「――ノワール、ご苦労だったな」
事を終え女性をホテルの出口まで送ると、ノワールは再び部屋に戻りベッドに座っていた。サービスとしてホテルが部屋に置いておくはずのない、恐ろしく度が強い酒を飲みながら。
「バートラム、もうすこし強いものが欲しかったですかね、私はなかなか酔えないんですよ、誰かさんのせいでね」
「どうした機嫌が悪いじゃないか」
「……ああいうことが必要ならば先に言っておいてください。突然女を抱けと言われても気分がついていきません」
「はっはっは、いいじゃないか、おまえはなんでもできるんだからな」
悠々と部屋に入ってきた男は、バートラム――施設の「管理者」、ノワールとルージュの上の立場に立つ者であった。還暦を迎えた風でありながら貫禄のあるその男は、皆から恐れられるノワールを目の前にしても怖じ気付くどころか疲労した様子の彼を面白がってみている。ノワールはそんなバートラムの様子に気が付きながらも憤りを表にしようとはせず、じっと下を向いて黙り込んでいた。
――先ほどの女は、以前からバートラムが交流していた施設の支援者の、娘だ。最近施設に多額の金が必要になったことを知っているノワールは、部屋を開けてあの女がいた、その瞬間に事情を把握した。その娘がノワールに興味を持っていた――支援者に融資してもらう代わりに、あの女を満足させればいい。
「……バートラム、別に私は女を抱くことに抵抗などありませんが……後処理が面倒なんですよ。関係を清算するのは楽ではない」
「おまえなら大丈夫だろう。女関係での揉め事なんて慣れっこじゃないか」
「……私をなんだと思っているんですか。それにポンポン女を抱くのは関心しませんね。妊娠させたらまた面倒なことになるじゃないですか。私に妻となる女をしっかり選べといったのも貴方でしょう」
「ああ……孕ませてもらったら困るな……おまえの妻になる女は優秀な母体をもっていないといけない……まあその時はその女を暗殺すればいいさ」
「……」
俺はおまえにとっての種馬か。そう言いそうになるのをノワールはぐっと堪えて、グラスに残った酒を飲み干した。僅かその眉間にしわが寄っていたのをみてか、バートラムはふっと笑う。
「まあまあノワール……疲れているんだろう。これでも飲んで全部忘れるといいさ」
「……これ?」
バートラムはスーツの内ポケットから小さな小瓶を取り出した。ベッドに座った状態でそれを見上げたノワールは、それの正体にすぐに気づき息を飲む。小瓶に貼ってあるラベルにふってあるナンバーに、見覚えがあったのだ。
「……バートラム、それは、」
「ある一つの苦痛を忘れるには、それを超越する苦痛を与えるのが手っ取り早くて良いと私は思うんだ」
「……、拒否します……! それの効力は知っているでしょう……そんな理由で使うにはソレは……」
「わからないかノワール。……これはなァ……お仕置きだよ」
「――っ」
バートラムがノワールをベッドの上に押し倒す。ノワールは抵抗しない。されるがままに、そのまま身体をシーツに沈め、バートラムを見上げるばかりであった。
バートラムが手に持っているものは――毒薬であった。もしも体内に入れたりでもすれば細胞を破壊し、内臓をめちゃくちゃにし、死を免れることはできないような、猛毒である。
「ノワール……おまえここ最近、独断で奴隷候補たちへの薬物の使用を軽減しただろう。勝手な行動はするなと言ったはずだが?」
「……薬物によって死亡する奴隷候補が多すぎます。奴隷候補だって無限にいるわけではない、新たな奴隷候補を育成するのにも無駄な費用がかかる。私は自分の判断が間違っているとは思っていません」
「よくもまあそうした口説を……最近のおまえの調教が甘いのを知っているぞ。……奴隷候補へ情でも持ち始めたんだろう? 「ノワール」がそれじゃあいけないなぁ」
「……」
「いいか、ノワール……おまえは私の忠実なイヌだ。おまえの意思など必要とされない、おまえは私のいうことだけを聞いていればいい。抵抗は、許さない」
バートラムがノワールの唇に指を這わせる。
「――あけろ」
「……、」
