フロント係から伝達を受けた三十分後、数時間前に別れたばかりのケビンが、母親であろう女性にしっかり腕を捕まれて連行されてきた。
 気まずいのか未だ拗ねているのか顔を横に背けているケビンと異なり、部屋に入るなり俺と目が合った母親は細く息を飲んで口元に手をやると、狼狽も露に互いの間へケビンを引っ張り出した。

「…ケビン、本当に何て事をしたの貴方! 早く元に戻しなさい!」

 恐らく母親は俺の姿を見るまではホテルスタッフからの連絡に対して何処か半信半疑でもあって、けれども本当の事だとしたらと此処へ到着する前に既にケビンを叱っていたのかもしれない。
 ケビンが反抗する様子も無く、やはりむすくれた表情は変わらないながら俺に向かって片手を振ると、獣に変化させられた時と同様に鈍い破裂音に似た音を伴って俺の周囲の景色が真っ白な煙で占められた。

 直後、ふと視界が左右にぶれる。かと思うと身体が少し浮くような、縛られていた手足を広げたような奇妙な解放感を感じて、一秒後にはその場に尻餅をついていた。

「痛って! っ…あ、……戻った」

 片手の五指が床を捉える感触と視界の脇に在る黒髪、何より鼓膜を揺らした自分の声に多少の痛みなど直ぐに引いて、胸元を見下ろし五体満足な身体を視認する。きちんと人間に戻れた事は勿論だが、変化する前と変わらず服を着ていた事に思わず深い安堵の息を吐いた。

「ああ、本当にもう、何てお詫び申し上げたら良いのか……! まさか息子が人様に向かって癇癪で力を使ってしまうだなんて思いもよらなくて。今までそんな事はしなかったから、と言い聞かせの足りなかった私と主人にも落ち度があります。本当にごめんなさいね…」

 仮にも単なる裕福な立場というだけでなくこの島に住む人々を束ねる責任も夫と共に負っているだろうに、婦人が躊躇いもなく床に膝をついて、窺うように俺の顔を覗き込んでくる。未だ三十代の半ばから後半ぐらいの年齢に見える、品の良い顔立ちの美人だ。

「いえ。此方も褒められたものでない生業故に子供と接する機会が少なくて、なかなか巧く対応が出来なかった部分はありましたので、どうかあまりお気になさらず。無法者と知りながら人の姿に戻して頂けただけでも有難いです」
「貴方の身分は関係ありませんわ。息子の理不尽な悪戯で一人の方の人生を狂わせるだなんて、とんでもない事です。そんな風に許してくださって、お礼を言うべきは此方よ。生憎主人が今は隣町へ予算案の会議に赴いてしまっているので、揃ってお訪ね出来ませんでしたけど……後程改めて伺いますね」
「いやいや、奥様のお気持ちだけでもう充分ですよ!」

 言われてみれば確かに俺が一生元に戻れなかったらと考えると背筋の凍る思いだが、無事に解決した今となっては最早たらればの仮定話である。悪戯にしては流石に度が過ぎているもののケビンを責め立ててやろうという気にはならない。
 ケビンが出来れば今回の件を自分なりに後悔して、その上で反省して、自分の能力の特徴と性質が何たるかを今一度考えて、俺が最初で最後の被害者であるように今後を生きてくれたらそれで良い。

 殆ど勢いと言うか感情任せに能力を使った事に子供ながら罪悪感が在るのか、若しくは俺やローの対応が尾を引いているのか、ケビンは床に視線を落として俺の方を見ようとしない。
 いつまでも床に座り込む訳にもいかないので腰を上げ、膝は伸ばさずケビンの前にしゃがみ直すと、子供特有の薄い肩が僅かに揺れた。瞳だけが少し動いて此方の腹辺りに目線が置かれるが、やはり互いの視線は交差しない。

