わたしはめんどうくさがりだからいちいち前髪が伸びたくらいじゃ美容院に行かない。女の子としてどうなのって女にあらぬ理想を抱く男なら疑問に思うかもしれないが、実際前髪のためだけには美容院に行かないと答える女子だって少なくないはずだ。きっと。多分。予想だけど。
ということでいつものごとく、邪魔になってきた前髪の束を左手の人差し指と中指で挟み、右手には筆箱から探ったハサミを持つ。あ、なんか「挟み」と「ハサミ」掛かっちゃった、違う違うそんなつもりなかったけどなんかうまいこと言っちゃったごめんねてへ!なんてくだらない冗談はおいといて、しかしそれが悪かったのだ。おっさんみたいな思考のせいで気が緩んでいたわたし。一応言っておくが、美容院に行かないからと言って決して前髪に対する思いが少ないわけじゃない。むしろ前髪とはわりと大事な役割を果たし、まああまりうまくは言えないが誰にとっても見かけを飾るのに大切なものなのだ。だからいつも慎重に切っていた。切りすぎず、かと言って意味ないほど切らなさすぎず。
今みたいに油断することなんてなかったのに、どうして、今。
ジャキッ
あ。と思ったときにはすでに黒いそれはハラハラと落ち白いティッシュの上に乗っていた。サッと血の気の引く感覚がした。慌てて手鏡に自分の顔を映す、と、そこにいたのは……
『ギャアアアアア!!!』
♂♀
泣きたい。前髪失敗するとかわたし何歳なの。学校来たら仲良い友達には散々笑われたし少し仲良い友達には「あ、うん…似合ってる!なんかつばきちゃんっぽくて!」と気を遣わせてしまった。しかしこの前髪がわたしっぽいってそれある意味暴言ですよお嬢さん。
「ねえ、その前髪高尾くんに見せた?」
『見せてないよ…今日まだ会ってないし』
「お昼休み喋るんじゃないの」
『どうしよう会いたくないってか会えない!』
「その前髪じゃあね」
私にとって最大の敵は散々笑った友達でも気を遣った友達でもなく、そう彼氏の高尾くんだ。あいつはきっと笑う。この前髪を見て腹抱えて笑うに違いない。付き合ってもうすぐ4ヶ月、何度だってデートしたしキスもしたけどそれとこれとは話が別で恥ずかしい。だから会いたくない。今ほどクラスが違ってよかったと思ったことはないぞ わたし。
「いやいやつばきさん、早めに見せときなって。前髪伸びるまで会わないわけにもいかないんだし」
『…いかない、かな?』
「当たり前でしょ長すぎるわ!」
『わ、わたし髪伸びるの早いほうだからいけるかも…』
「だめだ頭がおかしくなってる」
しかしわたしがいくらもがこうとも時間の流れとは非常に残酷であり、やがて怯えていた昼休みがやってくるわけだ──
「つばきちゃん、高尾くんが呼んでるよー」
やってきました。ああ高尾くんが扉のところに立っている。我が彼氏ながら今日もかっこいいですね。わたしは額を前髪の上から右手で押さえつけ高尾くんのもとへ歩み寄った。そして2人で廊下で話す。もう言葉無しでも当たり前になってしまった日常。この時がわたしは一番楽しくて好きなのに、早く終わってしまえなんて思っちゃう自分もいて気持ち悪い。
「なんだよ、でこどうかした?」
ところがさすがにずっと額を押さえていては怪しまれるに決まってる。いや、実際は怪しまれるというより普通に気になって聞いてるんだろうけどね。
『な、なんにもない、ちょっと熱あるかなって体温を計ってるの』
「ずっと?」
『うん』
「保健室行く?」
『や、平気です。はは』
「……」
『……はは(二回目)』
つらい。高尾くんの疑いの目線がビシビシ降り注いできてつらい。しかしこの右手だけはどけぬぞ わたしは!断固としてな!
「ふーん。熱ねぇ」
『う…うん、移るといけないからもう教室もどるね、ごめんね』
我ながらうまい繋ぎだ!なんと自然な!なんと巧妙な!なんとあざやかな!廊下の壁にもたれかかる高尾くんに手を振って教室に戻ろうとしたら、その手首を掴まれる。
「オレに嘘なんてついて、通じるわけないっしょ?」
『え』
「熱、だっけ?そんなに心配ならオレが計ってやるよ」
そのまま自然な、巧妙な、そしてあざやかな流れで高尾くんはわたしの額に当てていた手を退かしぐっと顔を近づけてきて、しまいには前髪を持ち上げそのおでこをコツンとわたしのおでこに当てた。
『っ、高尾くん、』
「…あれ、おっかしいなー。てっきり嘘ついてんのかと思ったけど……熱あんじゃん」
そんなの高尾くんがこんなに顔近づけてくるからに決まってるし、しかも絶対それわかってて言うからタチ悪いんだよなぁこいつ…。わたしの真っ赤な顔見て何も言えなくなっちゃうカッコ悪いとこ見て楽しんでんの。ほんとやだ。
「…あ、前髪」
『っ!』
言われて急いで隠すけどすでに遅く、高尾くんの顔がみるみるうちに笑いを堪えるものに変わっていく。しまいには声を出してしまった。このやろう、そんなに笑わなくてもいいじゃんかぁ!
「ぷっ、ははは!なんだそれ!あははっ、ちょ、ま、腹いてえ!」
『な、なによう!しょうがないじゃん、失敗しちゃったんだから!』
「いや、つーか誰が見てもわかっ…ぶはっ!やっべ!あはははは!!」
『そんなに笑わなくてもいいでしょ!?』
ツボったのかしばらく爆笑してた高尾くん。ようやくおさまってきた頃には目尻にうっすら涙すら浮かんでて本気で笑ったことが伺えた。わたしも腕が疲れたし何よりすでに見られたのでもう前髪は隠してない。それを見てまた少し笑う高尾くん。悔しい、なんていう男だ!彼氏ならお世辞でも可愛いの一言くらい…!え、ちょ、そんなヤバいの!?
「ふ、そんな拗ねんなってー。別にバカにしたわけじゃねえぜ?」
『…うそ。バカにしてたよ』
「してねえって。ほら、あんまり可愛くてさ」
『それがしてるのよ!』
わたしが欲しいのはそんな「可愛い」じゃないしね!
「マジだって」
そう言って高尾くんがわたしの背中に手を回し、引き寄せる。少し背が反ってわたしの体は高尾くんに近づき、彼はそのままちゅっと前髪にキスを落とした。
「可愛いよ。短い前髪も、つばきによく似合ってる。だからもっとじっくり見させてくんね?」
高尾くんはずるい。
…そんなこと言われたらもう何も言えないじゃないかっ。
(やー、ほんと可愛いわ)(…そう?)(うん。なんか、子供見てる気分)(!なにそれっ!結局そういう可愛い…)(ウソウソ、じょーだんだから!)(…このやろ)
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120902/失敗した前髪にキスをする
アニバスの高尾のかっこよさったらもう