小さい頃から私は孝介に頼ってばっかで、物をなくしたら孝介、誰かに泣かされたら孝介、怪我をしても孝介、ずっとずっと、もう数えきれないくらい孝介の名前を呼んできた。
私が孝介を呼んだら、その返事が返ってこないことはなくて、でも最近は返ってこない。部活で忙しいから仕方ないんだけど。


「うー……こうすけー」


返って来ない返事に、寂しさがないと言ったら嘘になるが、それよりもこの変わらない状況をどうにかしなくちゃと思った。……プリントが、全く進まない。


「大体さー、補習がプリントやっとけっておかしいよ」


わからないから赤点を取る訳で、プリントを渡されて解けるくらいならそんな点数は取らない。ここは先生が付きっきりで教えるべきだろう。生徒の自主性に任せすぎだ。


「……こうすけー」


もう一回孝介の名前を呼ぶと、誰かが教室に入ってくる音がして振り向いた。一瞬孝介を期待したがもちろん孝介な訳はなく、けれど予想外の人物だった。


「……たじま、部活は?」


ユニフォーム姿で入ってきたのは彼氏の田島で、私の言葉には答えずに私の前の席の椅子を引き、背もたれを前にして座った。


「……たじま?」

「なんでだよ」


強い目に見つめられたままキツい口調で言われて、つい畏縮した。私、変なこと言ったっけ……?


「……たじま、」

「なに」


ジッと私を見つめている田島はいつものバカな田島とは違って、どうしたらいいかわからず口を開くことができなかった。


「なぁ、なんで?」

「……なにが……?」

「…………名前、なんで呼ばねーの?」

「な、まえ……?」


よく三橋くんは何言ってるかわからなくて、田島がフォローする。でも田島も主語が抜けてたりしてみんながわからない時は、私がフォローする。だけど今回は何が言いたいのか全くわからない。不機嫌な田島の気持ちだけが伝わってきて、おどおどと次の言葉を待つことしか出来ず、歯痒い。すると田島がすぅっと息を吸ったので、ようやく言いたいことがわかりそうだと身構えた。


「お前は俺の彼女だろっ!なんで泉を呼ぶんだよ」

「……へ……こうすけ?」

「こうすけこうすけって、なんで俺を呼ばねーのっ?」


まさかそう言われるとは思わなくて、すぐに答えることが出来なかった。その間も田島は強く見つめてきて、なんとなく決まりが悪くなって座り直した。


「……ごめん。孝介は、幼なじみだから……癖みたいなものなの、ごめんね」

「……直すの?」

「えっ……」

「直すの?」


相変わらず主語はなくて、まぁ私が孝介の名前を呼ぶ癖を直すか訊かれてるのはわかるけど、狼狽えていたらもう一度念を押して訊かれた。


「……うん、直すよ。次から田島を呼ぶようにする」

「あとそれ!」

「それ……?」

「泉がこーすけなのに俺は田島なのおかしい!」

「……あ、ごめん」

「しかも俺は名前のこと名前で呼んでるし!」


そう言われてみると、田島は付き合うことになったらすぐに名前で呼んできたっけ。最初はこそばゆかった名前呼びにもすぐ慣れて、私は田島を名前で呼ぼうとか、そんなこと少しも思わなかった。


「……ゆう、いちろ……?」


慣れない呼び方に気恥ずかしくなりながら小さく名前を呼ぶと、田島の顔がみるみる輝いていく。キラキラした笑顔で「もーいっかい!」なんて言われたら、恥ずかしさよりも田島を喜ばせたいという気持ちが勝った。


「……悠一郎っ!」
「おうっ!!」


ニシシと笑った田島はハッと気付いたように黒板の方へと振り返った。田島が来たのが何分くらいかはわからないが、校舎とグラウンドの距離や野球部の休憩時間を考えると結構危うそうだ。


「やべ!俺戻んなきゃ!!」
「……てゆうか、たじ……」


つい田島と言おうとしたらまた無言で強く見つめられたので、慌てて口を閉じる。


「……ゆういちろー、なにしに来たの?」
「ん?名前が補習受けてんのは知ってたから、まだいるかなーって!会いに来た!!」
「……たじま……」
「あー!また名前!!」
「ご、ごめん……。でも悠一郎っ長いし、田島のが楽」


すると口を尖らせて「泉だってそーじゃん」と言いながら立ち上がり、思い付いたように私の机をバンッと叩く。思わず震えた私はお構いなしに顔をぐっと近付けられた。


「悠でいいじゃん!田島より短いしっ!」
「う、うんっ。わかった、悠ね」
「そう!ならいいだろっ?」
「いっ、いいからっ……かおっ、近い……」


頬が熱いのが自分でわかって、つい目線を反らすと唇に柔らかい感触。びっくりして田島を見た時にはすでに離れていた。


「これで部活もっとがんばれるかも!」
「なっ……」
「じゃあ俺行くから!!」
「ちょ、ちょっとた…悠!!」
「あっ!」


私の呼び掛ける声には無視らしく(まぁ内容なんてないんだけど)教室の開いているドアに手をかけたまま振り向いた。


「早く終わらせて帰れよ!暗くなったらあぶねーし!つーか暗くなったら送ってくから待ってろよ!ゲンミツに!!」


それだけ言って走って行ってしまった。プリントをわざと遅らせてやったのは言うまでもない。


(20100905)

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