう、ハルがラズワードの瞳を見て思ったのは。
「闇が光に変わる瞬間の、夜明けの空」。ある人がラズワードの瞳を例えた言葉。その人が、ラズワードに願ったこと。おまえが闇を裂く光であれと、そう願ったのだと。
青く美しい瞳に、ハルはそれを悟ったのだった。そして、今自分は、その人にとっての光を自らの欲望で穢そうとしていたのだと。そう思ってしまったのだ。
「俺……ごめん、……おまえのこと……穢そうとしていた……」
「……?」
ハルは嘆くように声を出し、項垂れる。そして、ぽかんと見つめてくるラズワードの身体をかき抱いた。その拍子にラズワードから息を飲むような音が聞こえたが、ハルは構わず顔を彼の首元に埋める。
「ごめん……」
「……」
ぎゅう、ときつく抱きしめると、ラズワードはピクリと身じろぎをした。しかし、その戸惑いは一瞬だったのか、そっとハルの頭を抱えるように抱いた。
「……それ」
「はい」
「それも、奴隷としての行為か? 俺が求めているだろうって、そう思ってやっているのか?」
「それ以外になにがあるんですか?」
「……そう、だよな」
先ほどまでの甘く熱い声とは真逆の冷たい声に、ハルはため息をついた。彼にとってセックスは本当にただの性欲を処理するための行為なのだろう。それが終わってしまえばこのとおり、熱など一切感じない。
「……ハル様」
「……ん」
「……ハル様はやっぱり、俺に不満があるでしょう? 言ってください、直しますから」
「……」
本気でハルの考えていることがわからないのだろう。ラズワードはその声に猜疑(さいぎ)の色を含ませる。
なんでわからないんだよ。
ハルは自分の気持ちが蔑(ないがし)ろにされた気分になって、苛立ち混じりに起き上がった。ラズワードを腕と腕のあいだに閉じ込めるような形で見下ろすと、彼は真面目にハルの話を聞こうと思ったのか、真っ直ぐにその瞳で見つめてきた。
(やっぱり、綺麗だな)
間近でみる深い青にハルは改めて感嘆する。
「……俺はさ、おまえに穢れて欲しくないんだ」
「……はい」
「だから、その……あんまり……自分の身体を適当に扱って欲しくないっていうか……」
「セックスするなってことですか?」
「う……いや、すること自体を否定しているんじゃなくて……するなら、もっと……愛のある……いや、何言ってるんだ俺……」
上手く考えていることを言葉にできない。たぶんラズワードははっきりいってやらなければ理解してくれない。
どうすればいい。必死に頭を働かせ、ハルは何度も何度も言葉を反芻させる。それでもぴったりくる表現がでてこないハルをラズワードは苛むような目つきで見上げていた。
「……質問、していいですか」
「……あ、ああ」
「ハル様は俺に自分の身体を適当に扱うなと言いました。それを愛する者だけと……つまり不特定多数の人と情事を行わず恋人だけとしろ、そういう意味と捉えることにしましょう。……そうすると、そこに疑問が生じるわけですが」
「……」
「……ハル様が自分で言ったことを破るような人とは思えません。……なぜ、貴方は先ほど俺を抱こうとしたのですか……?」
ハルのことを疑るというわけでもなく、純粋に質問を投げかけるような目。その目を前にして、ハルはごまかしはきかないと、そう感じた。
「……だから……悪かった。さっきは……どうしても、身体が抑え効かなかったから……。……で、でも」
「でも?」
「でも……俺は……」
ツ、と汗が頬を伝った。バクバクと激しく心臓が高鳴る。
抱きたいと思った理由? そもそもどうしてそんなことを思ったか?
決まっている。
ハルは、ハ、と息を吸って、ラズワードを見つめた。月に照らされて揺らぐ水面(みなも)のような瞳が、見上げてくる。
「俺は……おまえ、を……好きだから、だよ。……だから抱きたいって……思ったんだ」
「……」
(え、今の聞こえたのか?)
