適度に温めた牛乳に、少し多めの蜂蜜。初めてハートの船へ乗った時にペンギンが振る舞ってくれた、このシンプルなホットミルクが、今や肌寒い夜のお供の定番であったりする。
 別世界へ転送されてしまった事に気付いて思考が混乱の只中にあった折に不思議と少し気持ちを落ち着かせてくれた飲み物なので、香りや味が記憶に影響して当時の安心感をも呼び起こすのかもしれない。

「しかし、良い隠れ蓑だな」
「だからこそこの儘、何事も起きなければ良いね」

 ペンギンと二人、火を消してもまだ湯気が薄く昇る鍋の前で天井を見上げる。戦争の主要人物たるルフィと"七武海"二名を乗せた潜水艦は今現在、ルフィの協力者だと言うイワンコフと名乗った男とその部下達が舵を取る軍艦の真下を泳いでいた。

 軍艦一隻を船そのものには全く損傷を与えず奪取したハンコックの手腕も、マリンフォードからちゃっかり同乗して来たというイワンコフ一行──「獄中生活も悪くはナッシブルけど、シャバの光は格別ね!」との発言は鼓膜を素通りさせた──の行動力も話を聞くだに驚いたが、ハンコックが自船との待ち合わせを取り付けたと知るやローが放った台詞にも驚いた。

「へェ。なら、"それ"は丁度良い盾になるな」

 ローが真顔で零したその言葉と視線を受け、盾イコール自分達の乗る軍艦だと察したイワンコフ等は表情で衝撃を訴えていた。
 確かに海軍船を海上で見かけたとして、その船底の下に小判鮫よろしく海賊船が並走しているとは誰も思わないだろうが、万が一軍と出会って兵士が石像に変えられている異常さに気付かれたなら交戦になる可能性が有る。石にされてしまった仲間の乗る船には海軍も砲弾を撃ち込みづらいかもしれないが、見逃しても貰えないだろう。

「まァでも、その案が今の段階では最良でしょうね。ヴァターシの最優先事項は麦わらボーイの援護だもの、適所かもしれないわ」

 言葉を包む為のオブラートを取り払ったローの物言いに、イワンコフがそう笑って応じてくれた時は心底安堵した。結果として目下問題なく航海を続けられているし、気持ちの面でも俺達はある程度ゆとりを持ってジンベエとルフィの介抱にあたる事が出来ている。

「じゃあおやすみ、ペンギンさん」
「ああ、ゆっくり休め」

 ふわふわと不規則に輪郭を変える湯気を引き連れたマグカップを片手に操舵室を出て、自分の部屋で睡眠を取るべく廊下を進む。
 歩行に併せて揺らぐホットミルクの表面を視界の端に入れつつ階段を下るも、踊り場に差しかかった所で中継階の廊下に人影を見つけて足を止めた。

 どうしようか、と若干迷う。
 特に足音を潜めていた訳でもない為向こうも俺の存在には気付いている筈だが、何等反応を示さないのだから関わる気は無いのだろう。ならば、と此方も無関心であったところで後々咎められもしない筈だとは思えど、見ない振りをするには引っかかるものがあった。

「…毛布でも、お持ち致しましょうか?」

 毛足の長い生地で仕立てられた暖かそうな上着を着ては居るが、床に座り込んでいる上に脚を崩した姿勢が故その上着が素肌の露な片脚を覆いきれていないハンコックにそう声をかけると、じっと手術室の扉を見つめていた黒い瞳が此方を向いた。

 一応の防寒着に加え、彼女の傍を離れようとしない大蛇がその四メートル以上はありそうな身をまるで椅子の背凭れのような形状に折り重ならせて器用にハンコックを寄りかからせてはいるものの、蛇は変温動物だ。鳥肌が立つ程冷えてはいなくとも半袖一枚で過ごすにはやや涼しい、そんな室温であるこのフロアにおいて暖の足しにはなりにくいだろう。

「構わぬ。そなたの意だけ汲もう」
「…ご無理はなさらないでくださいね」

 予想より柔らかな応答が返ったが、否の回答には思わず一言足してしまった。いつ頃から此処に居たのか判らないが、何時間もこうしていたなら確実に身体を冷やしてしまう。
 この儘転た寝をしてしまった場合も然りで、現状が本人の意思によるものであれ、一国の主を預かっておきながら廊下に放置して風邪をひかれでもしたならハンコックの部下や国民に顔を合わせづらい。ローなら自己責任だと言いそうであるし、その通りでもあるのだが、どうにも俺は相手が女性だと気を遣いがちだ。

