企画 | ナノ

「なあ、知ってる? 旧校舎の話」
「なんで取り壊されないかって――」
「出る、らしいんだよ」



 早く行かなきゃ、と紫原はいそいそと荷物を抱えた。時刻は四限目を終え、昼休みだ。購買に行く者、食堂に行く者――生徒達が思い思いに行動する時間。紫原も例外ではなく、人の波に抗うように階段を下りる。擦れ違い様に同じ部活の仲間である氷室に「そんなに急いでどこへ行くんだ」と尋ねられたが、紫原は「ちょっとね」と誤魔化した。
 知られるわけにはいかない。自分が今から向かう場所は、誰にも知られたくない、秘密の場所なのだから。

「あ、今日も来た」

 腰まである長い三つ編みを揺らし、彼女は紫原に笑いかけた。
 ――よかった、今日もいた。安堵の溜息をつき、手をひらひらと振る。彼女も振り替えしてくれて、なんだか胸がくすぐったくなった。

「名前ちんいっつも早いよねぇ。俺、これでも急いだんだけど」
「私、足が速いのよ」

 得意げな少女――苗字名前は、不思議な人物だった。今時珍しい黒髪は、きっちり三つ編みに結われ清潔な印象を与えた。どこの制服かわからない、黒を基調としたセーラー服も、タイは綺麗に結ばれ皺一つないプリーツの丈は膝下だ。化粧っ気のない表情はころころ変わり、丸い瞳は小動物を思わせた。クラスにはいないタイプの女子だ、と初めて会ったとき紫原は思った。

「ねえ紫原くん、今日は何を持ってきたの?」

 にこにこと、まるで子供が玩具を強請るように尋ねてくる。紫原は「えっとね」と持ってきたコンビニ袋を漁った。「じゃーん」効果音と共に新味のまいう棒を出せば、名前はおぉと小さく声をあげてぺちぺち手を叩く。
「フルーツヨーグルトわさび味……?」袋に書いてある文字をゆっくりと読み上げる名前に、紫原はうんと頷いた。

「名前から味が想像できそうだけど新たな発見がありそうなネーミングに惹かれたんだ〜」
「なるほど」

 早く食べてみて、と名前は紫原を急かした。彼女はいつもお菓子を食べず、紫原に食わせようとする。何度も紫原がおいしいから食べてと勧めてみても、毎度申し訳なさそうに「ごめんね、食べられないの」と謝った。それ以上の理由を頑なに答えようとしない名前に、紫原もとうとう諦めたのだ。なんとなく、彼女を困らせたくなかった。

「ん〜……これは……」
「どう?」
「意外とイケる……かも……?」

 首を傾げる紫原につられ、名前も首を傾げる。どうやら筆舌し難い微妙な味だったようだ。紫原が今日はハズレかなぁと呟くと、名前が残念そうに眉を顰めた。
 なぜ名前まで残念に思うのかと最初は不思議だった。一度問うてみたら、「自分が食べられない分、きみに美味しく食べてほしいんだよ」と答えられた。変な女だと思った。

「名前ちんってほんと変わってるよね」
「なに、いきなり」

 突拍子もないことを言われ、けれど名前は慣れている風に笑って流す。紫原も不快には感じなかった。二人の間に流れる穏やかな風が心地よく、紫原は欠伸を噛み殺して堪える。「眠い?」と訊かれ、紫原はううんと首を横に振った。傍目から見れば眠気を我慢しているのがバレバレで、名前は吹きだしてしまった。「我慢しなくて寝ちゃえばいいのに」

「やだ」
「強情だわ」
「だって名前ちん、どっか行っちゃうでしょ」

 その一言に、名前の顔から表情が抜けた。何かを言いかけるように口を開いたが、すぐに閉じる。膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めて、「そんなこと」と蚊の鳴くような声を絞り出した。「そんなことないよ」
 うそつき、紫原は内心で毒づいた。名前という少女は、自分に何かを隠している。とても大事なことを。彼女は頑なに答えようとしないだろうし、無理に聞き出そうとも思っていない。紫原は不安だった。どこか危うい雰囲気の名前が、いつか自分の前から消えてしまいそうで。

「誰にだってお別れはくるのよ」

 尻についた埃を叩きながら、名前は腰を上げた。錆びた椅子に座りこむ紫原を見下げ、ぐりぐりと頭を撫でる。「こら、そんな顔しないの」紫原は自分が一体どんな顔をしているのかわからなかった。
 膝に手をついて名前は紫原と視線の高さを同じにして、言い聞かせるように彼の頬を両手で包んだ。

「いつかまた会える日がくるわ」
「いつかって、いつ?」
「来世とか」

 大真面目に言う名前に、思わず紫原は面食らって口を噤んだ。何か言わなければ――と考えてるうちに、授業開始の予鈴が響く。ハッと我に返れば、名前は紫原から音もなく離れた。「そろそろ行かなきゃ」

「さよなら」

 プリーツを翻して名前を追いかけると、扉の先には誰もいなかった。廊下は耳が痛くなりそうなほど静かで、紫原の脳内では彼女の一言がこびりついて離れなかった。

 旧校舎の取り壊しが決定されたのは、翌日のことだった。

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