「なあケビン。海賊をさ、嫌わないでくれてるの嬉しいよ。だけど君が海賊になるなら、その先ほぼ一生嫌われ者として過ごす事になるんだ。それでも良いの?」
「…何で? 兄ちゃんも、そっちの帽子の兄ちゃんも、この島のお姉さん達好きだって…」
「んー…まあ、中にはそう言ってくれる人も居るけど。でもね、もしケビンが何一つ悪い事してなくても、海賊旗を掲げて自分は海賊だーって名乗ったら、ケビンの事を百人中九十九人は悪い奴だと決め付けるんだよ。何処に行っても何をしてもずーっとそう。海賊辞めない限りは、君が死ぬまでずっとだ。それでも海賊やりたい?」

 成る程、もしかするとローに好意を示す女性達を目の当たりにして憧れや自己顕示欲を募らせた部分も在ったのかもしれない。この位の年頃は大多数とは違う生き方を羨ましがる所もある。

 俺の発言が恐らく理想と違った上に、此方の話を想像してみて素直に嫌だと思ったのだろう。ケビンは問い掛けに対して即座に首を横に振った。
 かと思うと不意に顔を上げて、ホテルへ来てから初めてまともに俺の顔を見る。

「じゃあどうして、兄ちゃんは海賊やってんの?」
「この帽子のお兄さんが、なるべく嫌な思いや辛い思いをしない為の手伝いをしたいからだよ。ケビンにはそういう手伝いしたいなあって人、居る?」

 出来れば護りたい、と言ってしまいたかったが、臆面無くそう発言するには俺とローが関わって日が浅い気もするので言い方を変えた。仲間ではあるのだが、ローは"船長"だ。有事の際背に庇われるのは俺なのだろう。
 尋ねた言葉にケビンは何度か瞬きをして、それから胸元で自分の肩の上を指す仕種をした。その細い指が向く方向、斜め後ろには母親が会話の流れを案じるように若干心配そうな表情で此方を見つめている。思春期も相俟ってはっきり答えるのが恥ずかしいようだが何とも親想いな少年だ。

「そう。なら、海賊やってる場合じゃないよな?」

 きちんと視線が絡む。少し茶化した風合いで笑いながら言葉を重ねると、ケビンは無言で大きく一度頷いた。

「兄ちゃん、ごめん」

 次の瞬間にはそう言って頭を下げたケビンの姿勢があまりに綺麗な直角のお辞儀で、何だかんだと教育の行き届いている良い子供だとつい笑ってしまった為に脛に蹴りを喰らったのは余談だ。「纏」状態だったのでノーダメージである。











 ホテルの玄関外まで見送りに出向き、何度も会釈を繰り返す母親と一度だけ手を振ったきり振り返らないケビンの後ろ姿が街中の雑踏へと消えた折。急に右肩へ重みを感じて隣を見れば、ローが俺の肩を肘置き代わりにしていた。身長差が丁度良いらしくしばしば同じ事をされる。

「やっぱりこっちの方が楽だな」
「俺に負荷掛かってますけど」
「人間に戻った時、もしかするとお前が全裸なんじゃねェかと密かに危ぶんでた」
「あ、俺もそれ考えた。良かったよ、奥様に視覚の暴力振るう羽目にならなくて…」

 ローは割と遠慮せずに体重を掛けてくるので、ふらつかないように多少踏ん張る事にも慣れた。
 こうして同じ言葉を喋る事も自らの四肢で闘う事も、誰かの為に料理を作る事も叶う人間という種族に生まれた現実と事実が、今はやけに有難く感じる。

「明日の昼飯リクエストある?」
「お前が作るモンならパン料理でなけりゃ何でも良い」
「うん、嬉しいけど困るパターンの回答」

 先程「手伝いたい」と零した俺に、ローは「その必要はねェ」とも「護るのは俺の役目だ」とも「当然だ」とも言わなかった。それで充分だった。

 俺がローの為に作った料理を欠片も残さず食べてくれるように、俺がローに向けて差し出す言葉もローは余さず飲み込んでくれる。それが下手に優しくされるより余程嬉しい。
 俺もまた、ローの言葉が柔らかくても苦くても、先ずは飲み込める"人間"で居たい。


 

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