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 好きです、聞こえてきたか細い声に思わず足を止めた。曲がり角の向こうから人の気配がする。息を潜め、気づかれないようにそっと顔を出す。見知らぬ女の子と、見慣れた黒いコートに私は無意識に身体を強張らせた。

「好き、なんです」

 女の子はこれでもかというぐらい真っ赤になって、胸の前で白くなる程手を握り締めている。きっと緊張と羞恥でどうにかなりそうなのだろう。私も女だ、彼女の気持ちは安易に察せた。

「申し訳ありません、お客様」

 黒いコートを着た男性――ノボリさんは、ピンと伸びた背筋を斜め四十五度に曲げた。なんて綺麗なのだろう、お辞儀の角度も完璧だ、なんて場違いなことを考えてしまうくらい。そんな私とは裏腹に、女の子は真っ赤だった顔を一瞬で白くさせた。唇を震わせる女の子の顔を一切見ずにノボリさんは業務連絡みたいな口調で告げる。「お客様のお気持ちは大変嬉しいのでございますが、お客様のお気持ちを受け入れることは出来ません。申し訳ありません」

「ど、どうして、ですか、わた、わたしノボリさんのこと本当に」
「お気持ちは十分伝わっております。わたくしには勿体無い言葉です。ですが貴女様とお付き合いすることは出来ません。どうかご理解くださいまし」

 捲くし立てるようにノボリさんは早口だった。女の子はとうとう震えだし、口元を手で覆った。俯いて早足でこちらへ――やばい、こっちに来るじゃないか。私は咄嗟にしゃがみ込んだ。女の子は私の真横を走り去って行き、幸いにも私に気づいていないようだった。さて、私も退散しようと腰を上げた時だ。「随分と、悪趣味でございますね」

 頭上から降ってきた声に音を立てて固まった。暑くもないのに汗がぶわっと吹き出る。ああ、うん、どうしよう。

「聞いておられるのですか?」冷静な声に私はノボリさんは全てお見通しなのでは、と思った。何と返すべきかと口をもごもごさせていると顎を掴まれ無理矢理上を向かされる。

「わたくしを無視しないでくださいまし、なまえ様」

 ノボリさんの灰青色の瞳が、痛いくらいに私を見つめている。「や、やめて、ください」

「何をです」
「私を見ないで」
「何故です」

 何故? そんなの決まっている。今の私がとても醜いからだ。
 ノボリさんが告白を断ったのを喜んでいる、選ばれなかった女の子に優越感を抱くような、醜い女だからだ。こんな私を見てしまったらノボリさんまで汚れてしまう。

 だがそんなことを言えるはずもなく、私は両手で顔を覆った。

「なまえ様、どうかお顔を見せてくださいまし」
「駄目です」

「では」一瞬の沈黙の後、手の甲に柔らかい感触がした。柔らかくて暖かいその正体が解らず、私は今の感触は何だったのだろうと考える。考える間にもちゅ、ちゅ、と連続して手の甲に感触が――あれ、これって、まさか。

「!?」手の甲を確かめようと顔から掌を離した瞬間、手首を掴まれた。アッと声を上げれば、ふふと微かに聞こえる笑い声。

「ようやくお顔を見ることが出来ました」

 目を見開いてしまったのはノボリさんが近距離にいたことに驚いたからじゃない。あまりにも嬉しそうに笑うので、私は何だか無性に泣き出してしまいたくなった。そんな顔されたら、勘違いしてしまうじゃない。




気付いた時には檻の中
20120423⇒
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