ピピピピ…
『………』
時刻は午前7時50分。手元にある体温計には「37.4」という数字が並んでいる。私の平均体温なんて知らないが、少し高めであることに間違いはないだろう。思い返せば最近は2日後に控えた文化祭の準備で完全下校の時刻まで学校に残ってせっせと働き、家に帰れば携帯を触ったりマンガ読んだりテレビ見たりで毎晩2時を回る就寝時間だった。朝はいつものごとく7時で、あ、そういえば昼ご飯のお弁当は夏バテ気味のせいか全然食べられなかったな。…つまりそういうことだ。
風邪気味、かな。
▼▼▼
『ふうー…』
深いため息をつき、額の汗をセーラーの袖で拭う。今日は授業も午前中で終わり、あとは文化祭準備ということになっている。一応私は文化委員なので精一杯働いているが、何しろ仕事が多くてやってもやっても溢れてくる。今朝計ったときよりなんとなく体温も上がってるような気もするが、なんというか、そんなことにかまってられるほど今の状況に余裕はなく結局風邪なんて気のせいだと思い込むことにした。病は気からというのを今は信条にしようと思う。
もう一度言うが2日後は文化祭だ。秀徳高校は学業や部活だけでなく、文化祭にも力を入れている。文化委員としても秀徳高校生の一員としても頑張らなければいけない。
『ペンキ足りてるー?』
「あ、なんか白が足りないかも…」
『ほんと?それなら私さっきあっちの仕事終わったし買い出し行こうかな』
「助かるー!ありがとうつばきちゃん」
『うん、平気へい、』
「はーいストップー」
長い髪を耳にかけようとした手の首を突然掴まれ、後ろから降ってくる聞き慣れた声。振り返れば予想通りの人物がそこにいた。
『高尾?』
先程まで友人たちと角材を切っていた彼は、作業で汚れるからか白いシャツを腕まくりし黒のズボンも膝下まで折り上げた状態でいた。未だに離されない手首を握る手は冷たい。
「確かあっちで良平がすることないっつってたから、買い出しはそいつにまかせよ。なぁ、良平に言っといてくんね?」
「え?あ、うん、わかった」
『ちょっと、私いけるよ?』
「ハイハイ、お前はこっちな」
ぐっと引っ張られ足取りが怪しくなったがなんとか持ちこたえ、進める足を止めない高尾の背中に目を向ける。何、なんなの?どこいくわけ?
『高尾、私やることあるんだけど、』
「ねーよ」
『えっ』
「お前のやることなんてひとつもない」
『な…何その言い方!ひどくない?けっこう頑張ってるのに…』
「いいから黙って」
なんなんだ高尾!何がしたいんだ高尾!私あんたは若干嘘臭い笑顔してるとは言えわりといいやつだと思ってたのになんだこいつは!
もう…しかもなんかちょっと怒ってない?気のせい?高尾のこんな声聞いたことない気がするんだけど…。そこも嫌って言うかむしろそこが嫌。……なんかしたっけ?早急に頭を回転させて色々思い返すが高尾を怒らせるようなこと、少なくとも私にはした覚えがない。
しばらく歩いてたどり着いたところは困ったことに、本当に困ったことに保健室ではないか。瞬時に頭の中でバラバラになってたピースが当てはまりだす。中に入ると保健室の先生はいなくて、まるでマンガみたいな展開だと少しだけ胸が高鳴った。もちろん私と高尾の間柄はマンガみたいなものではないが。
「ん」
シャッとカーテンが開けられ、中からひとつのベッドが姿を現す。飛び込んでくださいと言わんばかりの気持ちよさそうなそれ、ではないけれどやはり「寝るところ」というだけあってどうしても目がいってしまう。睡魔なんて簡単にやってくる、私はそういう人間です。
『…仕事しなきゃ』
けれどここで邪魔するのが、私のくだらない責任感。まだまだ仕事はある。こんなとこで私ひとりすやすや眠るわけにもいかない。首を振って拒否の意を表す私に高尾はにこりと笑いかけ一言。
「寝よっか、つばきちゃん」
何が何でも寝かせたいらしい。
もう一つ言うと、私はこの笑顔に勝てなかった。だってとっても怖いんだもん。
ベッドに入り布団を被ると、高尾は傍らにあったパイプイスに腰掛けベッドに乗せた腕に体重を預ける。そしてどこからか体温計を差し出した。
『…気付いてたの?』
「まあな。ほらさっさと計れよ」
『……ほんとやだなぁ、高尾ってなんでそんなに周りのことに気がつくの?』
「さあね、なんでだろうね」
意味深なその笑顔の奥にはきっとたくさんの秘密があって、それは私には決してわからないようなことだらけなんだろう。そう思うと少しだけ寂しくなって、でもそんなのきっと何かの思い過ごし。本日二度目の機械音に意識は現実へと引き戻された。
「何度?」
『……』
「……」
『……』
「……」
『さ、37.1』
「嘘はだめだよなー」
『ごめんなさい37.9です』
「ふうん」
『……』
「……」
