妻がりょーちゃん、と名前を呼ぶ声が、いつからか煩わしく感じた。 決して妻のことを嫌いになった訳ではないのだが、百合に呼ばれる名前の高さが、百合の口から出る音が、百合の上げる嬌声が、酷く好きになったことが原因だろう。 百合の声を意識してから、今まで意識はしていなかったけれど、妻の声があまり好きではなく、落ち着きたい時に聞きたい声ではないと気付いてしまったのだ。 そういえば、まだ妻と結婚する前、付き合っていた頃から、オレは何かあっても妻に甘えることはなかった気がする。 いつだって1人になって落ち着いて、センパイや友達に甘えていた。 妻とは楽しい時を過ごすばかりで、気分が落ちている時は距離を置いていることが多かったし、それは今でもそうだ。 ぶっちゃけると、妻と結婚したのはなんとなくだった。 長い間付き合っているし、じゃあそろそろ結婚しようか、という感じで、実際は彼女の方から、私たちこのまま結婚しないの?と言われたから、することになったのだ。 随分適当だと思われると思うが、まずオレは妻と付き合ったことからなんとなくだった。 オレの彼女となると、ファンの女の子たちの目もあり、メンタル面や諸々が強くないとやっていけない。 もちろんオレが彼女をフォローをするのは当たり前なのだが、そこまでするほど好きな女の子はおらず、オレは特定の彼女を作る気がなかった。 そんなオレに、妻が猛アタックしてきたのだ。 元々、彼女とは中学からの付き合いで、彼女には長年の想い人がいた。 しかし、その彼にきっぱりとフられてから、度々相談に乗っていたオレのことが気になり出したと言い、そこからのアプローチは凄まじかった。 実際、彼女はオレのことをよくわかっているし、付き合う点での問題は何もないのだが、オレの気持ちだけが問題だった。 彼女をそういう目で見たことがないし、こんな適当な気持ちで付き合ったら、中学の頃のチームメイトに怒られるだけでなく、彼女の幼なじみに一発どころか何発も殴られることもあり得るだろうと、承諾することができなかった。 でも、それでも構わないと、りょーちゃんのことを1番知っているのは私だから、今はオレに気持ちがなくとも、私を選んで後悔することはないから、そんなような事を言われ、結局は根負けして付き合うことになったのだ。 そうして、一途にオレを好きな彼女に、気付いたら情なんかも湧いてきて、彼女がオレの隣にいるのが、当たり前になっていた。 だから、別に妻のことをどうとも思ってない訳じゃない。 恋愛に対して随分適当だったオレに、根気よくアタックして、愛想も尽かさず今まで寄り添ってくれていることには、とても感謝しているし、嬉しい。 それが恋だったり愛だったりなのかはよくわからないけれど、オレは彼女と一生を共にすると思っていた。 それでも、出会ってしまったのだ。 彼女が、百合が欲しい。 この気持ちは、理屈で説明出来るものじゃなかった。 目が合っただけで恋に落ちるなんて初めてで、でも絶対に彼女を手に入れたいと思った。 お互い、今だけだとわかっていた。 いつか終わりが来るけれど、今がよければそれでいいと思っていた。 なのに、オレはどんどん百合に溺れて行って、もっと一緒にいたくなって、もっと欲しくなって、百合を困らせることはわかっているのに、止められなかった。 そんなオレを優しく包み込んでくれる百合に、毎回甘えてしまうのがふがいないけれど、いつか百合を手放す日が来るなんてオレにはもう考えられなくなっていた。 最近は、お互い相手に勘付かれはじめたせいで、会うことが減っている。 終わりが近いことは、オレも彼女も予感しているのだけれど、オレは果たしてそれを受け入れられるのだろうか。 「……無理に決まってる」 「え?なんか言った?」 「いや、なんでもないっスよ」 ついポロリと口から出てしまった言葉を百合は上手く拾えなかったらしく、首を傾げて不思議そうな顔をしている。 単なる独り言っス。と言うと、百合は私といるのに他のこと考えてるなんて許さないんだから。と茶目っ気たっぷりに言ってのけた。 「オレはいつだって百合のことしか考えてないっスよ」 「えぇ?やだやだ。それで何人の女子を口説いたんだか」 「なんスかそれ〜!ほんとっスよ!」 「はいはい」 適当にあしらう百合の手首を掴んで、驚いた顔をした彼女に構わず唇同士をくっつけた。 「伝わった?オレの気持ち」 「涼太……相変わらずやることがクサい」 「ええっ!?」 「っふふ、冗談。やっぱりクサくても涼太がやるとキマるね。ちゃんと伝わった。ってゆうか、もう十分伝わってるよ」 そう言って微笑んだ百合ともう一度、どちらともなくキスをした。 唇が離れると少しの間、熱い視線が絡み合うが、間もなく百合が目線を下げるようにして反らした。 「じゃあ、そろそろ……」 オレから身体を離しかけた百合をどうしても離したくなくて、手首を掴んだままにしてしまうと、眉を下げた彼女が何か言おうと口を開いた。 けれど言葉を発することはなく、そのままオレの胸に飛び込んできた。 ふわり、と薫った彼女の香りに、安心と共に身体が熱くなる。 「……こんなことしたら、ほんとに帰さないっスよ」 「涼太が離してくれなかったんでしょ」 「それは、だって……」 「……私も、頭ではわかってるんだけど、なぁ……」 諦めなければならない。 この恋は決して、許されるものじゃない。 それでも、いつからこうなってしまったんだろう。 オレたちの心が、諦めさせてくれないのだ。 (20130508) ×
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