小話02

※三つ子が生まれる前の次富夫婦の話


今でも思い出すとその時の幸福が降ってくる。
一人の身体の時より幾分時間のかかる家事を終えて、リビングのソファーに背を預けるとまどろみが顔を出し、思い出す記憶は今もその喜びであたしを包んでくれる。

数ヶ月に逆上る。
動けないほどではないけれど、体調が優れない日々が続き、そのうちよくなるだろうと思っていたあたし。とうとう吐き気までもようして、三之助に押し切られるように病院に行った。

「ひとりで行ける?」
「タクシー呼ぶ?」
「お義母さんか、おふくろ呼んで一緒に行ってもらおうか?」

と小さな子ども相手にしているのか、というほどの心配様だったけれど、その背中に大丈夫と押し切って仕事に行かせた。今も変わらず愛されていることが嬉しく、早くなんでもないことを知らせてあげなければと、あたしは診察室で忙しない気持ちを隠しながら待った。
行ったのはこの辺で一番大きい総合病院で、二年前まで不妊治療でお世話になった病院。あの頃は定期的にきていたのに不思議な気持ちだった。
やっと順番がまわってきて、診察をしてもらってカルテとにらめっこする医者に今まで浮かびもしなかった不安がよぎった。

「あの、もしかして何か…」
「いえ、そうじゃないんですが、とりあえず産婦人科にも行ってもらえますか」

伝達表を渡されて、診察室を出されしぶしぶ産婦人科に向かう。
既に二年たっているから不妊治療が原因という事はないと思っていたが、不安だけを握りしめて重い足を動かした。そこで待っていたのは誰も予想しない言葉。

「次屋さん、おめでとうございます。妊娠されてますよ」

言われた時、その言葉の意味がよくわからなかった。
だってそうだろう。望んでも望んでも手に入らず、苦しんだ。あたしも、そして三之助も。何度も何度も医師の顔と自分の腹部に視線を往復させて、起こった事実を確認する。すると医師はこれから頑張りましょうね、と柔らかい笑顔をあたしに向けた。
診察室から出ても、浮き足立って事実がまだ空をまっていた。出口に歩きながら、三之助の顔が浮かぶ。病院内だからと電源を切っていた携帯をカバンから取り出して開くと、着信履歴が二桁になっていた。もちろん相手はたった一人なのだけれど。

病院の自動ドアの出入口をくぐり、発信ボタンを押した時だった。

「さくっ」

丁度出入口横のタクシー降り場から三之助が駆け出してきてた。出会った時からそうだけれど、こいつはどうしてこんなにタイミング良くあたしの前にあらわれるのだろうか。

「仕事終わって電話繋がらなかったから、まだ病院だと思ってきちゃった。どうだった?大丈夫だった?先生なんって言ってた?」

めずらしく饒舌な口が次から次へと投げかけられる言葉を人事みたいに聞きながらも、本当に自分が愛されている事を実感していた。空いた手を自分の腹部にあてる。まだなんの感触もないけれど、確かにそこにもう一人の存在がある。
この惜しみない愛情をこれからはわたしだけのものじゃなくなるのか、と逆に冷静さを失った瞳を覗きながら今更寂しさを感じると、溢れ出したのは涙だった。

「さ、さく」

慌てる三之助の手が二人の間で行き場に困っている。その両の手をまとめて握り占めると目が会う。

「赤ちゃん、」
「え」
「赤ちゃん出来たって」
「………誰の…」

瞬きを繰り返す瞳に涙笑顔で答える。
三之助とあたしの―

「赤ちゃん。ここにいんだよ」

あたしが目線を下ろせば、ついて下ろされる目線。いつも重たそうな瞼が大きくこれでもかというほどに開かれて、もう一度あたしを見る。

「俺、父親になるの」
「そうだね」
「さくは母親になる」
「うん」

一音一音が丁寧に紡がれる確かめる質問に相槌をうっていけば、だんだんと地に足がつきはじめる。
連なって思い浮かべたのは今までの二人の日々。子どもが欲しいと言った自分、もう少し待ってと言った三之助、三之助似の男の子が欲しいといったあたしに女の子ならさくに似た子がいいと言った三之助、いつまでもカッコイイ父親でいたいと言った三之助、妊娠出来ない時期に大丈夫と言ってくれた三之助、泣きながら初めてあたしを叱った三之助、全部全部この日の為にあった出来事。
時に辛くて、甘くて、それでも諦められなくて、何度も握りしめて痛みも喜びも分かち合った手が熱い。

