熱したフライパンへ液体を注いだ時の、ジュワァッ、という音が何度も聞こえてくる。

 これは厚焼き玉子か何かかと見当をつけてキッチンに行く。
 予想は当たりで、丁度ぽってりと分厚い卵焼きがまな板へ乗ったところだった。

 全体から湯気を昇らせているそれに包丁が入るのを眺めていると、細く切り取られた両端の片方をアルトが包丁で押して寄越す。
 つまんで口に運べば卵の甘みと鰹だしが染み出し、歯を立てるとシャキシャキとした葱の歯ごたえが食感を変える。小海老も入っていて香ばしさが後を引き、あっさりした味付けながら酒に合いそうだ。

「味薄い?」
「いや。丁度いい」
「良かった」

 出汁巻き玉子が盛られた皿を持ってリビングへ戻ったと同時、廊下に続く扉が開いた。

「さっぱりした! アルトのシャンプー借りたが、これ良い匂いするな」
「苦手な香りじゃなかったなら良かった。テーブルに軽めのもの出してあるから先つまんでて」
「お、そんじゃあお言葉に甘えて……」

 シャワーを浴びたエースが箸を持って俺の斜向かいに座る。
 十秒と間を空けずアルトがエースの分である缶ビール、グラス、イカの刺身に明太子と刻んだ大葉を和えた小鉢を置きに来た。

「グラス冷えてる! スゲーな、居酒屋だって態々冷やしてるとこそんなにねェだろ……」
「先にこっち食っておけ。今出来たばかりだ」
「ん、卵焼きか? いただきます!」

 半分に割った出汁巻き卵へ何度か息を吹きかけて頬張ったエースの口角が、ほんの数回の咀嚼の後に勢いよく上を向いた。
 口を動かしながら手早く缶も開けて琥珀色の中身をグラスへ注ぎ、それを呷る傍ら手は止めずに和え物もつまんで口へ運ぶ。

 無言で肴を味わいつつ早々に一杯目のビールを飲み干したエースは、グラスから唇を離すなり深々と息を吐いて背後のキッチンへ顔を向けた。

「アルトお前、料理上手いな!? 特にこの卵焼きが美味ェ!」
「ありがとー、嬉しい」
「はー、空きっ腹に染みる……。家で呑む時いっつもこんな感じなのか? つまみアリ?」
「買ってきたモンで済ませる事もあるが、大抵はある」
「イイ暮らししてんなァ……」
「……そうだな」

 改めて思えば贅沢な話だ。仕事のスケジュールに合わせ酒を飲む日を予め決めている事で準備がしやすいのだとしても、アルトが肴を用意しなかった事など滅多にない。
 今日のような和え物やマリネなどを出す時は「簡単なものになっちゃったけど」と言う事も多いものの、態々食材を切って混ぜて味付けしているのだから立派な料理だ。

 俺がつまみを作る事もあれど頻度はアルトと比べものにならない。次の休みは少し値の張る惣菜でも奢るかと思いつつ箸を進めていると、視界の端でキッチンの電気が消えた。
 再びテーブルまでトレイを運んできたアルトが客人であるエースの前へ最初に丼を置き、自分も卓につく。

「美味そうだなー!」
「作ってから気付いたけど、卵ばっかりになっちゃった……」
「美味ェからいいんだよ。な、ロー」
「ああ」

 メインの食事を目にしたエースは分かりやすく表情を綻ばせ、箸と木匙を持ち替えたかと思えばビールで口の中をリセットしてと忙しない。

 今日の昼食は鶏の照り焼き丼のようだ。
 掬いやすいようにか一口大よりも更に小さく刻まれた皮付きの鶏肉が、照りのある赤茶色のタレをたっぷり纏っている。

 大きめに掬って口へ運ぶと、見た目以上に濃厚で甘辛い旨味が舌に広がった。胡椒だけではない香辛料の辛味も感じられる。
 米と肉の間には蒸した千切りキャベツが敷かれ、小葱もまんべんなく散らされて、それ等の甘さや香りのおかげで味が濃過ぎるとは感じない。蒸されてしんなりとしたキャベツが具によく絡む。

 中央に乗る温泉卵を割り、とろりと溢れてきた黄身と合わせて二口目を頬張る。味がまろやかに変化してこれはこれで美味い。

「うんめェ! なんか味噌と醤油のイイとこ取った感じがする」
「焼肉のタレ入れてるからかも。辛いの好きだったら七味足して」
「足してみる!」

 エースは時折七味唐辛子もかけつつ食べ進め、真っ先に完食した。

「はー、食った! ごちそうさん!」
「量足りた?」
「おう!」
「ジムの方はどうだったんだ」

 落ち着いた頃合いを見て尋ねる。

「久々に集中して筋トレ出来た、ありがとな。普段おれが使ってる器具も大体揃ってたし充分だ。あとウォーターサーバーの水がなんか美味かった」
「あれ週替わりで違う味になるんだよ」
「そうなのか!? 飲み放題ってだけでもスゲェと思ったけど、やっぱイイとこのマンションってそういうのも違ェんだな……、……その、アレだ。下世話な事訊いちまうが、家賃って結構するよな……?」
「明細見るか」
「良いのか……!?」
「別に見られて困るモンでもねェ。アルト」
「はいはい」

 アルトが暫しスマートフォンを操作した後、画面を半回転させてエースへ差し出す。

「冬だと水道代ガス代がもうちょっと増えるけど、大体これ位かな」
「う。やっぱこんぐらいはするか……」
「俺達は二人で生活費もギャラも折半してるから比較的余裕持ててる、っていうのはあるとは思う。でもこれ3LDKの家賃だから」
「ん、あーそうか、2LDKならこれよりは下がるし、二人暮らしだったらその半額か。そんで下のジムが今日の値段で年中使い放題、……こういう選択肢もあるってのを知っちまうと揺らぐな〜……。ジムの年会費バカにならねェし。似た設備の物件って他にもあんのかな」

 光熱費と家賃の明細が表示された画面を見下ろし、エースが己の顎を撫でさする。
 本人の住環境に大きく関わる事だ。エースの相談とも独白ともつかない発言には一先ず言及せずにいると、ややあってエースは両手で己の膝を打った。

「……よし!」

 次に何やら真面目な面持ちで自分のスマートフォンを手に取り、ものの数秒で耳に宛てがう。

「────サボ! おれと一緒に暮らそう! ……良いのか!? じゃあ物件探すの手伝ってくれねェか、ジム付きのとこ住みてェんだ!」
「二秒で話纏まってる……」
「お前も俺が前の家での居候頼んだ時は即答で受け入れてたぞ」
「断る必要も迷う理由もなかったもん」
「……明日『青葉堂』のサラダでも食うか」
「え、食べたい。どうしたの急に」
「何となくだ」

 丼の底に残った数粒の米も掬って胃に送る。

「美味かった」

 此処数日、この一言を毎食口に出してはいなかったとエースの態度を見て思い出した。
 アルトは料理が上手いが、頼まずとも手料理が出てくるのは当たり前ではない。

「……良かった」

 同居してもう二年になるというのに褒め言葉ひとつで唇の端を綻ばせる相方が居る事も、当たり前ではない。




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