休みをもらったところで、正直なにをすればいいのかわからない。ミオソティスの手伝いを終えて、とくにすることも思いつかなかったラズワードは、自室で横になっていた。
目を閉じると、ハルのことばかりが頭の中に浮かんでくる。些細なことで笑いあったこと、抱きしめあったときの暖かさ、身体を重ねたときの熱。思い返しては胸がきゅっと苦しくなって、そこからじわりと甘い温もりが広がってゆく。
(はやく夜にならないかな……)
夜になればハルが帰ってくる。そうしたら、真っ先に抱きつきたい。キスをしたい。抱いてほしい。
「はあ……」
まるで乙女のようなことを考えている自分に辟易して、ラズワードはため息をつく。馬鹿みたいだとは思っても、こんな願望は消えてくれないのだから困ったものだ。
「ラズワードさまー! いますかー! いますよねー!」
「……?」
突然、脳天気な声と共に激しいノックが聞こえる。一気に夢から覚めたような心地に陥って、ラズワードは飛び起きた。
のろのろと体を起こして、扉のそばまで行く。頭がぼーっとしていたため、声を聞いただけでは扉の奥に誰がいるのか判断できなかった。誰だったかな、こんな風に自分に話しかけてくる人いたっけか……そんなことを考えながらドアノブ手をかけたときだった。
「こんにちはラズワードさまー! お兄様から聞きましたよ! 本日は休養日だって! お暇でしょう! さあ私と逢引きいたしましょう!」
「ま、マリー様」
急に扉を開けて、マリーがラズワードに抱きついてきた。咄嗟に受け止めることはできたものの、突然のことに反応が遅れて体がよろけてしまう。
「ああー……ラズワード様、やっぱり素敵」
「ちょ、ちょっとマリー様……逢引きって……だめですよ、貴女みたいな方が俺なんかと」
「じゃあここで! ここで抱いてくださいな!」
「は? 抱……あっ、ちょっと!」
マリーぐいぐいとラズワードを押すと、そのままベッドに押し倒す。立場のことを考えるとあまり強く抵抗できなかった。……というよりも、あまりにもマリーの言っていることが理解できなくて、頭が働かなくて体が動かなかった。のしかかられてしまってから、ラズワードは今の状況がまずいものだと理解して、マリーを軽く押し返す。
「だ、だめです! マリー様、もっと自分を大切になさってください! 貴方にはもっと素敵な殿方が……」
「いいえ私はラズワード様がいいのです初めてはラズワード様に捧げたいです!」
「だめです、ダメ! それに俺には心に決めた人が……!」
「……それは、ハルお兄様?」
すっとマリーのその瞳が冷たくなったのを感じて、ラズワードは思わず黙り込んだ。マリーは出会ってからの日がとにかく浅い。彼女がなにを考えているのか全くわからなくて、ラズワードは彼女へ恐怖に近いものも覚えていた。
そうだ、マリーはハルとラズワードの関係を知っていた。それなのに、なぜここまでラズワードに迫ってくるのか。
「ラズワード様……貴方にハルお兄様は勿体無いですよ」
「は?」
「ハルお兄様は良くも悪くも普通の人。貴方のような人はたぶん、ハルお兄様とは一生を添い遂げることはできませんよ」
「……言っている意味がわからないのですが」
「貴方が普通じゃないって言っているんです」
ハルのことを貶されて一瞬頭に血が昇ったものの、マリーの言葉にラズワードは口をつぐむ。普通じゃない。なぜそんなことを言われなくてはいけない。
「ここまで深い目の色をした人は今までに一人しかみたことがないですわ。貴方はご自分が特異な存在であるということをもっと自覚するべきです」
「……俺がなんであろうと、ハル様を好きな気持ちはかわりません。それに目の色なんて関係ないでしょう。ただ魔力が強いってだけじゃないですか」
「関係ない? 貴方と等しいレベルの魔力を持つ人が、あの方しかいないのだとしても?」
「あの方?」
「……ノワール様です」
「――ッ」
ドキ、と心臓が嫌な感じに跳ねる。今、一番聞きたくない名前のような気がした。
さっと青い光景が脳裏に浮かぶ。だめだ、今思い出してはいけない。なんで? 約束だったんだから覚えてなくちゃいけないはず。覚えてる。でも、今はだめだ。なぜ、今はダメ?