『…38.1です。ほんとに』
「ちょっとたけーな」
高尾の手がおでこに伸びてきて、前髪をのけ優しく触れる。ドキドキとうるさい心臓は熱のせいにするとして、それにしてもやっぱりおでこごっつんして熱計るなんてマンガなのね。
「なんでそこまでムリするかなー」
『…私文化委員だし』
「もひとりいんじゃん」
『でも私もだし』
「風邪引いてんのに頑張る必要がどこにあんだよ」
『文化委員という責任』
「責任あるなら休め。風邪移ったらどーするワケ」
『あ…』
「わかった?」
『……』
「ま、とりあえずここで寝とけよ」
『…高尾は?』
「オレ?オレは……、」
やっぱり戻るのかなぁ。…そりゃそうだよね、仕事はやっぱりあるし、高尾の持ち場だって他よりは幾分かマシだけど余裕とまでは言えなかったはずだし。風邪の時って寂しくなるのはなんでですか。
じっと高尾の目を見つめて、言葉の続きを待った。
「もう少しここにいよっかな。オレけっこー頑張ったし、ちょっとくらいサボったって誰も文句言わねえだろ」
『ほ、ほんと?』
「んー。だから安心して寝なさいよつばきちゃん」
ポンポンと布団の上からお腹あたりを叩く高尾。なんだかこいつといるとほんとに安心できちゃうんだけど、なんでだろう。理由なんてわかんないし、このぼーっとする頭じゃいくら考えたってたどり着かない。
私はその心地よさに身をゆだねるようにして眠りについた。
▼▼▼
カサッ……
『ん……』
「あ、起こした?わり」
『たかお…?』
「ちょうど起こそうと思ってたんだよ。ん、コレ」
どのくらい眠ったかわからないけど外は夕焼け空でこの保健室もオレンジ色に変わってた。保健の先生は今も不在な様子で、おぼつかない頭ながらラッキー、なんて考えてしまう。
高尾がコレと言って差し出したのはビニール袋。中から出てきた物を見て私の顔は一瞬で青ざめ、そんな私に高尾はにたぁと笑いかける。うわ、やな笑顔…。
「何つばきちゃん、薬苦手なのー?」
そう、薬。高尾が持ってるのは薬で、どこからどう見たって風邪薬だった。最近では小さな子供用に甘い飲み薬だとかが普及されていて親戚の子は得意気な顔して飲んでいた。しかし私は生憎そんな世代じゃなくて、まあつまりは嫌いなのだ。
『苦手じゃない、嫌いなだけ』
「一緒だろ?でもワガママはだーめ。ほら飲めよ」
『や、やだ…』
「んーと、15歳以上は二粒ね」
『えっ!二粒も!』
「……」
『……』
「飲もうな?」
『うい』
高尾ってどうしてこうも無言の圧力かけられるんだろう。おかしいな、こんなキャラだっけな、こいつも私も。
「水どーぞ」
『…ありがと』
しぶる暇なんてまるでなくて、私は意を決して水を口に含み一粒目を口内に放り込んだ。天井を向いてぎゅっと目を瞑り、
ごっくん。
「お、飲んだか」
『……うええ〜…ムリだよ〜』
べっと舌を出しちょこんと乗った錠剤を見せる。高尾は呆れたような顔でため息をついた。そんな顔されたって困る!だって粒のまま飲み込むなんてほんとむりだしっ!
軽く涙目な私にまたひとつため息。いよいよいたたまれなくなってきたところで、高尾が水の入ったコップに手を伸ばした。何かと思えばそのまま飲み始める(のど乾いてた?)。そしていまいち意味のわからない私の後頭部に手をやり、ぐっと引き寄せ、って、え。
『んっ』
喧騒も足音も聞こえてこない空間。夕焼けに染まるオレンジの保健室。薄い視界に広がるめいっぱいのクラスメート。
口内には高尾の口から少しだけぬるい水が入ってきて、キスのせいで酸欠な私は思わずごくっと薬ごと水を飲み込んでしまった。それを確認した高尾は「噛むなよ」と言ってもう一度水を飲み、錠剤を口に入れる。
『ちょ、もっ…』
流されてくる水と錠剤が苦しくて生理的な涙が浮かぶ。朦朧とする意識の中ベッドに乗せた左手の上から彼の右手が覆い被さるように握りしめてくれたのだけは、確かにわかった。
ぷはっとお互いの口が離れる。
「…ん、ちゃんと飲めたな。えらいえらい」
ようやく終わったようだ。少し溢れた水をセーラーの袖で拭って、高尾を睨みつけた。へらりと笑ってのけるこの男、どういうつもりなんだ。
『意味わかんない!』
「わかんなくていいよ」
『…なにそれ』
「ハイハイ、風邪ひいてる子は寝ましょうねー」
『ちょっ』
肩を高尾に押し付けられ再び寝転ぶ形になる。
『…高尾』
「ん?」
『…ずっとそうしててくれる?』
「つばきちゃんが嫌がっても離してやんねーよ」
握りしめたままの手のひらの意味がわかるのは、文化祭が終わったあとの後夜祭でとなる。
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120914//愛をひとつまみ、ぺろり
高尾くんすきすきすき