『102』の数字が記された扉の中は、一つの家具もなかった。換気口が天井に取り付けられただけの、壁と床のみで構成された四角い空間だ。
 頭上を見回しても映像電伝虫は見当たらない。まさか当初から後ろ暗い事を行う為の部屋として造られた訳はないだろうが、以前の使途すら読み取れない程に殺風景な部屋である。

 壁際まで歩み寄ってしゃがみこみ、"男"を降ろして紐も解く。ばらばらと無作為に散らばったパーツの中で、口の部分だけが上手い事横倒しにならずに着地した。

「あのー……」
「…何か、っむ!?」

 上着のポケットを探り、指先が触れた小さな丸い包みを取り出して包装紙を剥がすと呼びかけ、唇が開いたタイミングで口の中目掛けて中身を放る。
 男の目玉はあらぬ方向を向いているので制止される事も予め口を閉ざされる事もなく、仄かに甘い匂いを放つそれは無事に舌の上へ乗った。

「貴方に馴染みのある味か判りませんが、お菓子の一種です。外に在る貴方の身体を直接癒せる訳ではありませんけど…取り敢えず、食べないよりマシなのは確かですよ」
「…………」

 氷の土地における日々の天候は基本的に変わらないとは言え、自然の力は脅威だ。ローの位置交換能力と俺の体力回復能力があれば雪山で遭難する確率は低いと思えるも、油断してしまうのは良くない。
 念の為、と外出の際には万が一に備えて個包装のチョコレートを持つようにしていたが、こんな場面で開封する事になるとは思わなかった。

 本人には言わないが、身体を分断した挙げ句に首から下を過酷な環境下へ放置する事に対するささやかな、本当にささやかな詫びだ。何が理由か知らないが単身パンクハザードに乗り込めばこうなってしまっても致し方ない、という気持ちと、ただ単純な罪悪感による。あんな薄着では寒風も熱気もそれぞれ辛いに違いない。

 けれどこうでもしないと、男が電伝虫を隠し持っていて海軍に通報されでもしたなら、ローにとって思わしくない事態になっていた。本来は"政府関係者"の枠に含まれる俺達もこの島へ上陸してはならないところを、近海に巡視船が居ないのをいい事に侵入したのだ。

 反射的に噛んだ上そう大きくもないので直ぐに咥内で溶けたのか、男の口がチョコレートを吐き出す事はなく数秒が過ぎる。
 他にも飲食物を与えて良いかどうかはそれこそ本当にシーザーへ判断を求めないとならないし俺が出来るのは此処までだ。恐らくはシーザーが氷の土地へ定住して以降、初めて明確な敵意と目的を伴って上陸した人間なので、航路の確認含め尋問の為に暫く生かしはするだろう。

「現時点で貴方を殺せとは言われていません。もし首から下の状態がいよいよ危ういと感じたら、声を出して人を呼んでください」

 一言添えてから立ち上がる。この部屋の扉が防音仕様であるなら無意味な台詞になってしまうが、余所の島と比べて科学技術の発展が著しいパンクハザードの研究所であっても、拷問専用部屋でもない所にまでそんな加工は施していないだろうと楽観視するしかない。捕虜の監禁環境についてあれこれ詮索しては怪しまれそうだ。

「───子供を。見かけなんだか」

 ぽつん、と。
 何もない室内に落とされた、呟きと言うにもか細い声と、語られた内容の異様さに思わず振り返る。

 床に散らばる男の両目は閉じられ、唇が心なし震えていた。

「……子供、と、言いましたか?」
「ああ。拙者の、倅にござる。年の頃は八」
「…申し訳ないが、俺はワノ国の言葉にあまり詳しくない。せがれ、というのは息子って意味ですか」
「左様」

 カマかけのつもりでワノ国の名前を出したが、男はあっさり頷いた。

「…………此処に滞在して、もう何ヶ月も経ちますが…子供と呼べる年齢の人間は今日まで見た事がありません。諸事情で住人全員と顔を合わせる機会があったので間違いない」

 あまりに脈絡の無い話に、驚くというより戸惑う。
 この島に子供など居る訳がない。子供、という単語がパンクハザードと結びつきようがないと言っても良い。そもそもこの土地へ用のある人間自体が居ない筈だ。何より、凍える事の無い身体を持つモネが、鳥の翼を手に入れて以降は上空からの見回りを日課にしている。

 上陸の理由が弱味にもなる、と言った男の発言が漸く理解出来た。住人を斬り伏せた男が正直に息子を探しに来たと話しても、もしも此方が本当に漂着した子供を発見し保護していたなら、その息子が脅しや報復の材料に使われていた可能性が高い。
 あの場ではとても俺に明かせやしなかったのも無理はない話だ。侵入者と見るなり襲ってくる獣の下半身を持った敵と対峙して、尚更自分一人で我が子を助けねばと気負ったのだろう。

「まさか貴方、お子さんを探しに此処へ? 近海で遭難でもされたんですか」
「いや、……いや、良い。今の拙者には、出来る事があまりに少ない。………あまりに……!」

 何処か湿った響きさえ伴って聞こえる男の掠れ声に、何とも居たたまれない気持ちになる。いよいよ身動きが取れなくなる自分の現状を憂いて、葛藤の末に俺へ問いかけたのだろうか。

 不運に見舞われ、何も知らずに身一つで息子の無事だけを案じて乗り込んできた男の今の心中を思うと、男が五体満足だった時に無理にでも事情を吐かせれば良かったとさえ思った。そうすれば顔を隠せる防護服でも貸し与えて、恐らく施設内を捜索する手伝いぐらいはしてやれた。
 後味が、悪い。

「……俺も部外者と言うか、この島には用があって訪れただけなので、もし誰かが小さな子供を見つけてもその情報が伝達されるかは分かりませんが……気にはしてみます。あまり期待し過ぎないで欲しいですし、雪原の中を捜すのは流石に難しいですけど」
「…………!」

 身体がこんな有り様でなければ、男は恐らく顔を上げる仕種をしたのだろう。両目が丸く見開かれ、口はもごもごと動いて言葉を探している。
 その見た目はホラーでしかないが、男の目が疑心と希望の狭間で揺らいでいるのは分かった。黙って調査した方が良かったかもしれないが、言ってしまったものは仕方がない。

 俺に協力出来るのも、本当にただ周りを気にするというところまでになる。自分が怪しまれる訳にはいかないので、歩き回れる範囲内に目を配り、或いはオーラを使って聞き取るなり嗅ぎ取るなりする程度だろう。

 不自然に唇を開け閉めしている男からもしも礼を言われたなら、きっと却って心苦しくなってしまう。この地にはあくまで今後の未来の為、ローの為に訪れたのだ。何かあった時に歩みが鈍りかねない要素は増やすべきでない。

「ウチの船長が貴方にした事を謝る事は出来ませんが……、……よりによって今この時期にこの島へ来てしまった事には、同情します」

 前に向き直って扉をくぐり、後ろ手に取っ手を引いて閉めてから、手中の鍵を見下ろして溜め息を吐いた。親の顔をした人の眼というものは、どうにも心の端に刺さる。

 



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