「俺は十歳の頃、治療法も延命法も、確立どころか研究すらされていない病に侵された。…少なくとも十三歳前後には、本当は死ぬ筈だった。だが俺を殺すのは病であっても、故郷と、……家族を殺したのは、人間だった」

 とても静かに、声が並べられてゆく。

「感染力のねェ病気を伝染性のものだと断じた政府の手による虐殺に遭ってな。せめて息絶える前にこの世界の一片でも壊したくて、当時はまだ一海賊だったドンキホーテ・ドフラミンゴが率いる海賊団に加わった。暴虐ぶりが有名な連中の元なら手っ取り早く力が得られると踏んでいた」

 何を思ってローは自分の愛刀を眺めているのか、横顔から汲み取る事は難しい。
 まるで本を読み上げるかのように語られる事実がローの中に沈着するまでどんなに己の感情に息を詰まらせたか、記憶に苛まれたか、俺が想像してみる事さえ浅薄な行為に思える。

 ただ耳を貸し、意識を傾ける事しか出来ない。次々与えられる情報を飲み込むだけで今の俺には精一杯だ。

「昔、俺にも両親と妹が居た」
 ローからそう聞いたのはもう一年以上前だ。マリンフォードからルフィとジンベエを連れて逃走する最中、ふと俺の過去や両親について話が及んだ折に初めてローの過去の一端が覗けた。
 それ以来お互いに自分の経歴や軌跡について話す場面はなく、またその機会を能動的に作る必要性も感じなかったが故に今日までを過ごしてきた。もし口を割るべき時が来たなら、ローが相手であれば俺は今更迷わないと自分で分かっていたからだ。

 対してロー自身の話は何も根掘り葉掘り聞き出そうとは思っていない。出逢った時点で既に無法者であった上、その後世間的にはローが悪人だと理解した上で本人の人柄に惹かれて着いて来たのだ。
 尊敬している人の過去が一切気にならないのかと言えば即座には頷けないが、全部を暴いて俺に見せろという欲を抱く程ではない。

 だからこそなのか、何等心構えをしていない状態で突如明かされた昔話は、俺の芯を存外揺さぶった。どんな相槌も軽く聴こえてしまいそうで唇が開けない。

「そのドンキホーテファミリーに入った事で、結果的にはこうして生き長らえた。…俺を外海に連れ出し、秘密裏に取引されていたオペオペの実を奪取し、それを俺に食わせて。──最期まで俺を庇って実兄に殺された、ドフラミンゴの弟コラソンのお蔭だ。あの人が文字通り命と引き換えに手に入れてくれた悪魔の実が在ったから、俺は今も呼吸が出来ている。海に出なきゃ知る事のなかった景色を見られている。…刀を、握れている」

 俺が無遠慮に向けている視線は当然感じているだろう。それでも時折瞬きを繰り返しながら鬼哭を見つめて其処まで言い終えたローが、不意に首を動かして瞳の焦点を俺へ合わせた。

「クルーの奴等にも、お前にも、逢えた」

 とても小さな声だった。けれども他に音を生む物の無いこの部屋ではよく聴こえる声だった。

 ローは少しだけ、微笑んでいる。口角を吊り上げる見慣れた笑い方ではあるが、俺を映す双眸が何か眩しいものでも見るように薄く細められる仕種がやけに珍しく感じる。

 幾分乾いた舌は依然動きそうにない。自分の生を肯定的に捉えた台詞を紡いだローに対して、彼の過去だけを思って可哀想だの大変だっただの、そんな言葉だけは渡したくなかった。
 辛かったろう頑張ったのだろうと情を寄せる事は簡単だが、もしもローが慰めを欲しているのなら、己がいかに苦労と努力を重ねたか語ろうとする筈だ。恐らくそんな会話を交わしたい訳ではない。

