15
 施設まできたときと同じように、ラズワードはノワールの車でレッドフォード邸に送ってもらう。車内ではノワールが今回の任務についてのお礼とか、そういうことばかり言ってきて、あまりいい気分にはならなかった。もうほんとうに、約束のことは忘れてと言われているみたいで。

 ノワールにとって、自分を殺してくれる人間は愛おしくて仕方ないのだろう。だから、彼を殺してあげるということは、彼のその歪んだ愛を受けるということになる。世間一般的な愛とは全く別物であるが、やることは恋人とは変わりない。……それを、こんなに嫌だと思ったのは一体何故だろう。ハルと恋仲になった当初よりもきっと、その想いは強くなっている。ハルとの関係と、この想いはあまり関係ない。



「……ノワール様。……海」



――気付いてはいけない。そう思った。

 車窓から見えた海に、ラズワードはノワールに呼びかける。任務の直前に、もう一度いこうと誘った海。ノワールは「ああ」とだけ言うと、小道にはいっていく。

 車を止めると、二人で浜辺へ向かった。辺鄙な場所にある海だからか、人はいない。静かな漣の音が聞こえてきて、生ぬるい潮風に吹かれるとなぜだか切ない気持ちになってくる。



「……ノワール様。貴方といると、時々考えることがあります」



 昼間の海は、真っ青の空の下、きらきらと光っている。



「人ってなんのために生きているのかって。自分の幸せを全うするために生きているのか、それとも自分の幸せを捨ててでも大切な人のために尽くすために生きているのか」

「……おまえは、幸せになるために生きている。何回も言っている、もう、いい。俺のことは忘れてくれて構わない」

「……それがね、簡単にできたら俺は苦しんでいないんですよ」



 ラズワードはが、とノワールの肩を掴む。



「俺は……恋人がいる、愛している人がいるのに……なのに、どうして貴方に惹かれてしまうんですか……俺はハル様が好きで、ハル様の恋人で、ハル様と添い遂げたくて……それなのに……! 貴方のことばかり、考えている……! どうしてですか、俺は何をしたいんですか……俺は、どうすればいいんですか……」



――どんなときでも。ふとした瞬間に脳裏によぎる、青い夢。深い深いブルーのなかに、引き摺り込まれていくように落ちてゆく夢。それは、逃れられない運命を啓示しているようで怖かった。自分の幸せを大切にしたいのに、本当の道はそちらではないと、引っ張られるようだった。



「ノワール様……俺は、どうしてこんな力を持って生まれたんですか。俺はただの、天使です。神族よりも弱いはずの種族なのに、貴方の隣に立てるくらいの力を持っている。……貴方を、救うためでしょう。貴方に出逢うためでしょう。それが……俺の生きる意味だということでしょう……?」

「……俺に答えを求めてるのか、もう自分で答えが決まっているのか……はっきりしろ」
「だって……決めるのが、怖い……」

「……だったら! 俺がおまえのことを奪っていいのか!」



 ノワールがラズワードの胸ぐらを掴む。切羽詰まったようなその表情に、ラズワードの瞳が震えた。



「世界でたった一人の……俺と対等な力を持つ人間が、手を伸ばせば届くところにいる! 俺は諦めようとしているのに……まだおまえは揺れている。ほんの少しの隙間を抉っていって、おまえの心を掴んで……おまえを自分のものにしたくなっている俺の気持ち、わかるのか!」

「……ッ」



 頭が痛い。ぐるぐるする。たくさんの想いが、ラズワードのなかでせめぎ合う。ハルへの気持ち、ノワールへの想い。もう、何も考えたくない。考えれば考えるほどに、自分は壊れてゆく。



「もう……もう、奪われるなら、奪われてしまいたい……自分がもう、わからない……!」

「……」



 ノワールが、ラズワードを掴む手に力を込める。憎むような、哀しむような、慈しむような、色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざった眼差しで見つめられて、ラズワードは泣きそうになった。いまの自分の発言は、最悪だ。決定という行為に必要とされる責任を、彼になすりつけようとしているのだから。



「俺が……俺が本気でおまえを欲したら、きっと俺はおまえを壊しちゃうよ」

「……壊されたほうが……いっそ、楽です……」

「俺を選んだせいで自分に降り注ぐ不幸すらも、わからなくなりたいから?」

「……はい。光も見えない真っ暗な暗闇に、突き落とされたいんです」

「……」



 見つめ合う。漣の音が耳をくすぐる。

 ノワールは静かにラズワードから手を離すと、そのまま頬に触れた。するりと手のひらをすべらせるようにして、ラズワードの瞳を覗きこむ。ラズワードは怯えるように、瞳を震わせた。しかし、逃げない。そのまま囚われることを望むかのように。距離は少しずつつめられていって、そのたびにラズワードの心臓がどくどくと高鳴ってゆく。目を閉じて、自らが闇へ堕ちてゆくその瞬間を、待つ。



「――ッ」



 唇が触れ合う瞬間。ノワールがぴたりと動きを止める。



「……約束が、違う」

「え……」



 ノワールが悲しそうな顔をしてラズワードをみつめた。ラズワードは目を瞠って、固まってしまう。



「……俺は……『待っている』って、言ったんだ」

「……!」

「最後の決断は、おまえにして欲しいんだ……」



 ノワールの言葉に、ラズワードは息を呑んだ。脳裏に、約束のシーンが浮かび上がる。
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