ぼふん、と篭った音を立ててベッドへ上半身を倒れ込ませる。ひやりとしたシーツの肌触りが頬に心地好い。
 床に座った儘突っ伏すように上体を投げ出して両腕も前に伸ばしながら一息つくと、施錠していない背後の扉が開く気配がした。

「何でそんな半端な体勢になってんだ、怠いなら上がれ」
「いいよー風呂まだだから着替えてないし」

 ローの言葉にやんわり遠慮しつつ顔を上げ、火照りの治まってきた頬を手で扇ぐ。ローもそれ以上は言い募らずに俺の隣まで足を進めて靴を脱ぎ、膝からベッド上に上がると壁に寄りかかる形で腰を降ろす。

 その手が紙の束を無言で此方へ渡してきた。片手で受け取り、肘を支えに上体も起こして一番上の紙面へ視線を落とせば、『七武海加盟に伴い発生する義務と権利』との表題が在る。

「此処で読んでおけ。そんなモン持ってうろついてりゃアイツ等が騒ぐ元になる」
「それだけローの"七武海"入りが嬉しいんだよ。実際に政府に心身捧げる訳じゃないの皆解ってるし、ローの実力が政府に公認されたって事ではしゃいでるんだからさ」

 無事に"七武海"への加入を果たしたローと俺が戻ってから、潜水艦内はお祭り騒ぎだった。
 昼過ぎに始まった宴会が夜の二十二時になろうとしている今も続き、料理を作り続けている厨房陣も今回ばかりは途切れない注文を止めさせようとしない。

 普段は飲酒量をきちんとセーブしているペンギンもがジョッキを何杯とお代わりして、大半がローの躍進に浮かれ通しだ。クルー達一同が集結したお蔭で食堂の熱気は結構なもので、酒を飲んでいない俺さえうっすら汗ばむぐらいに賑々しかった。

 その宴の最中にローから「船長室に来い」と耳打ちされた為暖かな喧騒を脱け出してきたのだが、こうして静かな空間に身体を落ち着かせると、今まで全く感じていなかった筈の疲労が急に身体全体を覆ってきた。敵陣での拘留生活は俺が自覚しているより気疲れも溜まったのかもしれない。
 引き続き楽な姿勢を取らせて貰いながら、書類の最初のページを捲る。

 "政府直属王下七武海──以下"七武海"とする──の加入から除名までの期間中、加盟者の懸賞金は増額が停止され、実質取り下げられるものとし、手配書の発行及び配布を中止する。加盟者の部下に賞金首が存在する場合もこの恩赦は適用される。"
 "王下の名の下、海軍が関わる有事或いは紛争において加盟者は政府側戦力に数えられる。召集に際し非協力的である場合、称号剥奪または投獄等々の措置が取られる事を、加盟者は加入時点で承知したものとする。"
 "海賊を始めとする犯罪行為を働いた人物、団体、組織を相手取った場合に限り、物資並びに金品の略奪を許可する。また、交戦に際し相手の生死は不問とする。但し、故意的に生かす場合は対象の身柄を近辺の支部または駐屯所へ極力移送すべし。"
 "階級並びに役職を問わず、海軍に在籍し勤務する全ての軍関係者への加害行為を禁ずる。これを破り、また程度が悪質であった場合は協定違反と見なし、加盟者の同意無く七武海の称号剥奪を決定出来るものとする。加害に至った原因において当軍に明確な非が認められた場合はその限りではない。"
 "以上の権限は、加盟者の加入が新聞にて報じられてから半日後より有効となる。"

「…何だかこっちの手間や苦労が多くない?」
「お尋ね者でなくなるだけ有難ェと思えって事だろ。四六時中動向を監視される訳でもねェし、年間の戦利品の何割かを渡してりゃ多少暴れようが黙認される節が在る。でなきゃ商戦も軍艦も無差別に沈めた経歴のある女帝屋が今も現職で居るのは可笑しいしな」

 書き連ねられた事項の一部を黙読してから一言零すと、ローの声が然して思考の間を置くでもなく降ってきた。
 其処でふと、ローから一切酒の香りがしない事に気が付く。

 宴会には主役であるローも勿論参加していた。席が離れていたので食事の様子はあまり見ていなかったが、全く呑まなかったのなら意外だ。
 スモーカーの話とこの書類から考えるに明日の夜、朝刊がニュース・クーで配られてから半日経たなければローは公的に"七武海"の身とはならない為、今夜一杯は襲撃を警戒するのだろうか。

 折角だ、祝い酒代わりにブランデー入りの紅茶でも用意しようかと顔を上げる。
 けれども此方を静かに見下ろしているローの双眸と視線が絡んで、見るというよりは見つめると表現した方が合っている眼差しに思わず窺うように首を傾げた。

 こんな表情を浮かべたローは、記憶に居ない気がする。

 目は口ほどに物を言うとは云われるし、確かに時には雄弁であると俺も思うが、当人の思考が覗ける訳ではない。
 澄んだグレーの虹彩が小刻みに揺らぐ様は珍しく、照明が映り込めば灼けて見えるそれが今は翳っている事も、違和感を感じさせる一因となっていた。瞳を逸らすどころか、何だか瞬きも躊躇われる。

「アルト」
「ん?」
「お前は、特定の個人を殺したいと本気で思った事があるか」

 脈絡など一切無い問いだった。
 薄い唇から紡がれた言葉を耳に入れ、頭の中で砕いて内側に染み込ませてから二回だけ首を横に振る。
 俺が何を尋ねられたのかは分かったが、俺に何を訊きたいのかは解らない。

「俺はある。今年で丁度半生、思い続けている」

 最初に聞いた瞬間は、単なる音の羅列としてしか捉えられなかった。今しがたローが並べた言の葉を脳裏でもう一度繰り返す。

 ローはある。何を。誰か個人に対して明確な殺意を抱いた事をだ。

 内腑にまで溶けたローの声が、まるで身体の奥で細い薄氷に変化したかのように、胃の裏側が冷える錯覚。
 とても静かな凪いだ目で俺を見ているローの内側で殺意が飼われていると本人から言われても、直ぐには信じられずに黙してしまう。

 反応を返せない俺を眺めたローは表情に何を過らせるでもなしに一旦伏し目がちに手元か何処かを見遣り、次に顔を傾けてベッドへ立てかけられている鬼哭に視線を向けた。

 



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