dream | ナノ






「あ」と呟いたときには既に遅く、掌に治まっていたはずの携帯電話は綺麗に円を描いて落下していった。ぽちゃん、と池に小石が投げられたような音がした。いや、正確に言えば川に携帯が投げられたのだが。

「ぼーっとしてたら川に落としちゃった」
「ぼーっとしすぎよ!」

 石神は先程あったことを――携帯を落としてしまっただけなのだが――なまえに包み隠さず話していた。最初は普通だったなまえの表情が、石神の話が進むに連れてだんだんと険しくなっていく。あ、ヤバイなと石神がちょっと身を引いた瞬間「何してんのよアンタって奴はー!」となまえが憤怒した。まるで火山の噴火だ、と石神は苦笑しつつ「事故なんだから仕方ない」と宥めた。

「事故!? 普通に歩いてるだけでなんで川にポシャンするようなことになるの!?」
「落ち着け、美人が台無しだぞ」
「元から美人じゃないわよ!」

「えぇ?」石神は眉を顰めた。以外な反応に一瞬怒りが身を潜め、なまえがぐっと言葉に詰まる。そんななまえを尻目に、石神は首を傾げた。「女の子は笑うと誰でも可愛くなるんだって知らないのか?」

「は!?」石神らしからぬ台詞になまえは心底驚いた。石神とはそれなりに長い付き合いになるが、今までこんな歯の浮くような台詞は冗談でだって言われたことはない。心臓に悪い直球なことは言われるが。

「――って、ジーノが言ってた」
「……ですよねー……」

 続けて出た言葉にがっくりとうな垂れつつも、なまえは石神のマイペースに溜息を吐いた。だが石神の話はまだ終わらないようで、さらに「でも実際そうだと思うし」と続ける。半ばやけくそな気持ちでなまえが「笑えって?」尋ねれば、こくりと頷かれた。

「無理言わないで」
「ダメな奴だなぁ」

 アンタにだけは言われたくないわ! 

 なまえは出掛かった台詞を何とか喉の奥に押し込めると、米神を揉む。こういう状況で、石神という男に何を言っても無駄だとなまえは何度も学習たので、黙ることにしたのだ。なまえの心情を知ってか知らずか、石神は莞爾に笑った。「でもそんなところも愛してるよ」

 ああ、本当に、心臓に悪い。なまえはたった一言で耳を真っ赤に染め上げ、恨めしげに石神を睨みつけた。「……そういうのは、もっとロマンティックな場所で言うものよ」

「そうなのか?」
「そうなのよ」

 ふぅん、と解ってるんだか解ってないんだか――恐らく後者だろう――石神は軽く頷いた。なまえは再度溜息を零し、石神のマイペースな天然に振り回されている自分を嫌でも自覚する。たった一言で許してしまうあたり私も相当絆されているなぁ、と考えさらに自分の顔を赤くさせたのだった。


***


「ぼーっとしてたら携帯を川に落としちゃって」
「ぼーっとしすぎ!」

 あれ、デジャヴ? 石神は首を傾げた。練習が終わり、各々がシャワーを浴びたりロッカーで帰り支度をしているときに「携帯に電話したけど繋がらない」と言われた石神は先日あったことを包み隠さず話したら怒られてしまった。

「でも、不便じゃないスか? 携帯ないと」彼女とか、と言葉を濁す清川に石神は「え?」と目を瞬かせた。なまえは電話が苦手だし、メールだって毎日くるわけじゃない。むしろ石神はメールが苦手なので用件がなければ送ってこないほどだ。それを考え、石神は「別に不便でもないけど」と答えた。

「今度の休みには買い換えるよ」

 どこまでもマイペースな石神に、周囲の人間がそれ以上何も言う事はなかった。


 疲れた体を引きずりつつ、石神は帰宅した。何気なく電話機に目をやればチカチカと点滅している。留守電だ。珍しい、と思いつつ再生ボタンを押せば『もしもし……あー、苗字だけど』聞きたくてたまらない声が聞こえてきた。

『この間言ってたお店の予約取れそうだから、××日でいい? 都合悪かったら早めに連絡してね。……つか携帯さっさと買いなさいよ! アンタは不便じゃないからとか言って後回しにしてるんでしょうけど、周りの人間からしたら不便どころの話じゃないんだからね、迷惑よ迷惑! いつもの癖でメール送っちゃっ……じゃない、何でもないわ。とにかく、わかったら留守電なんて聞いてないでさっさと携帯買いに行きなさい! いいわね!?』

 ブチリ。まるで嵐のように過ぎ去った留守電に、石神はただ呆然と立ち尽くした。
「ふはっ、」次いで堪えきれずに吹き出す。久しぶりに声を聞けた嬉しさと、その電話に出れなかった悔しさが入り混じった複雑な心境だった。けれど頬がにやけるのを止められない。

 そういえば、と石神は思い出した。まだ携帯も持ってない頃、なまえは電話口でいつも恥ずかしそうに苗字を名乗っていたっけ。そしてそれを誤魔化すように、早口で用件だけを言っていた。石神が昔、「声が聞きたい」と電話を掛けたときだって「恥ずかしいこと言ってないで寝ろ!」と一方的に切られたことだってあった。

