学校帰り、私にはもはや日課となっていることがある。私は自転車を降りて、遠くで行われている練習風景をこっそりと見る。イースト・トーキョー・ユナイテッド――通称ETUと呼ばれるプロのサッカーチームは、両親が熱狂的なサポーターだった。その影響もあってか、私もサッカーに詳しくなり特にETUを応援している。ちなみに私自身サポーターというわけじゃない。いや、私自身なりたいのだが、如何せんスカルズが怖くて遠くから応援しているのが現状である。
「あ……」
視界の隅に陰が過ぎり、反射的に目で追う。――やっぱり。
コーチの人に何事か怒鳴られ、すぐに走り出す後姿。ふわふわした髪の毛が揺れてる。あっという間に小さくなる姿に、「速いなあ」私は思わず呟いた。
――サテライト上がりの彼はよくミスをしては走らされており、私はその姿に目を奪われた。それが切欠で彼を目で追うようになり、次第にピッチでボールを蹴って走られたらどんなに格好いいだろう、とも思うようになった。椿大介。小さく口にした名前は、白い吐息に消えた。 ETUの監督が達海さんになって以来、ETUは傍目から見ても解るほど変わっていった。東京ヴィクトリー戦ではドロー。それ以降は……少し負けが続いたが、名古屋グランパレス戦では椿選手は大活躍し、雑誌でも大きく取り上げられた。今まで無名だった椿選手が注目されたことが嬉しくて、にやにやしつつ雑誌を買ってしまう。
「なまえちゃん、何かいいことでもあったのかい?」本屋のおじさんはにやにやしつつ尋ねた。「秘密!」私は代金を払うと、自転車に乗って上機嫌でクラブハウスへと向かった。だがクラブハウスに近づくにつれ、違和感を覚える。だがその正体はすぐにわかった。
「う、うわぁ……」
多い。何がって、人が。
いつもはガラ空きなのに、今日は名古屋に勝利した影響かギャラリーがざわざわとどよめいていた。しかも驚いたことに、男性よりも女性が多い気がする。
「王子のファン……じゃないよね……」王子のファンは、何というか色々な意味で目立つ人ばかりなので私は違うと感じた。そのときだ。自分とそう年が変わらない女の子達が黄色い声を上げた。「あっ椿君だ!」
えっ。聞き覚えのありすぎる名前に、過剰反応してしまう。
「わーホントだー」もう一人の子がキャアキャア騒ぎつつデジカメを構える。あ、あの、フラッシュは遠慮してくださ……じゃない。もしやこの子達は、椿君のファンなのだろうか。いや絶対そうだ。十中八九そうだ。
気がつくと隣に小学生の男の子達がいた。彼らも来たばかりの私みたく口をポカンと開けている。うん、わかるよその気持ち。吃驚だよね。私はなんだか胸がもやもやしてきて、首を傾げる。何か変なものでも食べたかな。
何故かいつもの様に応援する気持ちにはなれず、私は大人しく帰ることにした。さっき雑誌を買った時とは天と地程の変わりようだ。
「あれ、帰っちゃうの?」小学生の男の子が尋ねた。ETUのスクール生だろうか。あ、よく見たら田沼青果さん家の子だ。
「うん、なんかちょっと調子悪くてね……」
「風邪引いたの?」「気をつけて帰れよー」傍にいた二人の男の子が心配してくれて、ぎゅーっと抱きしめたい衝動を堪えつつ「ありがとう」とお礼を言って自転車に跨った。
手袋を忘れた指先は凍えそうなほど冷え切っていた。マフラーを巻きなおしてもう一度グラウンドを振り返る。椿選手が走っているのと、さっきの彼女達がキャアと歓声を上げる姿が目に入った。怪我しませんように、心の中で呟いて私は自転車のペダルを勢いよく踏んだ。
「わー、暗くなるのはやーい……」
あれから私は家に帰る気にもなれず、自転車で町内をがむしゃらに走っていた……ら、太陽は完璧に沈み、お母さんからは『遊んでないで早く帰ってきなさい』とメールまで送られてきた。遊んでたわけじゃないよ、と思いつつも『今から帰る』と返信をする。
