ココンッ、という、急いた調子のノックが鳴る。「どうぞ」と一言返すより先に扉は開けられ、いつかと同じようにエースが顔を覗かせた。

「ロー、アルト、おれ達も二十一日にリュウフェス出るぞ!」
「あ、聞いた。デビューしたその年にフェスって凄いよ、おめでとう」
「もう知ってんのか!?」
「お前等が出演を承諾した時点で実行委員会から連絡が来てる」
「そりゃそうかァ……驚くかと思ったんだけどな」

 残念そうに唇を尖らせたエースは立ち去るでもなく楽屋に入ってくるでもなく、半端に開けたドアのノブを握ったままで居る。

「どうかした? 時間あるなら入って大丈夫だよ」
「いいのか? その、知恵借りてェっつーか何つーか……」

 この後に控えているのはラジオの収録なので俺もローも身支度は最低限で済む為、今は自由時間だ。テーブルに広げていたフェスで販売するグッズに関する書類を纏めて端へ寄せる。

「今日は単独の仕事?」
「マルコと一緒だ、ラジオ呼んで貰えてな。ユアチューブの『ルーキーズオンエア』ってやつ」
「ああ、生配信専門の。登録者数多いよね」

 先日共演した番組を機に、やはり『白ひげ』は露出が増えた。パワフルなプレイを見せてくれるドラマーが女性である事も話題になり、メンバーそれぞれが個性の異なる格好良さを備えていて若い世代を中心に人気を増している。
 今日の仕事にしても、リアルタイムでの視聴を逃してもアーカイブが残るインターネット配信番組への出演はファンに喜ばれやすいし、ラジオは一定の需要がある。

 暫くは何かと立て込むだろうな、と去年の自分達を思い返しつつ言葉を返すと、エースは弱ったような面持ちで頭を掻いた。

「仕事が増えるのは有難ェんだよ、勿論。色んな番組とか雑誌に声かけられる事も増えて、見て貰えてるっつーのか、メジャーデビューってこういう事かって思うし……メンバーも自分の楽器の専門誌からインタビューの依頼来たらしくて、グループだけじゃなく個人に注目されんのも嬉しい」

 そう言うエースの顔はどう見ても精彩に欠けている。

「……二人とも、外でファンに声かけられたらどうしてんだ? 食事中とか、こう、直ぐには動けねェような時」

 唐突に話が変わった。
 けれども後から足された具体的なシチュエーションで「もしや」が浮かぶ。

「街中でファンに絡まれるようになったか」
「……ジムに通ってるんだが、おれが居るって言うのが広まったみたいで新規入会する女の客が最近増えて、何かと話しかけられる……」
「…………お疲れ様……」

 ローの問いに返ってきた内容に、この一言しか出てこなかった。

 トレーニングジムは店によりけりだ。トレーナーとの相性、設備や雰囲気の好み、通いやすい立地かどうかなどを含め、自分に合った所を探すのは意外と骨が折れる。
 エースが現在のジムを気に入っているのであれば、悪気はないが遠慮もないファンの接触は困りものだろう。あわよくばを狙って芸能人が利用するジムを探すファンが居るとは聞いた事がある。

「俺もローも今は基本ウエイトコントロール目的で運動してるから、住んでるマンションの中にあるジムで事足りてて。他の人に話しかけられる事ってほぼないんだよ……」
「そうなのか……」

 POHと仮契約を結んでいた頃は会員制ジムに通っていたが、カクから「日頃のダンス練習で充分な運動量になるわい。筋肉をつけ過ぎると身体が重くなるし可動域にも影響が出るから自主トレは程々にな」と言われ、現状の体型維持に注力するなら事務所内の設備で不足はないと判断して退会した。
 ローも同時期に同じ決断をしており、引っ越すまではPOH事務所のトレーニングルームを使っていた為、エースと同じ状況になった事がない。

「お前以外のメンバーはどう躱してるか聞いたのか」
「ヤマトは親父がプロレスラーだから家に設備があるって言ってたな。マルコとイゾウが行ってんのは会費が高めのジムで、客は男女混合だけど一人ずつ専属トレーナーがつくから話しかけられたりはしねェって」
「トレーニング中イヤホンしておくのは? 知り合いのモデルの子が結構シャットアウト効果あるって言ってたけど」
「マルコにもそれ言われて、ワイヤレスの着けてんだ。でもずーっと聴いてると疲れてくるだろ。それで外した時とか、汗拭いたり水分摂るタイミングとかで、あのー、って声かけられちまって。初めはおれの事知ってる誰かが増えたってのがダイレクトに実感出来て嬉しかったんだが、もーちょいトレーニングに集中したくてよ……」

 エースは頬をテーブルへつけて突っ伏してしまった。
 少し動きを止める度に女性ファンが話しかけてくる。当然気が散るし、頻繁に視線を感じる状況は居心地の良いものでもない。

 だが一応はファン側にもエースの集中を妨げない最低限の配慮が見受けられるだけに、エース本人がジムへ相談しない限りはトレーナーも強く注意する事が難しそうではある。

「取り敢えずフェスに向けて体力増やしときたいのもあるし、筋トレ自体結構好きなんだ。汗かくとスッキリするんだよな。だからジムには行きたい……が、今のままだとちょっとなァ。かと言って家の中にマシン置ける余裕ねェし……」
「距離的に問題ねェなら、ウチのマンションのジム使うか」

 嘆くエースに向けてローが放った発言に、エースが勢い良く上体を起こした。

「いいのか!?」
「確か紹介制度みてェなのがあった筈だ」

 薄灰色の瞳が確認を取るかのように此方を見る。

「あー……そういえば入居の時にそんな説明受けたかも。住んでる人が申請すれば知り合いも利用可能みたいな……」

 今の今まですっかり忘れていた。
 マンション併設のジムは、基本的には住人専用の施設だ。住人なら利用回数に関係なく定額で利用出来て、料金も街中に店を構える各社と比較するとかなり安い。

 ただし入居者でなくとも住人の紹介と申請があれば同じ金額でジム内の各マシンを体験出来るサービスがあるので、興味がありそうな友人知人が居れば是非、と引っ越した当時に管理人から説明された事が薄ら思い出せる。

「回数だか期間だかに条件あったと思うんだけど、今詳しい事思い出せないや。帰ったら確認して連絡するね。ウォーターセブンの端の方なんだけど来られそう?」
「大丈夫だ! 助かる、ありがとう! ──ん、ヤベ、マルコから連絡来た。邪魔して悪い、連絡待ってるな!」
「生配信頑張って」
「おう! お前等も良かったら後でアーカイブ聴いてくれ!」
「勿論」

 訪れた時とは一転してにこやかさを取り戻したエースは小走りで楽屋を後にした。途端に室内が静けさで満たされたように感じる。

「あっ」
「何だ」
「肉と魚どっちが好きか聞けば良かった。どうせ来るならウチでご飯食べてって貰おうかと……ほら、駅の方までいかないとご飯屋さん無いじゃん」
「お前それ、子供が『家に友達呼ぶ』っつった時の母親の発想だぞ」
「誰が母親だ」




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