小瓶を、口元に近づけた。遮光性の茶色の小瓶のなかで揺らぐ水面を一瞥すると、ノワールは目を閉じて唇をひらいた。バートラムは素直な彼の態度にほくそ笑むと、指をそっと口の中に突っ込んで、中をかき回す。喉の奥を突かれて苦しそうに瞼が動くのにも、バートラムは満足気であった。
小瓶の口から毒が注がれる。なみなみと遠慮なく注がれるソレにさすがのノワールも恐怖を感じてか、シーツを握りしめ、その拳は血の気が失われ青白くなっていた。唇の端から零れる液体が首を伝い、シャツの襟元を濡らしたのを見てか、バートラムは口に突っ込んだ指を引き抜き、ノワールのネクタイをゆるめシャツのボタンを外し襟を開いてやる。
「……っ」
「偉いな、ちゃんと全部飲めた」
「……この、毒薬は……約5分で効果が現れはじめるんでしたっけ」
「ああ、よく覚えているじゃないか。……当たり前だが魔術で解毒しようだなんて思うなよ」
「……わかっています……せめて、浴室にいってもいいですか……シーツを汚したくない」
「ふむ……そうだな、弁償するのも面倒だ」
ノワールは立ち上がると、ジャケットとネクタイを外しベッドの上に放り投げた。そして、一歩、踏みだそうとする。しかし、その瞬間、強烈な目眩がノワールを襲った。ふらりと倒れそうになったノワールをバートラムは受けと止めると、にやにやと嘲笑いながらその髪を撫でてやる。
「連れて行ってやろう」
「……ありがとうございます……」
次第に息切れが激しくなっていき、大量の冷や汗が吹き出す。ぐったりとバートラムに身を預けながらも、ノワールはなんとか歩を進めた。
効力の発揮は5分後。しかし、それは一杯のドリンクに一滴のソレを混ぜた場合である。小瓶に入ったソレを丸々飲んだノワールにすぐに効力が現れるのは当たり前のことであった。
その足取りは重く、ノワールはバートラムにしがみつくようにして歩いていた。視界はぐにゃりと歪んで、今自分がどこを歩いているのかもわからない。ようやく浴室に辿り着くと、がくりと座り込み、バスタブの縁にしがみついた。
「――あ、……げほッ、う、」
そして、一気に血を吐いた。体内の血がすべて出てきているのではないかと思うくらいの大量の血をバスタブの中に吐き、まともに呼吸をすることともままならず、むせながら、喘ぐしかなかった。
「はは……苦しそうだな」
バートラムはそんなノワールの様子をみてせせら笑う。ノワールに合わせてしゃがみこみ、後ろから抱きすくめるようにして手を胸元に這わせると、シャツのボタンを外していった。
「あれくらいの量を飲めば普通は即死なのになぁ……はは、中途半端に生きているのも辛いだろうな?」
「は、ァ……げほ、ッ、ぁ、あ……」
「おまえは可愛い奴だよ、私の思うままの身体になってくれる」
「……ッ、ぅ、」
「無駄に聡いところが少し難点だがな……おまえは私の最高傑作さ、ノワール?」
ボタンを外し終えたところで、バートラムはシャワーヘッドをとって、ノワールの頭上にかざした。ノズルをまわせば、冷水が一気に吹き出てくる。冬も近い季節、暖房も届かない浴室のなかで冷水をかけられでもすれば、体温は急激に下がってゆく。呼吸ができない苦しさと、貧血と、その冷水のせいで、ノワールの肌は青白く染まっていった。
「なあ……そろそろ止めてやろうか?」
「……、」
「このままだとおまえ死んでしまうもんなぁ?」
バートラムはシャワーをとめてやると、立ち上がった。壁によりかかり、腕を組み、ノワールを見下ろす。
「さあ、ノワール……もう何度目だ。私に忠誠を誓え。おまえは永遠に私の奴隷だ、おまえに逆らう意思など許されない」
「……は、……ッ、」
「私の靴に口付けをして今度こそ本物の誓いを」
声が届いたのか届いていないのか、ノワールはバスタブにぐったりと寄りかかったままバートラムをちらりと見上げた。濡れた黒髪から覗く瞳は虚ろで、今にもそこに灯る光が消えてしまいそうだった。重い体をなんとか動かしてバートラムの足元に手をつく。髪の毛から伝う冷たい水と、口から零れる血がぽたぽたと落ちていき、床を濡らす。
「……バー、トラム、」
寒さと極限まで削れた体力のせいで、ガタガタと体が震えた。それでもノワールは、とうに感覚を失った指先でそっとバートラムの靴に触れる。