 ふと、ローの目線が俺の持つ書類へ落ちる。

「決して、コラさんが与えてくれた命を粗末にしてェとは思っちゃいねェ。だがドフラミンゴが確固たる地位を得て富を築き、噂じゃ世の中を混乱に陥れ得るビジネスを拡大させてほくそ笑んでいるこの世界でただ漫然と息をして過ごすのは、……俺自身に腹が立つ。時間はかかったが漸く此処まで来た。"七武海"の座を、手に入れた。アイツの喉元に刃が届くかもしれねェ所まで」

 やや低くなった声色で話を続けるローの唇が、結ばれる。
 途端生じる無音の間に併せ、堅くもなければ柔くもない、張ってこそいないが穏やかとは言い難い空気が酸素と一緒に俺の中に入り込んで、胸腔で膨らんで喉を詰まらせてきた。

 ローがこの話をしたのは、俺が他言しないと信用してくれての事だろう。皆に聞かせても構わない話ならば態々二人きりの場など拵えない。ただしローが何を言いたいのか未だ読めない現状では、その抜擢を嬉しがれない。

「近い内に、俺はこの船を離れるつもりで居る」
「………えっ……」

 考えるより先に一声漏れた。
 解散。離散。そんな単語が頭の中を占めるも、此方に一瞥をくれたローはと言えば俺の顔を見て短く吐息を零しつつ笑って見せる。

「何つう顔してんだ…この海賊団そのものを無くすって意味じゃねェよ。ゆくゆくドフラミンゴを潰す準備の為に、俺が別行動を取るだけだ」

 どうして急にそんな事を、と言おうと息を吸って、しかし実際には言えなかった。

 ローにしてみれば、急に思い立った事ではないのだろう。寧ろ長らく案を練って、考える事を繰り返して組み立てた予定を実行し、現実にする段階まで事態が進んだからこそ、今こういった話がされているのだと考えた方が自然だ。

 ローがこれから何を為すつもりなのかは解らない。
 ただ、行ってしまうのか。一人で。

 不満より悔しさより驚きより、寂しさが先に来た。
 ローが"七武海"に入ると宣言した時は俺を含めて皆が驚いたし、肩書きが潜水艦の補強や設備充実の為の資金稼ぎの口実に使えるからと言われて今度は笑えて、そんな理由を挙げてしまえるローもいつものように愉しそうで悪そうな笑みを湛えていた。こんな未来がやってくるなどとどうして想像出来ただろうか。

 顔を見ていられなくて、視線の位置を下げる。波打つシーツの皺と、其処に置かれた俺よりも少し大きい手が視界に入って────その掌が、ゆっくり目の前に伸ばされた。

「アルト」

 資料を寄越せという言外の指示かもしれないが、俺はもう書類を読んでいないし、それが分かっているローなら黙って持って行きそうなものである。そもそも片手は書類の上を通り越して差し出されているのでローの言わんとしている事は不明だ。

「お前が要る。俺と来い」

 何かに引っ張られるかのように視線が上向いた。

 ローは二の句を継がない。つい先刻揺らいでいた灰色の瞳はもう、静かに瞬くばかりだった。

 命じる口調と、空いた手。
 ローなりの譲歩だろうか。
 それとも無意識だろうか。
 或いは再現だろうか。

 俺をハートの海賊団に誘った時もローはこうして手を伸べて、命令しながらも選択の余地をくれた。

「──はい、」

 重ねた体温に、ローが細く、細く、息を吐いた。
 今回ばかりはありがとうを言うべきではないかもしれないと、俺は反対に唇を閉じた。

 それからどうしようもない嬉しさが自分の眼に浮かぶ前にと、瞼を伏せた。

 ローの為に何かを惜しむ気の無い俺の選択が、ローを喜ばせるとは限らない。
 嘗て己とローの優先順位を等しくしろと言われた俺が、今では"誰より"ローを大事にしたい事を、出来れば知らずに居て欲しい。



 



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