――ハルと一緒にいたいから。
「――……ッ」
自問自答の末に、自分の心を知ってしまったラズワードは、顔を青ざめさせた。ハルと一緒にいたい。それがノワールのことを思い出してはいけない理由になるとしたら……そうだ、ノワールの存在がどれほど自分のなかを大きく占めているというのだろう。今、自分にとっての一番は、ハルのはずなのに。
「私、あの方に会ったことがあります。……ノワール様は、ずいぶんと怖い方ですね。顔では穏やかに笑っているくせに心が一切読めないのです。闇のように真っ黒な瞳が、その笑顔のなかに浮いていてとても怖い。あの方は、一目見てわかるくらいに、狂っている」
「……それが、俺と何の関係が? 俺があの人と釣り合うとでも?」
「逆です。貴方に釣り合うのがノワール様しかいない。それ以外の人が貴方と一緒にいたところで……幸せになれるのでしょうか」
マリーが迫る。ラズワードは何も言い返せなくて、饒舌に言葉を連ねるマリーを見つめるばかりであった。
「ハル様は……」
「とても幸せそうですね。貴方のことを本当に好きで好きでたまらない様子ですから。でも、これからどうなるのか、私は不安なのです。本当に、貴方とハルお兄様はずっと一緒にいられるのか」
「……俺は……いたいですよ。ずっと、ハル様と」
今朝からなぜか胸をよぎる不安。青い夢が怖くてたまらない。
夢の中、自分がなんども言おうとするのだ。
『貴方を、×××××』
自分で言っているのに聞こえない。何を言っているのかわからない。その言葉を知ってしまったときが、すべての終わりなような気がした。今の幸せが、全て崩壊する。
怖い。ノワールとの約束が、自分の中で異常な存在を持っている。ただ、あの人の願いを叶えてあげる、それだけの約束ではなかったのか。
「それなら、いいんです。貴方がお兄様のことを本当に愛してくれたなら」
「……」
「途中でお兄様を裏切るようなことは、しないでほしい」
「そ、そんなことするわけ……!」
「……そう、ですか」
マリーは、固く笑う。威圧的なその笑みに、ラズワードは目をそらした。滞留する不安が焼いた胸の傷を、抉られるような気がした。
「なら、いいんです」
「え?」
「私はお兄様が幸せなら、それでいいから」
「……」
ラズワードはマリーをじっと睨んだ。彼女の意図がわからない。詰まるようなこの空気に、ラズワードは息苦しさのようなものすら感じていた。
「……貴女は、俺にどうして欲しいんですか? 唐突にノワール様の名前をだして俺のことを揺さぶったと思えば、ハル様との幸せを願ってみたり……」
「萌えているんです」
「……。……なんだって?」
「ですから、萌えているんです」
「も、もえ……?」
宇宙語を話されてラズワードはぽかんとまぬけづらを晒してしまった。『もえ』?……『燃え』?いや、『萌え』?ここでどうして何が芽吹いたというのか。
「ああもうラズワード様、貴方は私のストライクゾーンなんですよ! その華奢な身体、白い肌、さらさらの髪……それでいて男性らしい強さをもった性格……ちょっと虐めて困った顔をしてもらいたい……いや、悩んでいる顔をみるのもいい……」
「あ、あの、ちょっと俺にわかる言葉で話していただけます?」
「ですから! この気持ちをまとめて『萌え』というのです!!」
「聞いたことないですけど!?」
「ああ、これだから下界に行っていない方は……常識ですよ、ニンゲン界では」
「すみませんねそこまでニンゲンの文化に精通していなくて」
きらきらと目を輝かせて言う彼女になんの悪意もないということがわかると、途端にラズワードは脱力した。ついていけない彼女のテンションに乾いた笑いを向けながら、ラズワードは彼女が静まるのを待つ。
「ハルお兄様のことを考えて悩んでいるラズワード様……うふふ、ドキドキしてきますわ」
「……そんな理由でさっきあんなこと」
「あれは私の本心ですけどね」
「え」
どういうことだ、と問おうとしたが、ぴょん、とマリーはラズワードの上から飛び降りてしまった。そしてくるくると歩き回って部屋を物色しだす。とくに見られて困るものもおいていなかったため、ラズワードはその様子を黙って見ていたが、彼女がクローゼットを開けようとしたとき、慌てて起き上がって叫んだ。
「ちょっと、そこは……!」
「えっ何があるんです? えっちなものですか?」
「そうじゃなくて!」
制止しようとしたが時は遅く。マリーはクローゼットを開けてしまった。
「……、これは」
「あ、あの……」
「……ラズワード様、好きなんですか? こういうの」
「……そ、その……趣味です」
ラズワードは僅か顔を赤らめてうなだれる。しげしげとクローゼットに顔を突っ込みながらソレを見ているマリーにはもう、言い訳をすることもできなかった。
クローゼットに入っていたのは、大量の武器であった。それも、狩った悪魔から奪ったヴァール・ザーガーである。ラズワードはいつからだったか武器を収集する癖がついてしまっていて、こうして狩った悪魔から武器を奪い取っては集めていたのだが、ヴァール・ザーガーというのは形が一般的には悪趣味と呼ばれるもののためクローゼットの中に隠していたのである。バガボンドにいたころは安っぽい武器を使っていたために手入れを入念に行っていて、それのせいで武器に対して愛着が湧いていたのかもしれない。それがたぶん、こうして武器を収集してしまう癖の原因の一つとなっているのだろう。
「あら! それは素敵なことですわ! でしたら、私と一緒にひとつ革命をおこしてみませんか?」
「はい?」
「ニンゲン界からここにはない武器を仕入れましたの。でもそれを上手く使いこなせる人がいなくて……きっとラズワード様ならできます! 私と一緒に革命を!」
「……革命って……もしかして前に言ってた、神族を倒すとかいう……」
「そうです! いくら神族であろうと、ノワール様がそこにいようと……あの武器には絶対に為すすべがないでしょう。さあ、ラズワード様! どうか、私たちと一緒に!」
「……」
ノワールを殺すのは、自分だ。
その想いからラズワードはそれを承諾はできなかった。しかし、断ることもできなかった。以前レヴィに言われたことを思い出したのである。「一人では神族をかいくぐってノワールにたどり着くことなどできない」。ノワールがいるのはあの施設。その施設にいるのはノワールだけじゃない。
一人でノワールを殺すことなど、できやしない。どうするべきか、そう悩んでラズワードが黙りこくっていると、マリーがずいっと顔を近づけてくる。
「いいお返事、待っていますね」
「待っ……」
ラズワードが返事をする前に、マリーは軽い足取りで部屋を出て行ってしまう。
わけのわからないことを言うようでいて、時折刺すようなことを言ってくる。マリーもそうだが、女ってすごいなと妙に感心しながらラズワードは閉じられた扉を見つめていた。
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