 俺の言葉に一つ頷いたハンコックの目線は、直ぐ様眼前の扉へ向けられる。
 現在室内に居るのは昏睡状態のルフィとローのみで、彼女がルフィを案じてこの場に居る事は明白だが、こうも一心な様子を見ると妙な邪推も生まれてしまうというものだ。

「蛇姫様、あの、……」
「何じゃ。さっさと申せ」
「……大変不躾な事をお尋ねしますが、ルフィに…その、懸想されておられたり…?」

 好奇心と緊張とで言葉遣いが可笑しくなった気もするが一先ず言い切る。するとハンコックは先程と違って顔ごと此方を見遣り、暫し俺と目を合わせ続けたかと思うと伏し目がちに視線の交わりを絶った。

「…眼は節穴ではないようじゃな」

 これは肯定と解釈しても構わないだろう。三度ハンコックが顔の向きを戻すが、その白い頬も耳も淡く色付いている。
 あれだけ皆に絶世の美女だと口々に騒がれても顔色どころか眉の角度にさえ僅かな変化も現れなかったというのに、随分可愛らしい反応だ。
「女帝と麦わらに繋がりがあるだなんて初耳っつーか、もう寝耳に水だな。何をどうやったら女人国の長とお近付きになれるって言うんだ? おまけにあんな親身に心配までされるとは」とクルー達が揃って首を傾げていたが、二人が知り合った経緯はともかくハンコックがこの船に乗り込んだ理由は確定した。

 何故そんな質問をするのかと怒られずに済んで幸いだが、慕情の露見が恥ずかしいのかハンコックが徐に腹の前で腕を組む。
 何となしに仕種を目で追うと、左手人差し指の爪が少し割れ、肌との境に幾らか血が滲んでいるのが見てとれた。

「すみません姫様、失礼します」

 断りを入れつつも不審がられないよう、ハンコックの意識が完全に此方に集中するより先に片手を伸ばし、たおやかな指先へとオーラを纏わせる。
 流石に皇帝の指を掴む勇気は出なかったのでギリギリ肌が触れ合わない位置からオーラを拡げたが、患部がかなり小さい事も手伝って問題なく「周」が行えた。

 その儘"見えざる繭(ソフトプリズン)"を発動すれば、そう深い傷でもない為、ものの数秒で裂傷が塞がり爪の形も修復される。
 細胞の再生を促進させるという技の性質上、これ以上発動を続ければ爪が一本だけ伸び過ぎてしまうので早めに能力を解除すると、それまで比較的物静かだったハンコックが眦を吊り上げて身を乗り出してきた。

「貴様!」
「あ、すみません本当勝手にすみませんでも女性の方って指先にも気を遣うかなって、」
「斯様な力が在りながら、何故ルフィの為に使わぬ!?」
「え、……えー、っと」

 てっきりやや強引な行為を叱責されるかと思いきや、全く別の角度から咎められた。そうしてその内容に咄嗟に答えあぐねる。
 確かにハンコックからすれば治癒能力を持っているなら重傷者たる想い人に使ってくれと思って当然だろうが、使うに使えない事情というものが此方にもある。

「わらわの傷など掠り傷じゃ、それよりもあれ程の怪我を負ったルフィを治すべきであろうが! 今直ぐ治して来るのじゃ!」
「落ち着いてください。お気持ちは解りますが、俺の力は現状では姫様のご要望に応えかねる代物でして、」
「無理にでも応えよ! 早うせい!」

 ──ガァンッ!

 視界の左手が突然眩しくなった、と思ったと同時に俺とハンコックの顔の間に磨かれた刀身が真上から降ってきて、切っ先が床と衝突する音が鼓膜を貫いた。

 完全に不意を突かれて跳ねた心臓が未だばくばくと忙しなく鼓動を刻む中で左横を見上げれば、手術室から出て来たのだろうローが鬼哭の柄を逆手に握り、眉間に深く皺を刻んでハンコックを見下ろしている。

「──俺のクルーにテメェが指図するな、女帝屋」

 



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