5

 黒が部屋を出て行って、一時間ほど。すっかり空は赤く染まっている。

 未だ黒の面影が頭にチラついている。それはただ、ぼんやりと残像のようにふわふわと漂っていて、心を支配するには足りないものであった。

 今更ながら、不思議な人だな。

 ハルのそんな思案も、こんこん、と小さなノックによってかき消される。



「……あ」



 扉をあけて入ってきたのは、ラズワードとエリスであった。ラズワードは多分目立たないようにであろう、地味な色のローブを羽織っている。そんな彼は、ハルと目が合うと、駆け足気味にハルに近寄った。その拍子にフードははらりと外れ、サラサラと髪が風に靡く。

 

「……ハル様……ご無事で……!」

「ラズ、ワード……」



 ラズワードはベッドの傍にしゃがみこむと、はあ、と小さく吐息を吐いてうつむいた。夕日の光が彼を照らして、長い睫毛がきらきらとしている。チラリとハルを見上げたその瞳は、その夕日の赤と、彼本来の深い青が混ざり合って、不思議な色をしていた。

 その瞳にハルがドキリとしたのも束の間、エリスがラズワードの後ろに立つ。そして、わしゃ、とラズワードの髪をかき混ぜながら言った。



「……んな心配しなくたってコイツそう簡単に死なねーっての」

「……どういう意味」



 妙にイラっとしたのはその言葉のせいか、それとも。なんで二人で来ているんだよ、なんて呪詛が心に浮かんできたが、ハルはそれを口に出すことはない。



「あの、ハル様……一人でお出かけされるのは危険です。今度からそういう時は俺もお供させてください」

「ああ、うん……考えてみる。……でも、今日はおまえがいなくてよかったと思うよ」

「……? どうしてですか?」



 ラズワードは不思議そうにハルを見上げた。その青い瞳に自分が映って、心臓がはねたのが自分でもわかった。ドクドクとうるさい鼓動が、唇を動かすなんて簡単な動作すらも封じてしまう。



「……いや」



 おまえが一緒にいたら、おまえが傷ついたかもしれない。

 その一言は、たぶんいつもならば言えた。自分をしたってくれる臣下とか、そういった人たちにならば。でも何故か、今はその言葉がでてこなかった。言おうとした瞬間、なんだか恥ずかしくなってしまったのだ。

 いやいや、別に恥ずかしがることじゃない。誰かに傷ついて欲しくないなんて当たり前の考えじゃないか。

 わっと頭の中で言葉が溢れてきて、ハルはラズワードから目を逸らした。なぜだろう。これ以上彼の瞳をまっすぐ見ていられそうにない。



「おいハルー、もう体は大丈夫なんだろ? 今日中にここでれるわけ?」

「……ああ、怪我なんてないし……大丈夫、すぐにでも出れるよ」



 いつまでもラズワードを撫でているエリスの手を視界に入れないようにしながら、ハルは答えた。エリスは至って普通にハルの心配をしているようである。言葉は少しぶっきらぼうだが、彼が心の中でちゃんとハルをことを大切に思っていることを、ハルは知っている。

 しかし。どうしても今、彼がやっている行動は。

 苛々する。

 いくら意識しないように、と考えたところで、感情などコントロールはできなかった。湧き上がる苛立ちを抑えるのにも限界が生じてくる。



「あ、あのさ……兄さん」

「おー?」

「……そろそろ、それ……やめてもらえる?」

「それ?」



 ハルが静かに言ってみれば、エリスはキョトンとした表情を浮かべた。そして自分の手をみて、ああー、なんて声を上げている。
 


「悪い悪い、こいつ触り心地よくてよ」

「うん、わかったから。あんまり俺の前でやるな」

「あー、確かに見ていてイイもんではないかー」



 抑えていたつもりだが少し声に出てしまったのかもしれない。エリスは苦笑いをしながらハルに謝ってきた。

 そんなエリスになんだか無性に苛々としてしまう。



「……っていうか」

「ん?」

「そいつ……俺のなんだけど」

「……へ?」



 その苛立ちが、恥じらいとか訳のわからないストッパーとかを壊したのだろうか。この言葉は言ってはいけない、そんなことをいつも無意識に思っていたのに。勝手に唇から言葉が溢れてきて、塞き止められないのだ。



