「――ッ!」
少年は、勢い良く体を起こす。見渡せば、誰もいない和室に、自分はいた。障子を月明かりが抜けて畳を青白く照らして、そこには木々のざわめきが映っている。
今のは、現実だったのか。あまりにも恐ろしい記憶、バケモノに体を犯された苦しみ。何事もなかったように体には異常はなく、今いるこの空間は静寂としている。
「浅葱」
「……!」
筑紫の声が小さく響いた。引き戸を少しだけあけて筑紫が部屋の中にいる少年の様子を伺っている。少年と目が合うと、ほっとしたように笑って彼女は中に入ってきた。
「よかった、目が覚めたのね」
「……お母様、僕は」
「あの人から聞いたわよ、急に体調を崩して倒れちゃったって」
「……あ、そう、だったんですか」
やっぱり、バケモノの記憶は夢だ。少年は安堵したように息を吐いた。
「ねえ、浅葱」
「はい」
筑紫が少年の頬をそっと撫でる。不思議そうに自分を見上げてきた少年をどこか悲しそうな目で見つめると、静かな声で言う。
「お勉強は頑張っている?」
「はい、お父様に言われたことは全部、覚えようと」
「……無理はしないでね。貴方にも……幸せを望む権利があるのよ」
「……?」
唐突に言われた「幸せ」という言葉に、少年はきょとん顔。
少年は、自分が「ノワール」になるために勉学を強いられているということを知らなかった。ただ父に言われたから、知らずとしてその知識を身につけているのである。「ノワール」という存在がどれほど残酷で、幸せな未来を望めないのかということを知っていながら。自分がその道を歩んでいるということを知らないのだ。
筑紫はただ悲しかった。少年の優しい心を知っていたから。少年は人を統べることも虐げることも好むような為人ではない。平凡で、普通の人と同じような人生を歩むことが、少年にとっての一番の幸せであると、筑紫は思っている。
少年に、幸せな未来は望めるのだろうか。少年にとっての幸せとはなんだろう。こんなにも小さいうちから少年の不幸は約束されているというのか。
「……お母様」
「なぁに」
「……幸せってなんですか」
少年が、そっと筑紫の手を握ってそう訪ねてきた。
胸が、つまるような心地だった。
少年はまだ幼いから、幸せなんてものを実感することはできないだろう。子供ながらの歓び、楽しみ、それが今の少年にとっての幸せだろう。筑紫はそれを理解していたが、少年に伝えたい言葉は違っていた。遠い未来、彼が大人になったときに、覚えていて欲しいことがある。
「――生きたいと、思うこと」
「……生きたい?」
「今自分がある境遇がどうあっても、生きていたいと思えるなら……あなたは幸せのなかにあるということ。幸せを望むことができるということが、幸せなのよ」
「……? お母様、難しいことを……言うんですね」
彼に、幸せになってほしかった。どんなに苦しいことがあっても「死にたい」などと言わないような、そんな人生を歩んで欲しかった。
頭をなでてやれば幼い瞳が見つめてくる。この瞳から光は消えるだろう。彼はきっと、誰よりも大きな闇を抱えた人になるのだ。
どんなに強くても、彼はただの人間なのだから。
_140/270