「……俺、は」
――逆らえない。
どんなに理不尽な命令でも、バートラムの言うことに、ノワールは逆らえなかった。今の彼の命令には何の意味もなく、ただ自分を辱め、彼が愉しむだけにやっているものだとわかっていても。バートラムは決して強力な力をもっているわけではない。殺そうとすればできないこともないのだが、それすらもできない。身体に染み付いた、バートラムへの恐怖と「何か」が、彼へ逆らうことを許してくれない。
屈辱を感じていないわけではない。彼へ憎悪の気持ちはあふれんばかりに抱いている。それなのにこうして彼の犬となって、奴隷となって、彼の人形になる。
「……一生、」
苦しさも相まって零れてきた涙を隠すように、ノワールは頭を下げた。バートラムの靴のつま先に、そっと唇で触れる。バートラムがぐっと足を唇に押し当ててきたために、口の中が切れて、また、血がでてきた。
「……貴方のモノであると、誓います……」
「――いい子だ」
ぜえぜえと息を荒げながら何とか誓いを吐いたノワールの目線に合わせて、バートラムはしゃがみこんだ。慈しむようにその濡れた髪を撫でてやると、顎を掴んで顔を持ち上げた。青白くなった肌は、水滴と、血で濡れている。虚ろな瞳には、ぼんやりと闇が灯っている。バートラムはそんなノワールの顔をみて何やらうっとりとした風に笑ってみせると、額に軽く口付けを落とした。
「……っ」
ノワールは一瞬、はっと目を見開く。しかしそれとほぼ同時に、体からふっと力がぬけて倒れこんだ。体力が尽きたのか、それとも。完全に意識を失った様子のノワールに、バートラムは満足気な表情をみせた。
「……出てこい、聖獣」
ノワールに向かって、バートラムは冷たい声で言う。そうすると、ノワールの体を取り巻くように風の渦が出現し、その中心からノワールの契約獣、グリフォンが姿を現した。
「本当は自分でやらせるつもりだったんだがな……この通り気を失ってしまったようだ。ノワールに治癒魔術をかけてやってくれないか」
「……貴様……ノワールの代わりに私がおまえを殺してやってもいいんだぞ。私はノワールと違っておまえの指図は受けないからな」
抑揚のない声で、グリフォンは言う。声色こそは冷静だが、その瞳には確かな殺意が宿り、そして浴室全体がグリフォンの騒ぐ魔力のせいでビリビリと揺れていた。しかし、バートラムは動揺をみせない。相当ご立腹のようだ、と笑ってみせると立ち上がり、吐き捨てるように言う。
「やりたいならやればいいさ……ただしその時、ノワールはどう思うだろうな。はは……感情をノワールと共有しているなら……知っているだろう? ノワールが私に抱く感情くらい」
「……貴様が……おまえがやったことだろうが……!! おまえがノワールにそれを植えつけたんだろう!? おまえのせいで……こいつがどれほど苦しんでいると思っているんだ!!」
「はっ……ああ、そのとおり、ノワールは私の望む完璧な作品になってくれた。こいつがどんな想いを抱いているかなんて、私には関係ない。ただ、私の望むように行動してくれる……私はそれでいいんだ。まだ少し躾は足りていないようだがな」
「……ッ、あまりにも過ぎたことをしたら……ノワールの意思に関係なくおまえを殺してやるぞ。ノワールがおまえに抱いている感情など幻想にすぎない、おまえが死ねばそれもいずれ消えるだろうさ」
「……ふ、どうかな」
バートラムはグリフォンに背を向け、浴室を出てゆく。
「ノワールは幼い頃から私に調教されてきたんだ。骨の髄まで、その細胞の一つ一つまで、私の色に染まっている。たとえこの先ノワールが誰かを愛したとしても、どんなことが起こったとしても……私のことを忘れることなどできないんだよ」
靴を鳴らしながら消えてゆくバートラムを、グリフォンはその視線で射殺せるほどに、強く、睨みつけていた。燃え上がる殺意をどう処理すれば良いのかわからない。ここまでグリフォンがバートラムに憎悪を燃やしているのは、もちろん彼がノワールを酷く侮辱するからである。ノワールを蝕む彼のことを、許せなかった。