「だから……ラズワードは、俺のだって……そう言っているんだよ……!」

「いや……知っているけど」

「それなら触るな! そいつに触れていいのは俺だけ……っ」



 そこまでいってようやく、ハルは自分の現状の異常さに気付いた。何を言っているんだ、自分は。自分の発した言葉が恐ろしく感じて、ハルは手で口を塞ぐ。

 恐る恐るエリスを見てみれば、驚いたような顔をしていた。いきなりこんなふうに怒鳴ったりしたらびっくりするに決まっている。ハル自身も驚いているのだから。

 なぜ、自分がこんなことを口走ったのかすらわからないのだ。



「ハル……もしかして、ずっとそう思ってた?」

「い、いや……」

「悪い、気づかなかった。我慢してたんだな、おまえ」

「ち、違うって……」



 思っていたって、何を? 我慢していたって、何を? 何に気付いたって言うんだよ。

 エリスはハルにすらわからないハルの心の奥底をわかってしまったのか。ハルは自分だけ取り残されたような気分になって、目眩にも似た感覚を覚える。



「ごめん、ハル」

「だから、なにが……悪かったのは俺だって、いきなり訳のわからないこと怒鳴って……」

「あ、俺先に帰っているからさ、あとは二人で帰ってきてよ。じゃあ」

「あ、おい……兄さん、待って、……」



 ははは、とエリスは笑うと今度はハルの頭を撫でてそのまま部屋を出て行ってしまった。

 取り残されたハルは呆然と、エリスの出て行った扉を見つめることしかできない。

 いったい、自分は何にそんなに苛々していたのだろう。なぜ、エリスがラズワードを撫でているのを見てあんなにも心が掻き毟られるような不快感に囚われたんだろう。そして、エリスはそんな自分をみて何に気付いたというんだろう。

 怖い。自分の知らない感情に、頭を支配されていく。

 この不快な感情は。ラズワードを独占したいなどという浅ましい思いは。名前は存在するのだろうか。なんというのだろうか。



「ハル様」



 静かに自分を呼ぶ声がする。見れば、不安げにラズワードが見上げていた。



「……っ」



 全部、こいつのせい。不快な感情。くだらない欲望。今まで抱くことのなかったモノを生み出してしまったのは、この奴隷の。



「……ラズワード」

「はい」



 そうだ、彼のことを考える度に溢れ出す、この感情。そろそろいいんじゃないか。気付いてもいいんじゃないか。



「……こっちきて」

「?」



 ふと、彼を呼ぶ言葉が唇からこぼれる。そうすればラズワードは立ち上がって、少しベッドに体重を掛け、ハルに近づく。

 少しだけ、わかっていたのかもしれない。そう、あくまで客観的に見てみれば、この感情の名くらいすぐにわかるのだ。その感情が、初めてのもので怖かったから、知らないフリをして目を背けていたのかもしれない。

 ハルは手を伸ばし、ラズワードの肩を軽く引き寄せた。ラズワードは少し驚いたようだが、逆らう様子もなく、ハルに身を任せる。

 青い瞳を見つめれば、心は吸い込まれそうだ。高鳴る鼓動は、とても煩く、耳障り。

 そっとラズワードの頬に手を添えれば、彼の瞳が微かに揺れた。深い青が揺れると、きらきらと光る漣のようだ。

 自分でも気づかないうちに、距離は狭まっていた。吐息がかかるほどに。

そして、唇が触れ――……ることはなかった。



「……う、わっ」



 くい、とラズワードを引き寄せると彼はバランスを崩したのか一気に体重をハルに預けてきた。勢い余ってハル自身もベッドに背中を打ち付けることになり、後ろからはぼふ、なんて間抜けな音がする。



「は、ハル様!?」



 ラズワードはガバっと起き上がると、少し怒ったような顔をしていた。多分ハルの訳のわからない行動に少しイラっとしたのだろう。でも、そう思うのも仕方のないことである。ハルも、自分の行動の意味などわからなかったのだから。

 ただ、やりたいと思ってやっただけである。



「ちょ、……」



 もう一度ラズワードを引き寄せると、今度こそラズワードは怒ったのかもしれない。声が僅かに荒いでしまった。流石に主人に忠実とはいっても、意図が不明のことなどには従いたくないのだろうか。

 

「はあー」

「ハル様、ため息ついていないで、この手……」

「帰ろうか、ラズワード」

「だから、それなら放してください……!」



 放せ、と抵抗されているのはなんだか残念に思うが、確かに自分がこの状況ならこう言うだろうなと思ってハルは笑った。意味のない抱擁は確かに気持ちのいいものではない。

 それでも、放すのは少し残念に思えた。ぎゅ、と腕に力を込めてみる。



「……」



 そうすれば、ラズワードは諦めたように黙り込んだ。そして、そっと、手をハルの体に添えてきた。

 たぶん、今のラズワードの行動は、奴隷としての行動だ。主人が抱擁を求めているから、それを返しているだけだろう。

 それくらい、ハルにもわかった。

 でも、わかってはいるが。すごく、彼の体は暖かくて心地よい。

 もしも、彼のこの手が、自分の意思で背にまわったのなら。

 そう考えてしまう、この思いもきっと。この感情のうちの一つなのだ。



「……あんまり長いあいだここにいると皆様が心配します」

「……うん、そうだね」

「だから……」

「ごめん、もう少し」



 そろそろこの感情に名前を与えようか。いい加減、めんどうになってきた所かもしれない。名前を知ったほうが、呼ぶときに楽だろう。

 そうだ、この感情の名は――
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