それにしても、太陽がないというだけで一気に温度が下がっている気がする。冷え性には辛い季節だ。「ぶぇっくし!」……誤解のないように言っておくが、今のくしゃみは断じて私ではない。
誰かいるのだろうか。気になった私は、辺りをキョロキョロ見回す。視界にクラブハウスが目に入る。無意識に戻ってきてしまったらしい。帰巣本能でもあるまいし、と自分でも苦笑する。するとまた「くしゅっ」と小さなくしゃみが聞こえる。前方からだ――目を凝らしてみれば、誰かが立っていた。あれ、なんか見覚えがあるシルエットだ。
「あ」
向こうも私に気がついたのか、こちらを向いて短く声を上げた。「あ」その顔を見て、私も口を開ける。
「あ、あの!」
驚くべきことに声を掛けられた。誰にって、目の前にいるあの人、椿選手に。なんでこんなとこに。練習はもう終わったんじゃなかったの? いやそれよりも、なんで薄着なの? 次々と疑問は浮かんでくるけど、私は「は、はい!」と返事をしてしまった。
「え、えーと、その……こ、こんばんは」 「あ、はい、こんばんは……」
お互いに嫌な沈黙が訪れる。椿選手をちらりと見上げれば、彼は視線を泳がせつつ「あ、その……」と言葉を濁している。どうしよう、何か私に用なのかな。そこまで考え、ハッと気づく。もしや去年からこっそり見てたのバレた!? ストーカーと思われてる!?
これは由々しき事態だ。私はすぐさま頭を下げた。「す、すみませ――」「へぶしっ!」見事に椿選手のくしゃみと被った。
「……」 「……す、スイマセン」
照れたように謝る椿選手に、私は思わず吹き出してしまった。「ふ、ふふっ」椿選手は驚いたのか、目をまん丸にして私を凝視していた。笑いを堪えつつ椿選手に尋ねる。
「寒くないんですか?」 「あ、寒いっす……」
恥ずかしそうに言う椿選手に、じゃあ何故薄着なんだと尋ねそうになったが何か理由があるのかもしれない。先輩にコートを隠されたとか……いやそんな、中学生みたいなことはないだろうけど。
ブルブルと小刻みに震える椿選手に風邪引かない内に帰ったほうがいいと言おうとし、あ、と私は自分の首に巻いてあるマフラーを思い出した。
「よかったらこれ、お貸しします」
巻いてあったマフラーを解き、私は自転車から降りた。「え?」首を傾げる椿選手に近づき、ちょっと背伸びをして首にかけてあげる。すると椿選手は火がついたようにボッと顔が赤くなり、それを見て私は自分がとんでもなく恥ずかしいことをしているのに気づき、ボッと顔に熱が集まった。
「ご、ごめんなさい」 「いえ、ありがとうございます」
そろそろと二人して真っ赤な顔で距離を取る。距離を取るといっても、手を伸ばせば触れるくらいの距離だ。
「あの、」椿選手が意を決したような顔つきで私を見つめた。「名前教えてもらってもいいですか」
「なまえ、です」
「なまえさん……」私の名前を繰り返し呟く椿選手の息が、白かった。私の名前を椿選手が言った、というだけで何だか嬉しいような、熱に浮かされたように頭がぽーっとする。
「明日も練習、見に来ますか」 「は、はい……」 「じゃあそのときコレ、返します」
私のマフラーを指して言う椿選手に、別にいいのに、と首を振ったら「貰うわけにはいかないス」私以上に首を振られた。必死な様子に気圧され、「じゃあお願いします」と言えば椿選手はホッとしたように息を吐いた。けれどそれは一瞬のことで、また彼は頬を染めてガッチガチに緊張したように口を開いた。「そそそそれで、あの、」
「え?」 「お礼にしょっ食事でも!」
どもりながらも真っ赤な顔で言う椿選手に、私は一瞬頭が真っ白になったがその意味を察すると、椿選手以上に顔を赤くした。
「はい、是非」
愛と呼ぶにはまだ足りない 20101103⇒back |
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