「失礼します」
しっかり身なりを整えて、ラズワードは書斎へ向かった。中に入ると、そこは乱雑に置かれた資料に埋もれている机にハルがついている。
「ああ……ラズワード……おはよう」
「おはようございます」
ハルはラズワードの姿を見るなり、軽く目をそらした。山になっている紙束に手を伸ばし、がさがさと漁り始める。どこか意図的にラズワードを見ないようにしているようにも見えるが、ラズワードはそんなことはどうでもよかった。
「これ……今日、俺の代わりに討伐してきて欲しい悪魔なんだけど」
「はい」
ラズワードは差し出された紙を受け取ろうとハルへ近づく。そうすれば、一瞬ハルは顔を上げてラズワードを見たが、またすぐに目をそらす。
「どうかなさいましたか」
ハルが自分のことをどう思っていようが興味はなかったが、流石に何度もチラチラと見られたのでは気になる。
「……え? いや、別に……」
「そうですか? 先ほどから様子がおかしいですが」
「……そうか?」
ハルは今度はラズワードから目を逸らさずにじっと見た。おそらくハルはやましいことなどない、とラズワードに思わせるようにそうしたのだろうが、それがかえって怪しい。ラズワードがバッチリと目を合わせてやれば、ぎょっとしたように、瞳が揺れるのだ。
「……ラズワード……あのさ」
「はい」
目を逸らしたまま、ハルはラズワードに言う。その声はどこか揺れていた。
「……昨日、どうだったの?」
「昨日?」
「いや……兄さん、何も言っていなかったからさ」
「エリス様のことですか」
ラズワードは軽く昨日のことを思い返した。
激しく求めてきたエリス。こちらが何度も絶頂に達して動けなくなっても、それでも体の奥を突いてきた。最後にはラズワードはただ、嬌声を上げることしかできなかった。ただの性器を突っ込む穴と化していた。
「少し、エリス様にとっては不満が残ったかもしれません」
「……はあ、なんで」
「本来奴隷は性『奉仕』をする側なのに、昨日は最終的にエリス様が俺に快楽を与え続けていました。……あれでは俺は自分の役割を果たせたとは言えません。……申し訳ありません。ハル様の奴隷である俺がこんな失態をしてしまったら、貴方の評価までさがってしまうかもしれない……」
「……ああ、うん」
「ハル様?」
ハルはラズワードの話の途中で机に顔を伏せてしまった。ラズワードはハルが何を考えているのかが全く読めなくて、焦ってしまう。
「あ、あの……本当に申し訳ありませんでした……」
「いや、別に怒ってないよ……」
「じゃあ、何か別なことで俺に……」
「違う……ラズワードは何も悪くない……気にしないでくれ……」
ハルはのそ、と顔を上げた。その顔はどことなく辛そうで、ラズワードは一体ハルがどうしたのだろうと考えてみたが、心当たりが全くない。どうするべきか、と悩んでいるとハルは資料をぶっきらぼうに差し出してくる。
「……今日の悪魔は、レベルA。昨日の戦いぶりを見て、ラズワードはある程度強い相手でも大丈夫だと思ったから」
「あ、はい……ありがとうございます」
ラズワードは資料を受け取ると、それに目を通す。粗いものではあるが、写真が添付されていた。
「……これは、イェーガーですか?」
「ああ、そうだ。奴らは天使を狩るためにいるから……魔獣よりも手こずると思う。気をつけろ」
イェーガーとは、天使におけるハンターと同じようなものである。魔獣と違って人型をなしており、しっかりとした思考能力も持っている。その強さも魔獣のレベル1から5といったランク付けではなく、アルファベットのDからSとなっていて、Sに近いほど強い。つまり今回のレベルAは相当強い悪魔であるということだ。
「もしも敵わないと思ったら諦めて逃げて帰ってきていいから。無理はしないように」
「はい、わかりました」
ラズワードの返事を聞いて、ハルが立ち上がる。そして、ラズワードの傍まで近づいてきた。
「今俺から言うのは、以上だ。もう行っていいよ」
「はい」
「……」
「……? ハル様?」
もう行ってもいいというわりには、ハルはじっとラズワードを見つめている。近くでそんなに見つめられては、行こうにも行けない。仕方なく、ラズワードはハルの動きを待つことにした。
「あの……ハル、様……」
しかし、いくら待っても、ハルは動かない。じっとラズワードを見つめるのみ。痺れをきらしてラズワードが名前を読んでみれば、びくりと微かに動くだけ。
「……」
こうなったら、魔術で心を読んでやろうか。相手の心を読むのはよくないことだと教えられているが、流石にこのままでは埒があかない。ハルが求めていることを読み、それを実行してあげればこの状況を打破できるだろう。
……と、ラズワードが思ったときである。
「……?」
ハルが、す、と手を伸ばしてきた。ぼんやりとラズワードを見つめながら、指先が頬に触れる。掠める程度、ほんの僅かにだ。
ハルはそれ以上何かをするというわけでもなく、ただ、何とも言えない表情をしながらラズワードをみていた。何かを煩わしく思うような、それでいて切なげな。時折揺れる瞳が、ラズワードの感情を突く。
この人は、何を考えている。欲情したのなら、さっさと犯せばいい。言いたいことがあるのなら、早く言え。理解できない感情を向けられるのは、面倒だ。
ラズワードは静かにハルを見つめながら、心の中で毒づいた。ラズワードはハルのことを好きとも嫌いとも思っていなく、ただ自分の主人なのだから従わなければとは思っていたが、こうしてよくわからないことをされるのは正直鬱陶しいと感じていた。
触れたいのなら、ただ、触れればいいのに。その指先に、何かしらの感情を込めるのは、やめてほしい。
ラズワードは感情を向けられるのが苦手だ。特に好意といったものは、自分にとってよくわからないものであったため、どう対処したら良いのかわからない。
ラズワードの心は、迷いに揺れる。手を払うわけにはいかない。しかし、ほかになにもできない。
「ラズワード」
「……っ」
きっと、ハルが触れてから今、名を呼ぶまでの時間はほんの数秒だっただろう。しかし、それがラズワードにはとても長く感じた。呼ばれた瞬間、ラズワードはびくりと肩を揺らしてしまう。
「……気をつけて。……いってらっしゃい」
「……え?」
ぽかんとラズワードがハルを見つめれば、ハルは離れていってしまう。そして机に戻ると、再び作業を始めてしまった。
なんだったんだ、一体……。
ハルへの疑問を口に出してしまいそうになったが、ラズワードはそれを飲み込んだ。ごちゃごちゃと思考を巡らすも、ハルの行動の意味への答えにたどり着かない。
……考えないようにしよう。たぶん、どうあっても理解することはできない。
「……ハル様……いってきます」
「……ああ」
考えても無駄だ。ラズワードはハルに背を向け、部屋をあとにした。
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