中はラズワードと同じように雨宿りを目的としたら人々がぽつぽつといた。カウンターもテーブル席もそこそこ埋まっていて、どこに座ろうかと軽く店内を見渡したところで――
「えっ」
一つのテーブル席に座っていたとある人物に、ラズワードは息が止まるほどに驚いた。思わずハルに頼まれて買ったものを落としそうになって血の気が引きそうになる。呆然とラズワードがその「彼」を見つめていれば相手も気付いたようで、ハッとしたような顔をする。
「ラズワード」
名前を呼ばれてしまえば無視するわけにも逃げるわけにもいかずーーラズワードはあまりにも煩い心臓の音を聴きながら、静かに彼のもとへ歩みよっていく。そして、テーブルまで近づいていくと、何食わぬ顔を繕って、にこやかに言った。
「……お久しぶりです、ノワール様」
そこにいたのは、ノワールだった。髪が少し濡れていて、恐らくラズワードと同じ理由でこの店に入ったのだろう。
「……偶然ですね」
「そうだね、俺も仕事でここに来ただけだったんだけど、雨に降られて」
ノワールは白いシャツにネクタイを身につけていて、そして椅子にジャケットがかけてある。たしかに彼は仕事の帰りといった風貌で、この街は大きな街であるため神族もよく訪れると考えれば、彼がここにいるのはおかしいことではない。
「どうぞ、ここでよければ座る?」
「あ、では……失礼します」
着席を促されてラズワードはノワールと同じテーブル席についた。濡れたジャケットを脱いで、タイを緩めて楽にしてみれば、ノワールがなんとも言えないような顔つきでそんなラズワードを見つめてグラスに口をつける。
「……大分、変わったね」
「え?」
「大人っぽくなったというか」
どこかしっとりとした声色は、雨のせいだろうか。それとも。
「それ、お酒ですか?」
「これ? ああ、そうだよ」
「何を飲んでるんですか?」
「ああ、これ」
いきなり褒めてくるものだから酔っているのかと思えば、案の定彼が飲んでいるものは酒のようだ。顔色こそは変わっていないが、どこか雰囲気が違う。
「飲んでみる?」
「あ、じゃあ……」
ノワールにグラスを渡され、ラズワードはかるくそれに口をつけてみる。が、
「うっ……げほっ、なんですかこれ、強っ!」
舌を抉るような苦味、喉が焼け付く感覚、飲んだこともない強いアルコールにラズワードは舌を巻く。
「あれ、ラズワードはザルだと思ったんだけど」
「そ、そりゃあ強いですけど! 魔術で分解できるから酔ったりはしません!」
「そうそう、水の魔力をもっていればアルコールの分解もできるからね。でも調子にのって飲みすぎるとだめだよ。魔術が使えないくらい頭が働かなくなることもあるから」
「じゃあなんで飲ませるんですか!」
「んー、ちょっと酔ったところみてみたいかなぁって」
くすくすと笑いながらノワールがまた、グラスに口をつける。よくもまあ、そんなに強い酒を顔色一つ変えずに飲めるもんだと妙に感心してしまう。
「ノワール様ってお酒強いんですね。よく飲むんですか?」
「ん〜、父親にアルコール類と毒に対する耐性つけられていたからね。騙されて飲んだりしても大丈夫なように。お酒は好きじゃないけどなんとなく嫌なこと忘れられるから」
「……耐性をつけられていた?」
「ああ、うん……小さいころから少しずつ毒とアルコール飲まされていたみたい。最近知ったけど」
「ええっ……!?」
はぁ、とため息をつきながらノワールは頬杖をつく。そこでラズワードはようやくノワールがいつもと様子が違うことに気が付いた。どこかイライラとしていて、それでいて憂鬱気。「嫌なことを忘れられる」極度に度数の高い酒を飲んでいる。
「……ノワール様、なにかありましたか?」
「……ううん、べつに」
「無理に話せとは言いませんけど……顔色、優れていませんよ。ちゃんと寝ていますか?」
「……睡眠は、とってる。寝ようと思えば魔術を使って寝れる」
「……魔術を使わないと寝付けないんですか?」
ラズワードは探るような言葉を吐いてしまったことに気付きハッとしたが、ノワールは困ったように笑うだけ。その疲れたような笑顔はラズワードの言葉を肯定していた。
「……なんで、俺って生まれてきたのかなって最近思って」
「……どうしたんです、そんな」
「父親の奴隷として、目的もなく命を奪うようなことをずっとして……ただ意思もなく命を奪うような人間、生きる意味もないんじゃないかな」
「……」
「最近は……ただ、祈るように自分の死を願っているんだ。夢の中で何度も何度も死んでは目が覚めて、生きているという事実に絶望する」