 電話が苦手なのにわざわざ留守電を残してくれたなまえ。石神は携帯落としてよかったかも、となまえにまた怒られそうなことを思ってしまった。けれどそれぐらい、嬉しかったのだ。


***


 ヴー、ヴー、とバッグの中から振動音がすることに気付いたなまえは「誰だこんな時間に」と思いつつも携帯電話を取り出した。だがディスプレイに映るのは『公衆電話』という四文字。時計を確認すれば、もうすぐ一日が終わる時間。こんな時間に電話してくるのは余程の緊急か阿呆だ、と結論付けたなまえは渋々と電話に出た。「もしもし?」

『なまえ? 俺だけど』
 石神からの電話に「ああ、阿呆からの電話だった」と失礼なことを思うなまえだが、今の彼女は眠気で碌に頭が働いていない上、仕事での疲れもあって少なからず苛立っていた。「……何で公衆電話から掛けてるの? 家から掛ければいいじゃない」

『んー、何となく』

 何となくって。相変わらずどこか抜けてる石神に、なまえは溜息を吐いた。すると石神が『あ、』と声を上げる。『なんかデジャヴ』

「はぁ?」
『いや、昔電話したときもそんな反応されたなぁって』

 昔。電話。その単語で何かあったっけ、となまえは記憶を辿る。一瞬黙り込むと、すぐに「あぁ、」となまえはアレかと思い出した。何故なら、彼女にとっては強烈すぎる思い出だからだ。


 ――あれはまだ二人が高校生のころ。その頃はまだ携帯電話なんて便利なものは二人の手元になく、家にある電話だけが唯一の連絡手段だった。ある夜のこと、今はもう見なくなった黒電話を取ると受話器から『もしもし、俺だけど』と突然石神から電話が掛かってきたのだ。

 正直言って、なまえはかなりドキドキしていた。昔からツンツンしていたなまえに男子はいい顔をしなかったし、なまえ自体も阿呆な男子から好かれるなんて真っ平ごめんだったが、この石神という男だけは別だった。ギャアギャア騒ぐわけでもなく、周囲に流されないマイペースさになまえは目を引かれた。地味だったが。

 ハッキリ言えば当時から石神に恋心を寄せていたのだが、本人は全くの鈍感だったため気付くことはなかった。ならばソレに気付いた切欠は何かというと、それも石神だった。

「ど、どうしたの、いきなり」

『いや、何となく』と返事する石神に、なまえはドキドキを悟られないようにふぅと溜息を吐いた。「何となくで電話しないで。あんまり長電話すると怒られるから切るわよ」

『そっか。俺さ、苗字のこと好きみたい』

 ロマンティックの欠片もない告白は、なまえの心を大きく揺さぶった。そしてド直球な言葉に、嫌でも石神への想いに気付いたのだった。


「……あれはアンタが、いきなり好きとか言い出すからでしょ。すごく驚いたんだから」唇を尖らせるなまえに、石神は笑った。『若気の至りってやつだよ』

 そういうものだろうか、と首を傾げるなまえだが、思春期の男子の考えは今になっても全く理解出来ない。彼自身がそう言うのだから、多分そうなのだろう。――というか、そもそもあの電話のせいで私は電話が苦手になったんじゃなかったっけ、となまえは眉を顰めた。一言物申してやろうとなまえが口を開いた瞬間、『なぁ』と石神が遮るように言葉を発した。「……なに?」

『結婚しないか』
「ああ、結婚――え?」

 買い物しに行かないか、なノリで言われた台詞に、なまえは耳を疑った。今のは幻聴だろうか。何か言わなければいけないのに言葉が出てこず、なまえは金魚のように口をパクパクとさせた。石神はいつもの調子で『だから、結婚』と先程よりもハッキリした口調でなまえに伝えた。

「……だから、なんでアンタはそういう大事なことを電話で言うのよ!?」

 普通だったら照れたり感激のあまり涙をするのだろうが、なまえの場合怒りが湧き起こった。平然と言われた台詞が、許せなかったのだ。

『お望みだったら目の前でもう一度言うけど』

「え?」予想外の反応に、なまえは目を見開く。

『すぐ傍にいるんだ、ほら、マンション下の公衆電話のとこ』

 そういえば――となまえはマンションの入り口のすぐ近くに古びた公衆電話があることを思い出した。最近は携帯があるのでめっきり利用する人間が減ったので、すっかり忘れていた。

 けれど、何故こんな時間に石神がそこにいるのだろうとなまえは頭を捻った。なまえと石神の住んでる家からは車でも三十分はかかる距離だ。尋ねようとしたなまえを察したのか、石神が先に口を開いた。『君を想うと夜も眠れないんだ』

 だから、それは二人っきりのときに言うものよ。なまえがそう告げようとしても、喉が引きつって上手く声が出なかった。さらに視界まで滲むのを感じたなまえは、何とか一言だけ発した。

「……ダメな人ね」
『そうだよ。なまえがいないとダメなんだ、俺』

 プツッ、と通話が途切れた。きっと彼が受話器を置いたのだろう、となまえは思案した。マンションのすぐ下、ということはすぐにこの部屋へやって来るだろう。なまえは玄関へ向かい、チェーンを外して彼を招き入れる準備をした。

「本当に、ダメな人」ぽつりと零れた悪態は、愛おしさで溢れていた。





シャングリラ
20101119⇒
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