窪田にはなまえという恋人がいる。自分よりもしっかり物事をハキハキと言えるし、明るいし、贔屓目に見ても美人だ。前に何故自分なんかと付き合ってくれてるのかと尋ねれば「ハルくんが好きだからだよ」と笑顔で答えてくれた。傍らにいた片山は「バカップルが」と吐き捨てたが、窪田の耳には入らなかった。それ以来窪田は彼女のことがもっと好きになったし、大切にしようと決めた。
「ひぎゃあああああああ」
練習が終わり、彼女の待つ自宅へと帰ってきた窪田の耳におよそ女子とは思えない悲鳴が聞こえた。思わずドアノブを掴む手が固まったが、悲鳴は間違いなく室内から聞こえてきた。――なまえだ。
何事かと首を傾げつつリビングの扉を開けると、なまえが半泣きで尻餅をついていた。顔は真っ青で体は小刻みに震えている。窪田が声をかけようと口を開いた瞬間、なまえが窪田の存在に気づいた。
「はっはっはっハルくんんんんん! おかおかおかえりいいいい」 「あ、ただいま」
どもりながらも自分を出迎えてくれたなまえに、窪田は律儀だなと思いつつも返事をする。いつになく錯乱している彼女にどうしたのかと尋ねようとすると、その前に彼女が口を開いた。「やっやっやっ、」
「えーと……」 「ヤツが出た!」
ヤツ? 窪田が首を傾げると、どこからともなくカサカサと何かが動き回っている音が聞こえた。
「ぎょええええええ」なまえはその音を聞いた瞬間、尻餅をついたまま後退し勢い余ってドンと背中を壁に激突させた。その様子を見てピンときた窪田が「あ、ゴ……」と言いかければ、なまえは必死な形相で「その名前を言わないで!」と声を荒げた。
「えーっと、スイマセン」 「あああごめんね! 怒ってるわけじゃないの!」
ぶんぶんと両手を振って弁解するなまえに窪田は頷くと、なまえが持っていたゴキジェットを取り上げた。ついでに机にあった新聞紙を丸めて片手で持つ。そして――。
「……も、もういない?」 「あ、はい」 「よ、よかったぁ」
退治したゴ……アレを処理し、なまえが嫌がらないように手も洗った窪田は頷いた。それを見てようやく安心したなまえは、力が抜けたのか背を壁に預けて天井を仰いだ。そういえばさっきもこんな風に天井を仰いだときに見つけてしまったのだと思い出し、ぶるりと背筋を振るわる。瞼をきつく閉じて脳内から追い出そうとぶんぶん頭を振ると、「あ」と窪田が声を上げた。
「え?」窪田はなまえの目元をそっと袖で拭った。その行為でなまえは自分が泣いていることに気づき羞恥に頬を染めた。「ご、ごめんね、虫は昔から怖くて……苦手で……」ぷに。これ以上は言うなとばかりに窪田がなまえの頬を軽くつねった。なまえは突然の行動に驚いたが、何を言いたいのか察したなまえは「ふふ、ハルくんありがとう」と笑った。その花が咲いたような笑顔に窪田もつられる。「わはっ」
「どうしたの、ハルくん」
彼が笑うときは何か嬉しいことがあったときだ。例を挙げるならサッカーをしてるときかゴールを決めたときだが、この状況で彼が喜ぶようなことがあっただろうか、と首を傾げる。
「えーと……わはっ」再度特徴的な笑い声を上げると、窪田はがばりとなまえを抱きしめた。
「わっ吃驚したー……。ハルくん、いっつも言ってるけどね、いきなりこういうことされると驚いちゃうよ」 「あ……ごめんなさい」
ちょっとしょんぼりしつつも自分を放さない窪田に苦笑し、なまえは両頬を包み込んだ。
「でもそんなハルくんも大好きよ」そう言って軽いリップ音を立てて唇にキスを落とすと、軽く頬を染めた窪田からつーっと鼻血が垂れた。
「わっ、わー! ハルくん鼻血がー!」
そういえば、となまえは窪田の鼻をティッシュで押さえつつ過去のことを思い出した。ハルくんが大好きだよって言ったときも鼻血を出してたっけ――そしてそのときも、こうやってティッシュで鼻を押さえていた。
「こら、上向いちゃ駄目だってば」 「あ、はい」
あれから月日が経ったが何も変わってないのだ。窪田も、なまえも。そんな些細なことが幸せで、なまえは頬が緩むのを感じた。
泣き虫なスピカ title by 真夜中の奇術師 20101103⇒back |
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