どこか危なっかしいノワールの様子に、ラズワードは押し黙る。酔いがまわっているのもあるのだろうが、彼はここまで自分の弱みを人に晒す人だっただろうか。何がトリガーになるのかも予想がつかず、気の利いた言葉もでてこない。
以前からノワールは自らの死を望み、そしてラズワードはそれを叶えてみせると、そう誓っていた。ノワールがこうした発言をすることには驚きを感じなかったが、あまりにも鬱屈とした彼の様子は流石に心配になってしまう。何と声をかければよいかと悩んだところで、先日出会った「少女」のことを思い出す。
「ノワール様、ルージュ様とは上手くやっていますか?」
「……ルージュ? あ、あぁ……」
「彼女、今までのルージュ様とは少しタイプが違いますよね。なんというか、すごく純粋で……」
「……どこかで会ったの? 素顔の彼女と」
「先日のパーティで」
「あぁ、そういえばレッドフォード家も参加していたんだったね。ルージュ、ばれないようにしろって言ったのに……ラズワードが少し鋭すぎるのかな」
ノワールはルージュの話をだすと、一瞬笑ったが、すぐにまた瞳に影をおとす。
「ルージュ、純粋だろ? 俺と違って」
ノワールがグラスを一気に傾けて酒を飲み込む。カラン、グラスは透明な音をたててテーブルの上に置かれ、ノワールは雨粒に叩かれる窓を頬杖をついてみつめた。
「彼女、昔から知り合いなんだ」
「えっ、そうなんですか。ノワールである貴方が……珍しいですね」
「うん、たまたま出逢って、……彼女がルージュになったときには驚いた。こんな組織のなかに入ってくるなんて」
「初めてみたときはまるで女王様みたいで、これがルージュかって慄(おのの)きましたけど……パーティーで素顔をみて驚きましたね。あんなに純粋に貴方のこと……」
そこまで言って、ラズワードは口を噤む。あんなに純粋に貴方のことを想えるような人なんて、そう言おうとしたが、ノワールがルージュの好意を知っているなんて確証はない。が、焦ったラズワードとは裏腹にノワールはとくに驚く様子もなく、乾いたように笑う。
「……そうだよ、彼女は純粋に、俺を好いてくれている」
「えっ……知っているんですか」
「ああ……すごく――煩わしい」
「……!?」
ノワールの発言に、ラズワードは目を見開いた。まさか、彼はルージュの気持ちを無下にするとでも言うのか。応える必要まではなくても、そんなふうに言うことはないじゃないか――ラズワードがそう、ノワールに不信感を抱いたとき。
「俺のなかで蠢く、感情が……鬱陶しい」
ノワールがそう言ってその顔に浮かべたのは……悲痛な色だった。思いつめたように瞼を伏せたかと思うと、自嘲するように嗤う。
「……俺ね、リリィを……自分のものにしたい」
「……好きってことですか?」
「好き……そんな風に言えればいいね。でも俺の想いはそんなお綺麗なものじゃないよ。彼女を組み伏せて犯してやりたいって思っている」
「……いや、……えっと、言葉の選択間違っていませんか? 彼女もノワール様のこと好きなんでしょう? 同意の上での行為なら、犯すとは……それに、好きなら抱きたいと思うのもおかしいことじゃありません」
「……俺がどんな人間か忘れた? 俺の身体に何人の血が染み込んでいると思っている。俺は人間の皮をかぶった化物みたいなものだよ、純粋な彼女には触れることすら……俺には赦されていない」
淀んだ瞳。自分を見ているのだろうか。ラズワードはそんなノワールをみてズキリと心が傷んだのを感じた。
「……自分がどれほど醜い人間なのか知りながら……俺は彼女に触れたいって、そう思うんだよ。一緒にいればいるほどに、俺は……」
そのとき、店内が光る。外で落ちた雷の光が窓から入り込んできたのだった。
「……天気、ますます悪くなってきたね」
ノワールが言いかけた言葉を飲み込み話題を変える。混んできた店内を見渡し、一瞬考えたように黙り込んだが、やがて口を開く。
「……場所変えようか」
「そう、ですね……あんまり長居すると迷惑になるかも……」
「……すぐ近くに休むところあったような気がするから。雨に少し濡れちゃうかもしれないけど」
「まあ仕方ないですよね、迷惑かけるよりいいかも」
雨に濡れるのは少し困るが……ハルに頼まれていた物は雨に濡れないように包装されているし大きな問題はないかと、ラズワードは決断する。雨足がひくのも時間がかかりそうで、ずっとこのカフェにいるのは良くないということについても同意見だ。
そういうわけで、二人は席を立ち会計を済ませると、店をあとにした。
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