自分の中では、それはもうとんでもないことを言った。衝撃的にも程がある。ハルはそう思っていた。
しかし、当のラズワードは全く表情を変えることもなく、静かにハルを見つめるまま。好きだと言われてこうも表情を変えないというのはどういうことだ。困った表情すら、見せようとしない。
「お、おい……?」
「……ハル様」
「あ、はい」
「……あまり、周囲には知らせないように。素振りも見せてはいけません。あまりにも貴方と俺では身分が違いすぎる」
ラズワードはにこりと微笑む。それは、精巧に作られた人形のように。
「恋人になりましょう、ハル様」
「……」
綺麗な笑顔だ。……綺麗すぎる、笑顔だ。
感情を感じさせないほどに、作り物のような。
「……ひとつ聞いていいか」
「はい」
「それは本心から言っているか?」
「もちろん」
「……奴隷としての本心か?」
ドクドクと波打つ鼓動がうるさい。聞きたくない答えを、ハルは敢えて促した。そう、ラズワードの口からでてくる答えなど、予想はついていた。
「……そうですけど?」
ぐらりと視界が暗くなるのを感じた。わかっていはいたが、言われたくはなかった。
「……俺が望むから、か」
「はい。俺はハル様の奴隷。貴方の望むことを全てこなしてみせます。ハル様が俺と恋仲になることを望むのなら……」
「……だったらダメだ。おまえとは恋仲になんてなれない」
「……え?」
ハルは体を起こしてラズワードと少し離れたところに座りなおす。ラズワードはそんなハルを追うように腕で上半身だけを起こしてハルを見やった。
「俺はおまえと恋仲になりたいなんて思わない」
「……え? だってハル様さっき……」
「……嫌に決まっているだろ! 俺の想いだけが一方通行な恋人なんて……!」
思わず叫んだハルの声に、びくりとラズワードの肩が揺れた。ラズワードは戸惑ったような顔をしながら、シーツに手をついてハルに向かって言う。
「い、一方通行なんてことはありません! ハル様が望むことを、全てやります! 恋人として、尽くします……!」
「……だったらしてもらおうか」
「……え」
「恋人として……おまえが正しいと思うことを、やってみろよ」
ハルはラズワードに横顔を向けながらそう言い放った。言葉に詰まったラズワードを横目で見てみれば、恐る恐るハルの様子を伺っている。そう、ハルが望んでいることを必死で探している。
「……わかんない? 俺がしてほしいこと」
「……も、申し訳ありません……でも……言って、いただければ……」
「じゃあ」
ジ、とハルが見つめるとラズワードが固まった。そうやって、こちらのことばかり気にしている様子を、不快に思った。
「……おまえがやりたいと思うこと。……それをして」
「……え、俺が……」
「恋人なら、あるだろ。好きな人としたい、って思うことがいくらでも」
「……っ」
ラズワードが目を泳がせる。それが示していることは明らかであった。ハルは項垂れながら、言う。
「……ないんだろ」
「……」
「おまえは俺を好きじゃない。……そんなおまえと俺とのあいだに、恋人なんて関係は成り立たない」
ハルの静かな声に、ラズワードは困ったような表情を見せる。
「……あの、ハル様」
「なんだ」
「……だったら、恋人というのはどういう関係のことを言うんですか? お互いに同意さえあれば成り立つ関係じゃないんですか?」
「……別に……難しいことじゃないだろ。お互いがお互いを好きな関係だよ」
「……好きって、なんですか」
ハルの望むことができないことを申し訳ないとでも思っているのだろうか、ラズワードは真剣な眼差しで尋ねてきた。その問にハルは一瞬どう答えれば良いのかわからなくなったが、そう難しいことではないはずだ。自分がラズワードに対して思っていることを言えばいいのだから。
今更、恥じたところで仕方がない。
「……俺は……俺が、おまえを好きだって思ったのは……その……おまえに、触れたい、とか……キスしたい、とか……いや、見ているだけでも、傍にいてくれるだけでもいい……っていうか……」
「……そういうの、好きってことなんですか?」
「いや……別にこれだけってわけじゃないけど。……どっちにしろ、おまえにこういう想い、ないだろ?」
「……ないです」
(うわ……はっきり言われると流石に傷つくな……)