「さく、ぎゅってしたい」
「…病院の前だからダメ」
「じゃ早く帰ろう」

そう言って握り締められた手は、初めて手を握った時のぎこちなさをあたしに思い出させた。三之助の後ろ姿に浮かぶのはあたししか聞こえない、幸せの尻尾の音。

パタパタ。

ふさふさの大きな尻尾が揺らぐ、それは三之助が嬉しい時にあらわれてさながら人懐っこい大型犬のよう。



そしてそれは今も変わらない。
玄関からする人の気配と音は、この家の主人。出迎えたい気持ちに心地よさが邪魔をして一歩も動けない。ふわりと浮かべた日々も両手に余るほど幸せで重みをましている原因なのだろう。瞼さえも開けるのを嫌がる。

「たーだい、」

言いかけられた言葉は途中で飲み込まれ、ゆっくりとした足音が近づく気配。
そして、重い重い瞼に優しい魔法をかけられれば、不思議と瞳はその主を映す。だんだんと形をはっきりとさせていき、微笑みがあたしを見下ろしていた。

「ただいま」
「ん、おかえり」
「…この会話も少しの間お預けか」
「ちゃんとお留守番しててよ」
「わかってるよ」

あたしの大きな腹にいるのは三つの命。
あの後定期健診に行き、次々に顔を出した命は、最終的に三つ子という事が判明した。ここにきて自然妊娠で三つ子だなんて、待ったおかげでいっぺんにきたのかな、とか、もしかしたら父親に似て迷子グセでも授かって遅れてきちゃったのか、とかいろんな思いを浮かばせた。
そして三日後にはあたしは病院へ入院する。
三つ子なことはとても嬉しいが、それ相応のリスクを伴う。それはだんだんと大きくなっていくお腹の重さで理解でき、必ず三人共をこの両手で抱く為の最大の準備。

「大丈夫」

両腕があたしを後ろから抱きしめる。この両腕に何度も何度も救われてきた。
全部受け止められる、と両腕を広げた若き日の三之助の姿が浮かんで、笑いが溢れる。

「なぁに」
「思い出し笑い」
「えーなに思い出したの」
「昔の三之助」
「俺、かっこいいとこしかないはずなんだけど」
「それはどうかなー」

ごまかし変わりにからかうと、何を勘違いしたのか三之助は、わかったと言って目の前にやってくる。そしてその両腕をあたしの背中と膝裏に差し込こむ。

「ちょっと、」
「動くと危ないよっ、と」

元から痩せているわけではないけれど、むしろ今の体重はその比ではない。それでも足先が宙に受けば、頼りになるのは三之助だけで自然とその首に腕を回す。

「ほら、俺かっこいいでしょ」

にっこりと笑う三之助に、言葉をなくす。そして彼は言う。

「大丈夫、俺はいつだって全部受け止める準備してるから」

三つ子だと知った三之助が実家のスポーツジムに頻繁に通うようになった事は知っていた。三人いっぺんにだっこしてやるんだ、と子供みたいに言ってたけれど本当にここまでするとは正直思ってなかった。心と身体はひとつ、特に体育系の家庭で育った三之助はそういう意味でも体を鍛えるという事が直接心を鍛える事なのだろう。
もう見飽きるほどに見合った顔だというのに、また違った表情を浮かべた三之助にこれが父親の顔で、あたしだけじゃ知らなかった顔なのかな、と目を細める。
夢に見た光景がもうすぐ目先にある。どうかどうかこの幸せが瞼閉じても覚めない夢でありますように、あたしは三之助を抱きしめた。


「白昼夢のうたた」


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