グリフォンがノワールと契約したのは、もうグリフォン自身の記憶にもないくらいに昔のことだ。ノワールが幼い頃から、ずっと側にいた。今までの「ノワール」の中で、彼は唯一グリフォンが心を許した人だ。特別な、存在だった。
「……おまえは、莫迦だ……」
治癒魔術をかけてやると、いくらかノワールの顔色はマシになった。それでも意識が戻ることはなく、ノワールは目を閉じたまま。ぐっしょりと自らの血と冷たい水で濡れたシャツが張り付いた体は、おそらくローブを羽織った姿しか知らない者からすれば、恐ろしく細いだろう。
グリフォンは、そっとノワールに覆いかぶさった。触れてみればその肌は予想以上に冷たく、放っておけば本当に死んでしまったのではないかと思うと、ゾッとした。抱きしめるようにしながら、自分が人型だったらもっと良かっただろうと、柄にもないことを思う。グリフォンは何度か「人の姿だったらよかったのに、」と思ったことがあるが、それはノワールと触れ合ったときのみだった。グリフォンは非常に誇り高い聖獣であり、自分の存在全てにプライドをもっているからだ。人間に憧れるなど、自分を否定するようなこと普通は思うはずがない。
「……グリ、フォン」
「……ノワール……! 大丈夫か!?」
小さく自分の中で身じろいだノワールに、グリフォンは過剰なくらいに反応した。命が尽きていないことくらいはわかっていたが、実際にこうして意識を取り戻した様子をみて、酷く安心したのだ。
「……グリフォン……ひとつ、頼みがあるんだけど」
「どうした……まずはその体を……」
「俺のこと、手酷く抱いてよ」
「ハァ!?」
かすれるような声で言われたそれに、グリフォンは酷く動揺した。思わずガバッと起き上がる。
「お、おまえ何を分けの分からないことを言っている! だっ、大体種族が違うだろう子供なんて産めないぞ!」
「子供のことじゃなくて……ただ俺はおまえに抱いて欲しいって言ってるの」
「せ、性別が……! 私は知ってると思うが雄だぞ!」
「大丈夫……男でも抱かれることはできるから」
「ばっ……ふ、ふざけるな、かか体から始まる関係なんてそんなふふふ不純なことわっ私は」
「グリフォン」
ノワールがずるりと立ち上がる。目を見張り、息を詰め、グリフォンは黙ってその様子を見つめていた。ここで何か言葉を発したりでもすれば、彼を動かす糸がぷつりと切れてぱたりと呆気無く彼が死んでしまうのではないかと、そんな意味の分からない妄想に駆られた。
それほどに、今のノワールの様子は危うかった。
「……あの人はさ……苦痛で苦痛を上書きできるって言ったけど」
「――ッ!?」
ノワールが壁に取り付けてあった鏡を叩き割る。鏡の割れる音が、嫌に浴室に響いた。
「痛みで何かを忘れられるなら……どれだけ楽なんだろうね」
割れた鏡の破片をノワールが掴む。そこからは、グリフォンの目にはなぜかスローモーションのように映った。ライトに照らされきらきらと反射する破片がノワールの手のひらを傷つける。手からは血が伝い、白い肌を鮮やかに染めてゆく。赤く染まった手は、そのまま唇に。そして、鏡の破片は、ノワールの口の中に消えていった。
「……ッ、ば、馬鹿者……! ノワール、何を……」
「あッ……、ぅ、」
なぜ、今自分は早い段階でとめられなかったのか、グリフォンは自分がわからなくなった。ただ、その常軌を逸した行動に魅せられていたのは間違いなかった。
「はッ、あ……、ぅ、あ」
「……、」
破片は喉に突き刺さり、咽(むせ)て咳をすればさらに傷を深めてゆく。ノワールはずるずるとしゃがみこんで、何度も何度も枯れた咳を繰り返し、口から血を吐いた。その咳の中に、僅か泣き声が、混じっている。
嫌いで、嫌いで、憎くて、憎くて、殺したくて仕方がないのに。それなのに、たった一つ、小さな小さな想いだけが、ノワールを動かさない。愚かで、馬鹿馬鹿しくて、惨めなその想いが。
「……ノワール、おまえは本当に莫迦だな」
――あの人に、愛されたい。
華奢な、弱々しい背中をみて、グリフォンは思う。もしも、自分に人の腕があったなら。彼をただ優しく、抱きしめていたのだろうと。
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