自分で誘導しておきながら、ハルは返って来た答えに愕然とした。気落ちした様子のハルにラズワードはやはり戸惑いの表情を見せている。自分の答えがハルの望んでいないものだったんだ、そう思っているのだろう。
「あ、あの……申し訳ございません」
「……何が? いいんだよ、正直に言ってくれて」
言葉は優しくとも、その心は隠しきれていなかった。ハルの声色はどこか憂鬱で、それがラズワードに不安を与えていた。しかし、ラズワードはしばらく俯いたとおもうと、きゅっとシーツを握ってハルを見据える。
「……ハル様」
そのハルを呼ぶ声は、今までのものとはどこか違っていた。ハルの心を必死で伺いながら、といった怯えたような声ではなかった。
「ハル様。……俺は、好きだという気持ちがわからないんです」
「……さっき聞いた」
「ハル様の気持ちを知りたいと……貴方の言う好きという気持ちを理解して、そして貴方が望むことをしたいと……そう思うけれど、俺にはできないんです」
「……」
「俺のなかにある感情は、一つしかないから……それ以外の感情は、その一つの感情に飲まれてしまっているから……」
ぐ、とシーツを握る手に力がこもっている。たぶん、彼のなかでその感情とやらが昂ぶっているのだろう。そこまで彼を動かす感情は、なんなのか。ハルはなんとなく、察しがついてしまっていた。
「ラズワード……それは……」
「それは、あの人への、殺意です」
ああ、やっぱり。
ハルは胸が苦しくなっていくのを感じる。今までもずっとラズワードは「あの人」のことを話す時だけ、普段とは違った表情を見せていた。それは、「あの人」が彼の心を動かす唯一の存在だということだろう。
それが「殺意」という負の感情であろうとも。たったひとつ、それだけがラズワードの心を支配しているのだ。
――いいや、その「殺意」。はたして、負の感情と呼べるものなのだろうか。
「殺意」を抱くはずの「あの人」の話をしたときのラズワードの表情。淡く……目を細めたその笑顔。それは……きっと、ただの「殺意」なんかじゃない。
「ラズワード」
「……はい」
本当にただ殺したいだけならば、そんなに切ない表情なんてしないはずだろう。
「おまえは……その人が嫌いか?」
「……いいえ」
「……おまえは……その人が、好きか?」
ハルの二つ目の問に、ラズワードはハッと目を見開いた。綺麗な青い瞳はゆらぎ、悲しみの涙が溜まってできた海のようだった。
「……いいえ」
かすれるような声でラズワードは否定の言葉を言う。ハルから目をそらし、伏し目がちなその瞳は、憂いを帯びている。
「……好きとか、嫌いとか……わからないです」
「……」
「……で、も」
その言葉は、絞り出すように、彼の唇からでてきた。
「……あの人のことを考えると……苦しい、です……。痛いです……」
ラズワードがギュ、と自分の胸のあたりでシャツを握り締める。その手は震え、唇からは吐息が漏れ。やがて嗚咽が聞こえてきて。
ポタ、と一つ。雫がシーツにシミをつくった。
「……っ」
それは衝動的に。ハルはラズワードをグ、と引き寄せて、抱きしめた。震える彼の身体を、強く抱いた。
「ずっと……あの人の記憶が離れないんです……牢の片隅で、静かに座っていただけの姿も……俺と剣を合わせるときの冷たい表情も……あの……光に消える、悲しい笑顔も……」
「……ラズワード……」
「あの人は……! 自分を憎んで、嫌って……それなのに……! あんなにあの人は……欲しがっている……それでも許されないから、諦めて……だからあんなにも……悲しくて……!」
「お、おい……ラズワード……何……」
は、とラズワードは息を荒げる。自分の体を抱くハルのシャツを皺ができるほどに強く握り締める。
「俺は……だから、俺は……!」
誰に言っているわけでもないのだろう。ラズワードは自分自身に言い聞かせるように、叫んだ。
「この手で……与える……! ノワール様の望む『死』を、俺が……!」
なあ、ラズワード。その感情は……
ボロボロと涙を流しながら泣き続けるラズワードに、ハルは何も言えなかった。ただずっと、抱きしめていた。
その想いが自分へ向くことはないだろうと、それを悟りながら。でも、こうして彼を抱くことができるのは、自分だけなのだと。その役目は自分しか背負えないと。痛む心を覆い隠して、ハルはラズワードの頭をそっと撫でた。
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